第五章:声の断片

——夢を見ていた。

けれど、それは夢と呼ぶには、あまりにも輪郭りんかくがはっきりしていた。

まるで、かつて確かに“あった”情景が、静かに再演されているかのように。


窓から差し込む西日にしびの光。

柔らかな木の匂い。

そして——声。


「……また、会えたね」


それは、間違いなく白川実果の声だった。


けれど、私は返事をすることができなかった。

口が動かない。声も出ない。


伝えなければならない。何か、大切なことを——

けれど、言葉は喉の奥で引っかかり、視界はかすんでいく。


——私は、目を覚ました。


汗が額を濡らしていた。

机の上には、ノートが置かれている。


  《10月20日(土)》


日付は、前日より一週間“前”の土曜日を示していた。


スマートフォンのカレンダーも、同じ日付を指している。


——おかしい。

昨日も、木曜日だった。

その前も、木曜日だった。

じゃあ、その前は……?


時間は、巻き戻っていた。

けれど——日記だけが、そこに残っていた。


前夜に書いたはずの記録はない。

代わりに、新しいページの端に、鉛筆えんぴつでこう書かれていた。


  《“今度こそ”、忘れないで。》


私は手で紙をなぞった。

筆跡ひっせきには、見覚えがあるようで、ない。

それでも、それが“私の”字だと、直感だけは告げていた。


________________________________________


その日、学校に足を踏み入れた瞬間、ほんのわずかに空気が引き締まっている気がした。

昨日までと同じ風景のはずなのに、なにかが違っている。


教室に入ると、誰かの机の上に小さな花びらが乗っていた。

季節外きせつはずれの、桜のような白い花びら。


それは風に吹かれて、すぐにどこかへ舞っていった。


私は、自分の席につきながら、もう一度ポケットの中のメモを取り出す。


  《この時間、二度目だよね?》


——違う。

“二度目”なんかじゃない。

もっとずっと、繰り返している。


記憶は消され、書き直され、

でもどこかに“前の私”の痕跡が残っている。


私はまだ、全部を思い出せてはいない。

でも確信だけはある。


「……私、誰かと“約束”してた」


誰と? 何を? いつ?


記憶の糸は、途中ではさみでも入れられたように、不自然にぷつりと断ち切られている。


________________________________________


昼休み、私は図書室へ向かった。


理由はない。ただ、そこに“何か”がある気がしたから。


静かな本棚の間を歩く。

自然科学の棚の前で立ち止まると、視界の隅に“裏返しの背表紙”が目に入った。


前と、同じだ。


私はそれを手に取り、そっと開いた。


『空白に書かれたもの』


著者名ちょしゃめいはにじんで読めなかった。

けれど、ページの間に一枚の紙が挟まっている。


  《記録されなかった声は、どこに消える?》


——その問いに、私は答えることができなかった。


手が、かすかに震える。

ページの端に、見覚えのある走り書きがあった。


それは、明らかに私の字だった。

けれど、書いた記憶はない。


私が書いたのか、それとも——“誰かの記憶”なのか。


________________________________________


図書室を出たとき、空気が少しだけ変わっていた。


蛍光灯がかすかに明滅めいめつする。

誰かに見られているような気配。


私は振り返る。

誰もいない。


けれど確かに、背後に“視線”を感じた。


それは、善意ではなかった。

むしろ——意志のようなものを。


私は思わず、独り言のように呟いた。


「……ここは、本当に現実なの?」


そして、その声が誰かに届いたような気がして——

その瞬間、目の前の廊下が一瞬だけ“揺れた”。


空間のほころびが、まるで薄い膜を破るように、無音の波紋はもんとなって広がった。

私は、目を逸らさなかった。

むしろ、その歪みに向けて問いを投げた。


「見えるなら、教えて」


誰にともなく、でも確かに“誰か”に向けて私は言った。


「……私は、何を、忘れさせられたの?」

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