第12話 地下鉄の闇(1)

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、陽が傾き始めた頃、四人は小机城址公園を後にした。最寄りのJR駅へと向かい、そこから横浜線に乗り込む。わずか一駅で新横浜駅に到着した。


 新横浜の駅ビル地下に広がる通路を進み、陽介が慣れた様子でセキュアな扉を開ける。そこには、JR東海が極秘裏に運用する、地下開発室があった。


 朽木に事前連絡し約束を入れていたものの、休日にもかかわらず出勤させてしまったことに、陽介は恐縮しきりだった。開発室の中央には、様々なモニターや最新機器が並び、その奥から車椅子に乗った朽木が現れた。彼は穏やかな表情で翠蓮に視線を向けた。

「座ったままで恐縮。朽木と申します。君が、金華猫チンホヮーマオに憑依されていた女性だね。」


 朽木の落ち着いた声に、翠蓮すいれんは警戒することなく、顔の横に手のひらを添えて、にこやかに答えた。

「翠蓮だよー。」


 その言葉遣いは、以前の妖艶さや絶望ではなく、親しみやすい、しかしどこか幼さを残した響きだった。朽木は翠蓮の様子を注意深く観察しながら、静かに頷いた。


 朽木は車椅子に座ったまま、翠蓮の目を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし明確な口調で語りかけた。

「翠蓮さんが、こうして生還できてよかったと、私も心から安堵しています。もし、君の意識が完全に戻らず、金華猫に完全に肉体を乗っ取られていたら、我々は……」


 翠蓮が不安げに尋ねる。

「アーシ、どうなってたの?」


 朽木は冷静な真顔で、翠蓮の目を見据えたまま言葉を続けた。

「銃器を使ってでも、粛清せざるを得なかった。」


 その冷徹な言葉に、翠蓮は大きく目を見開いた。彼女の命の、すぐそこにあった危機を、朽木の言葉が現実として突きつける。


 朽木は、翠蓮の反応を確認すると、深々と頭を下げた。

「失礼ながら、もし許されるのであれば、翠蓮さんの現在の身体の状態を詳しく確認させていただけないでしょうか。金華猫に憑依された者が、どのような変異を遂げているのかの調査。これは非常に稀なケースであり、今後の基礎研究に多大な貢献をもたらします。どうすれば元の状態に戻せるのかというアプローチにもつながります。」


 朽木の申し出に戸惑いを見せる翠蓮。

 朽木は、翠蓮の意思を尊重する姿勢を見せた。

「医療スタッフをつけ、最大限の配慮をします。もちろん、断っていただいても構いません。」


 翠蓮は少し考え込み、その視線は足元の床を彷徨った。

 過去の忌まわしい記憶が、彼女の脳裏を駆け巡る。そして、意を決したようにバツが悪そうに上目づかいで朽木に問う。

「アーシが、お腹減って、がまんできなくて、命を吸っちゃった男の子たちは、どうなったのか、しらない?」

「……確認できる二十二名は確保し、医療施設に送致しました。こちらで開発したFUMという装置を貸出して、モノノフ……というひとびとの協力を仰ぎ、生命力を回復しつつあります。」


 翠蓮はハッと息を呑み、目を見開き顔を上げる。

「ほんとにっ、助けてくれてるの?」

「我々は、怪異の収拾に対しては、可能な限り手配しています。」


 少し時間をおき、翠蓮はまっすぐに朽木をみつめる。

「そっか……助けてくれてるんだ……。」

 翠蓮は安堵し、答えた。

「えっとあの、検査は痛くなかったらいいかも……です。あと、エッチなのもー、だめだから。」


「エッチ」という単語に、朽木の眉がピクリと微かに動いたが、彼はすぐに表情を引き締め、冷静なまま翠蓮に頭を下げた。

「ご協力、心より感謝する。最大限の配慮を約束しよう。」


 その言葉に、翠蓮はパッと顔を輝かせ、まるで幼い子供がご褒美をもらったかのようにほっとした表情を見せた。陽介と琴音も、固唾を飲んで見守っていただけに、翠蓮の協力に安堵の息をついた。


          ・


 コンコン、と控えめなノックの音が開発室に響いた。

「失礼。朽木くんが本日出社されていると聞いたのでね。」


 入ってきたのは、この地下開発室を提供している、JR東海・新横浜駅の駅長、中西だった。彼の顔には、常に柔和な笑みが浮かんでいる。しかし、その目は、陽介たち一人ひとりを値踏みするかのように、奥深い光を宿していた。

