第2話「テーブルランプと笑い声」
土曜の午後、夕方の教室には誰もいなかった。
ぬるい春風が窓から入り込んで、ホワイトボードのマーカーのにおいをかすかに運んでくる。
僕は、古びた木製の机に肘をついて、ぼんやりと問題集を開いていた。
小学6年になって通い始めた、駅前の小さな進学塾。
僕はあいかわらず内気で、誰とも目を合わせずにただ席について、終わればすぐに帰るだけの「透明な生徒」だった。
でも、ひとりだけ、僕に話しかけてくれる子がいた。
「え、なにその答え。まじ理系男子って感じじゃん。うち絶対感覚で解いたけど、これ合ってた〜」
杉本梨花(すぎもと・りか)さん。
明るくて、よく笑う女の子。大きな黒目がちょっとツリ気味で、猫っぽい顔立ち。
いつも長い髪を横でひとつにまとめていて、しゃべるたびにそのポニーテールがぴょん、と揺れる。
この日は春らしいライトブルーのシャツに、ひらひらとしたベージュのスカート。膝より少し上の丈が、風に吹かれて柔らかく波打っていた。
「相原くん、ノートまじ丁寧すぎて草なんだけど。あー、写させて〜」
そう言って、彼女は僕のノートに身を乗り出してくる。
ほんのり甘いシャンプーの香りがした。耳元でポニーテールがふわりと揺れて、思わず心臓が跳ねた。
きっと、好きだった。
声をかけられるたびに、視線を向けられるたびに、なにかが胸の奥でかすかに鳴った。
僕はただの「塾友達」だってわかってた。
でも、放課後の誰もいない塾の教室で、二人並んでプリントを解いている時間が、なによりも心地よかった。
告白したのは、塾の帰り道だった。
ちょうど春の風が強くて、交差点の信号がチカチカと点滅していた。
彼女はスカートのすそを押さえて笑いながら、僕のほうを振り返った。ポニーテールが風に踊る。
「ねえ、どうしたの? さっきから顔、真っ赤だけど」
「……あのさ、杉本さん」
「ん?」
「ぼく、杉本さんのこと、すきです。……付き合ってほしい」
一瞬、風が止んだような気がした。
梨花は目をぱちくりとさせて、それからちょっと照れくさそうに、でもあっさりと笑った。
「あ〜、ごめん! うち、そういうの全然考えてなくて〜」
手を合わせて、ペコリとおじぎ。
風に吹かれたスカートがふわりと舞って、彼女の影が僕の足元に重なった。
「でもさ、うち相原くんみたいな男子、まじ嫌いじゃないから! またノート貸して〜」
それは、優しいけど確かな「ふられ方」だった。
その夜、僕はC62の後ろに、はじめての客車をつないだ。
中古屋で見つけた、ブルートレイン「北斗星」の食堂車。深いブルーの車体に、金色の帯。窓にはカーテンが描かれ、車内には赤いテーブルクロスとランプの灯りが再現されていた。
スイッチを入れると、真っ黒なC62が、鮮やかな食堂車をゆっくりと引いて動き出す。
現実ではありえない編成かもしれない。
でも、ぼくのNゲージの世界では、なんでもつながっていいんだ。
小さなヘッドライトがレールを照らし、
食堂車の窓に灯るランプが、部屋の壁に柔らかな明かりを落とす。
——まるで、杉本さんの笑顔みたいだな。
明るくて、にぎやかで、どこかあたたかい。
ほんの短い時間だったけど、彼女と過ごした放課後は、たしかに僕の心を照らしてくれた。
列車は、たった二両の編成で、静かにレールを回る。
でもそれは、始まったばかりの旅だった。
「……二両目、連結完了」
次の駅は、きっとどこかにある。
僕は、音もなく走る列車に目をそっと向けた。
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