第3話「終点のない夏休み」

 夏の午後、図書館の中は静まり返っていた。

 誰もいない読書席に、エアコンの微かな唸りだけが響いている。


 僕は、いつもの席にいた。窓際の木の机。

 陽射しを避けるように置かれた観葉植物の影が、机の上にレースのような影を落としている。


 膝に楽譜ノートを置いて、ベートーヴェンの小さな楽曲をこっそり指でなぞっていた。

 暑さのせいか、頭の中はぼんやりしていて、集中できないままページをめくる。


 そのときだった。


「……静かにできててえらいじゃん、相原くん」


 耳元に、そっと落ちてきた声。

 そして、涼しげな風のように横の席に座ったのは、深谷美咲(ふかや・みさき)さんだった。


 同じ中学の、同じ学年。でも、あまり話したことはない。

 図書館でたまに顔を合わせて、ちょっとだけ話すようになっただけの関係。


 けれど彼女の存在は、ひと目で印象に残った。


 制服のシャツを少し大きめに着て、袖をまくっている。

 スカートは校則より少し長めの長さだけど、きちんとアイロンがかかっていて、歩くたびに布がさらりと揺れる。


 そして、何より目を奪われたのは、その髪だった。


 濡れたような黒のロングヘアを、ゆるくひとつに束ねて肩にかけている。

 図書館の薄暗い照明の下で、その髪が艶を帯びて光っていた。


 クールで、近寄りがたくて、でもなぜか放っておけない。

 まるで——高貴な人を乗せるお召列車みたいだなって、思った。


 ある日、僕が咳き込んでいたら、

 美咲さんは何も言わずに、自分の水筒を差し出してきた。


 僕が戸惑っていると、「気にしないで。洗ってあるから」って、目を逸らしながら言った。

 たぶん、誰にでもそんなふうに優しいわけじゃない。


 僕は、彼女のそんなところが好きだった。


 告白したのは、夏休みの最後の日だった。


 図書館の階段の踊り場。

 いつもより遅くなって、もうすぐ閉館のアナウンスが流れる時間。


 美咲さんは、小さなリュックを背負って、ノートを抱えていた。

 制服じゃなく、薄手のカーディガンに明るいベージュのロングスカート。

 歩くたびにその裾が階段の段差にふわりと揺れて、まるで天女の羽衣のようだった。


「あのさ……ぼく、美咲さんのことが、すきです」

「……よかったら、付き合ってほしい」


 彼女は、しばらく黙っていた。

 そして、ほんの少しだけ、困ったように笑った。


「……なんで私に、そんなこと言うの?」


「なんで、って……だって、好きだから」


「ふーん……」


 階段の外から、セミの声が遠く響いていた。

 彼女は階段の手すりによりかかって、そっと目を閉じた。


「……私ね、誰にも見せないことが多すぎるって、よく言われるんだ」

「……そういうのって、めんどくさいと思わない?」


「思わないよ」

「むしろ……それが、好きだったんだ」


 彼女は何も言わず、ただ静かに目をそらした。


「……ありがとう。でも、私は……誰かとそういうふうになる感じじゃないと思う」


 それが、彼女なりの答えだった。


 その夜、僕は模型棚の前に座って、そっとスイッチを入れた。

 C62が前照灯を光らせながら、小さなレールの上を滑るように動き出す。

 うしろには、前回の食堂車、そして今夜新しく加えた一両——青い郵便車。


 ブルートレイン仕様のスユ15。

 窓の数は少なく、車体もどこか寡黙で、だけどしっかりと他の車両とつながっている。

 あの子みたいだ、と思った。


 自分の気持ちを、声に出して話すことはなかったけれど、

 あの目の奥には、誰かを気づかう優しさが、ちゃんとしまわれていた。

 誰にも知られずに、大切な何かをそっと抱えて走っていく、そんな車両のようだった。


 模型の線路には、ぼくが作った小さなホームがある。

 その前を、青い郵便車は静かにすべるように通り過ぎていく。


 止まらない。けれど、どこにも行かないわけじゃない。

 たしかに何かを届けようとしていた。そう信じたくなった。


 「……三両目、通過」


 ふられた。だけど、不思議と泣かなかった。

 胸の奥に、ほんの少しだけ涼しい風が吹いたような気がした。


 僕の列車はまだ短くて、いびつで、不格好で、終点もわからないけど、

 それでも少しずつ、つながっていく。


 きっと、夏休みが終わっても、心のなかのこの旅は——

 まだ、通過駅の途中なんだと思う。

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