「おや、九条くんも白河さんも。」


 中西は、陽介と琴音を見て微笑み、二人は会釈を返した。中西の視線が、室内にいた夜織と翠蓮へと向けられる。

 夜織は清楚な黒いワンピースに身を包み、翠蓮は流行のギャル系ファッション。どちらも人間離れした、ただならぬ存在感と、内側に秘めた強大なエネルギーを醸していた。特に翠蓮からは、金華猫の妖気が完全に消え去ったわけではない、しかしどこか親しみやすい、矛盾したオーラが陽炎のように揺らいでいるように見えた。


 中西の柔和な笑みが、一瞬だけ、微かに引き締まるのを、陽介は見逃さなかった。

「こちらのお二人は?」


 中西の問いに、この研究室の責任者である朽木が冷静に紹介した。

「以前お話ししたことがあるかと思います。こちらが、三百年前の封印から甦った夜織さんです。」


 中西は夜織を見て、感嘆の声を漏らした。

「なんと、あの蜘蛛の化身という。お話はかねがね伺っております。まさか、お目にかかれるとは。」

 「夜織と申します。」


 朽木は続けて、翠蓮を紹介した。

「そしてこちらが、先日の中華妖怪・金華猫の被害者であった、李翠蓮さんです。」


 中西は、翠蓮の顔を見て、安堵の表情を浮かべた。

「中華街で起きた憑依事件に遭われた方ですね。ご無事で何よりでした。」


 翠蓮は、中西の言葉に少し照れたように「はーい」と返事をした。


          ・


 朽木による翠蓮の状態確認が進められている頃、中西駅長は陽介たちを別室へと招き入れた。そこは、遮音設備が施された重厚な会議室で、テーブルの上には新横浜駅周辺の広域地図が広げられている。

「先ほど朽木くんとこれからお話しする件について、少し会話をしました。」

「朽木くんの推薦もあり、九条くん、白河さん、そして夜織さんにもお願いをしたく。」


 中西の表情は相変わらず柔和だが、その声には真剣な響きがあった。

「現在、新横浜駅で、奇妙な『神隠し』が頻発していましてね。」


 中西は、地図上の特定の場所を指差した。それは、横浜市営地下鉄ブルーラインの改札付近から、新幹線への乗り換え通路へと続くエリアだった。

「最初の報告は、ほんの些細なものだったのです。『改札を通ったはずの乗客が、なぜか次の瞬間には消えていた』とか、『案内表示が突然、意味不明な文字に変わった』とか。最初は、システムエラーや乗客の勘違いだと片付けていたのですが……」


 中西はそこで言葉を切ると、深く息を吐いた。

「この数週間で、行方不明者が十数名に上っているのです。特に顕著なのが、地下鉄・新横浜駅を利用した人々です。入ったきり、出てこない。あるいは、一度出たはずなのに、またすぐに同じ場所に戻ってきてしまう。」


 陽介はアンダーグラウンドな掲示板で読んだことのある、地下鉄の怪異を思い出し、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「新横浜五路線の駅長による、新横浜駅長会でも議題に上がりましたが、とてもではないが公にはできません。パニックになりますからね。そこで、横浜市営地下鉄・新横浜駅の駅長が、先日怪異に遭遇した私たちJR東海に、極秘の協力を求めてきたのです。彼らは、この現象が通常の事故や事件ではないことを直感している。そして……『これも怪異ではないか』と。」


 中西は、陽介、琴音、そして夜織の顔を一人ずつ見つめた。

「朽木くんにお伺いしたところ、FUMは医療機関で使用中とのこと。少々落胆しましたが、しかし九条くんがプロトデバイスという試作品をお持ちだとか。」

「はい。」

「さらに夜織さんの妖怪に関する知見、そしてモノノフである白河さんにおすがりすれば、この未曽有の事態について、情報収集することができるのではないかと考えました。」

「情報収集、ですか?」


 陽介は、てっきり解決への具体的な協力を求められるものと思っていたため、その言葉に一瞬、戸惑いを覚えた。しかし、次の瞬間、中西の口から語られた事態の規模に、その戸惑いは驚愕へと変わった。

 「はい。解決に至らずとも、何がおきているのかをまずは調査したいのです。実は類似の事件が都内の一部に加え、名古屋や札幌の地下鉄でも起きているという報告がある。そちらに対してもアプローチできる情報が是非欲しいのです。」


 中西は、テーブルに置かれた封筒を陽介の方へ滑らせた。中には、数枚の写真と、簡易的な被害報告書が入っていた。写真には、不自然に歪んだ通路や、消えた乗客が最後に映っていた監視カメラの映像などが写っている。

 陽介は、それらの写真に目を凝らし、その異常さに息を呑んだ。特に、監視カメラの映像の一コマを現像した、利用客が無数の手につかまれて壁に引き込まれる瞬間を捉えた写真は、背筋が凍るような不気味さを放っていた。陽介は、思わず腕を摩り、鳥肌が立つのが分かった。


