第二章 夏目 雫の物語

第一話 濡れた音符

夏目雫は、いつだって明るかった。

朝の教室では、一番に大きな声で「おはよう!」と挨拶をする。

その声は、まるで教室の澱んだ空気を一瞬で温めるようだ。

誰かが返事を返す前に、すでに笑顔が弾けている。

昼休みには、友達の輪の中心にいつも雫がいた。

その周りには、途切れることのない笑い声が響く。

誰かが困っていれば、すぐに駆け寄って助け舟を出す。

まるで、そこに太陽がいて、周囲を照らしているかのような、そんな存在。

それが、夏目雫。

周りのみんなは、そんな雫の明るさに、いつも救われているようだった。

彼女の笑顔は、教室の片隅で小さくなっている生徒にも、

廊下で俯いている生徒にも、平等に降り注ぐ光だった。

だからこそ、みんなが雫を慕い、彼女の周りにはいつも人が集まった。

雫自身も、そうした役割を、どこか無意識に演じ続けているようだった。

明るく振る舞うことが、彼女自身の存在証明でもあったからだ。

もし、この明るさがなければ、自分は価値のない人間になってしまうのではないか。

そんな漠然とした不安が、心の奥底には常にあった。


けれど、その明るさの裏には、誰にも見せない、小さな後悔があった。

心の中に、ずっと引っかかっている、取れない棘のように。

それは、幼馴染であるユウキとの間に生じた、過去のすれ違いだ。

小学校の卒業を目前に控えた、冬の終わりのあの日。

卒業文集の係だった二人。

放課後の図書室は、いつも私たちだけの秘密基地だった。

その日も、夕焼けが差し込む中で、文集のレイアウトについて話し合っていた。

些細な意見の食い違いが、いつの間にか大きな言い争いになってしまった。

「雫のアイデアはいつも突飛すぎるんだよ!もっと現実的に考えようよ!」

ユウキが、珍しく強い口調で言った。

その言葉に、雫の心はカッと熱くなった。

「どうして、いつもそうやって人の意見を否定するの!?私の気持ちも少しは考えてよ!」

感情的になった雫は、ユウキの心をえぐるような言葉を吐いてしまった。

ユウキの、深く傷ついた瞳。

雫の言葉が、ガラスのように砕け散り、ユウキの心を傷つけるのが見えた。

唇を強く噛みしめ、何も言い返せないユウキの顔を、雫は今でも鮮明に思い出す。

その悔しさと、悲しみが混じった表情は、律の心に焼き付いている。

「もういい!」と、ユウキは震える声で呟き、背を向けて図書室を飛び出していった。

あの時、なぜ素直に謝れなかったのだろう。

自分の非を認め、頭を下げることなんて、簡単なはずだったのに。

悔しさと、プライドが邪魔をした。

「ごめんね」も「ありがとう」も言えないまま、

二人の関係は、ゆっくりと、けれど確実に離れていった。

あの日の夕方から降り始めた雨は、まるで雫の心を洗い流すかのように、

翌日も降り続いていた。

その雨音が、今も心の奥で響いているようだ。


春。

奇跡的に同じ高校に進学できた二人。

だが、クラスは違った。

廊下ですれ違うたび、互いに視線を逸らすようになった。

一瞬、目が合う。

互いに言葉を探す。

だが、すぐに、それぞれの方向へ視線をずらす。

まるで、そこに互いが存在しないかのように。

かつては、何でも話せる、心を許し合える親友だったのに。

秘密を共有し、笑い合い、泣き合った日々。

あの頃の輝きは、もうどこにもない。

今は、ただのクラスメイト。いや、それ以下かもしれない。

あの頃の、輝いていた友情を、もう一度取り戻したい。

何度もそう願った。

心の中では、毎日ユウキに謝罪の言葉を繰り返す。

「ごめんね、ユウキ。あの時は、本当にごめんね。」

けれど、どうすればいいのか、分からない。

一度こじれてしまった関係は、どうすれば修復できるのだろう。

言葉にすれば、さらに溝が深まる気がした。

取り返しのつかないことになるのが、何よりも怖かった。

雫の心には、いつも、雨上がりの空のような、

切ない曇り空が広がっていた。

まるで、五線譜の上に、濡れて滲んだ音符が並んでいるようだ。

指で触れると、すぐに消えてしまいそうな、不安定な音符。


放課後。

部活動の合唱部の練習を終え、雫は校舎裏の古びた掲示板の前を通った。

美術部の生徒が、新作のポスターを貼っているところだった。

絵の具の匂いが、夏の熱気を帯びた空気に混じる。

その脇で、数人の女子生徒が立ち話をしているのが見えた。

何気ない会話が、風に乗って雫の耳に届く。

スマホを覗き込みながら、楽しそうにひそひそ話している。

その声は、弾んでいる。


「ねえ、最近『ココロノオト』ってやつ、すごい流行ってるよね!」

一人の子が、興奮した声で言った。

「あー、あのボカロ投稿サイトの?私もよく聴いてる!なんか、すごいエモい曲が多いんだよね。マジ泣きできるやつとか」

別の友達が頷き、深く同意する。

「最近ね、特にQRコードラブレターがすごいんだって!」

「え、QRコードラブレター?なにそれ、また新しいやつ?」

「うん!自分の気持ちを歌にして投稿して、できた歌のページにはQRコードがついてて、それを印刷したら簡単に誰かに見せられるらしいよ」

「すごい!なんか、ちょっとロマンチックだね!匿名だから、誰にもバレないし、本音で歌えるのが良いんだって」

「ね!誰にもバレずに、自分の本音が伝えられるんだよ?直接言えない気持ちとか、絶対歌にしたくなるって!」

「へえ、それ、私も誰かに送ってみたいかも!秘密の想いを歌にするなんて、ドキドキするね」

サキの声が弾んでいる。

その会話の内容が、雫の心に深く刺さった。

匿名。歌。想いを伝える。


雫は、その言葉に思わず足を止めた。

心臓が、微かに跳ねる。

ココロノオト。

QRコードラブレター。

自分の気持ちを、歌に乗せて匿名で。

その言葉が、雫の心に、小さな波紋を広げた。

まるで、長い間止まっていた時計が、再び動き出したかのように。

ユウキへの「ごめんね」と「ありがとう」。

口に出せない、後悔の気持ち。

あの日の出来事を、歌にする。

もし、歌になら。

もし、匿名でなら、ユウキに伝えられるかもしれない。

ユウキなら、きっとあの歌を聴けば、私の気持ちに気づいてくれるはず。

そうすれば、きっとあの時の誤解も解けるかもしれない。

凍り付いていた雫の心に、微かな光が差し込んだようだった。

それは、厚い雲の切れ間から、うっすらと架かり始めた虹のようにも見えた。

希望の光。


家に帰り、自室のベッドに座り込む。

窓の外は、もう夕暮れ時。

オレンジ色に染まる空が、雫の顔を淡く照らす。

今日の会話が、頭の中を駆け巡る。

「ココロノオト」。

ユウキとの間にできた深い溝。

あの日の後悔。

その全てを乗り越える。

本当の友情を取り戻すために。

もしかしたら、このサイトが、

私とユウキの間に、もう一度、

心の虹を架けてくれるかもしれない。

雫の指先が、わずかに震える。

スマートフォンを握りしめ、サイトの入り口を探し始める。

心の中に、小さな、しかし確かな決意が芽生え始めていた。

もう、このままではいられない。

あの頃の友情を、取り戻したい。

その強い願いが、雫を突き動かしていた。

新しい一歩を踏み出す時が来たのだ。

雨上がりの光が、雫の未来を照らしているようだった。

明日から、私の世界も、少しだけ色を変えるだろう。

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