「極秘ですが、協力してほしい。もちろん、報酬は弾みますし、必要なものがあれば惜しみなく提供しましょう。ただし、これは決して公にはできない。日本の鉄道網の安全と信頼を守るためにも、繰り返しますが極秘裏に事を進めたい。」


 中西の目は、柔和な笑みの奥で、一切の感情を排したかのような、鋼鉄の光を放っていた。それは、新横浜駅という巨大なターミナルを統括する者の、絶対的な責任感と、必要とあらば非情な判断も下す覚悟を感じさせるものだった。


 陽介は、封筒の中身を手に取りながら、琴音と夜織に視線を送った。彼らにも、この要請の重みが伝わっているようだった。


          ・


 翠蓮の状態確認が終わるのを待ち、陽介、琴音、そして夜織は朽木と合流した。朽木は、翠蓮の状態について簡潔に説明した後、彼らを再び会議室へと招き入れた。新横浜駅で頻発している「神隠し」の件について、改めて話し合うためだ。


「焦らなくて良いと思っている。」


 朽木は、資料に目を落としながら、静かに言った。

「これは、慎重を期すべき事態だ。君たちは、丁寧に、安全第一で情報収集してくれたまえ。」


 その言葉に、陽介は緊張の面持ちで頷いた。ただの行方不明事件ではない、地下鉄という巨大な迷宮に潜む未知の脅威。陽介は、先ほど見た監視カメラの映像に映っていた無数の手を思い出し、無意識に身震いした。


 会話を終え、一行は新横浜駅のコンコースへと向かった。ここで翠蓮とは別れることになっていた。

「みんな、まったねー! いつでも呼んでねー!」


 翠蓮は、笑顔で手を振り、伊勢佐木長者町へと続く横浜市営地下鉄の改札へと向かっていった。その足取りは軽く、憑依されていたことの影はほとんど見られない。


 陽介は、翠蓮の背中を見送りながら、言いようのない不安を抱いた。琴音もまた、腕を組み、心配そうな面持ちで改札を見つめている。夜織は何も言わないが、その瞳の奥には、どこか警戒の色が宿っていた。

 陽介、琴音、夜織の胸中には、中西から聞いた怪異の具体的な情報が重くのしかかっていた。

(あの、消えた人たちと同じ場所を通って帰るのか……)


「まさか、ね。」

 琴音がつぶやく。


          ・


 別れた翠蓮の背中を見送っていると、琴音のスマホが軽快な着信音を鳴らした。液晶画面には「美琴さん」の文字が光っている。

「お母さん、どうしたの?」


 琴音が電話に出ると、美琴の明るい声が聞こえてきた。

「琴音、いまね、新横浜の駅なのだけど、ちょっと横浜で買い物をしたくなっちゃって。」

「あれ、私も新横浜にいるよ。」

「あらあら偶然ね……。それでね、多分、ちょっと遅くなるから、夕飯なにか食べて帰ってって言おうと思ってたの。」


 琴音の家は母子家庭で、美琴が唯一の肉親だ。幼少期に父親を亡くした経緯については、美琴の説明は聞くたびに食い違い、どれが本当でどれが創作なのか琴音には分からなかった。単に美琴が天然なだけなのかもしれないとも思っていたが、どこか深い部分に触れさせない壁を感じていた。

「わかった。お母さんも気をつけてね。」


 琴音は電話を切った。

 陽介が心配そうに尋ねる。

「美琴さん?」

「うん。新横にきてたみたい、これから横浜に行くって。」


 琴音の言葉に、陽介の顔に緊張が走った。新横浜から横浜へ乗り換えのない最短ルートは、やはり横浜市営地下鉄ブルーラインだ。その緊張が琴音にも伝わる。


          ・


 翠蓮は、さっきまでの楽しい時間を思い出していた。

(陽介や琴音と水遊びしたの、すっごく楽しかったなぁ。すごく優しい夜織お姉ちゃんもいてくれる。独りきり、人じゃないって思ってたのが、あたたかいお湯みたいに溶けていく)

 ラメのついたバッグからPASMOの入ったパスケースを取り出す。

(朽木さんも、「やっちゃった」ことを……憑依されてた間のこと、だけど……全然咎めずに、むしろ心配してくれてるみたいに、ていねいに調べてくれたし。開発室が何なのかは、まだよくわかんないけど、あそこにいたみんなには、できることならなんでも手伝いたい!)


 翠蓮はそんな、ポカポカするような気持ちで、改札に向かった。

 PASMOを改札に通す。

「ピピッ――」


 エラー。改札が突然閉まり、翠蓮の侵入を阻んだ。

「あらあら、ごめんなさい、急ぎすぎちゃって。」


 後ろから来た女性が、翠蓮の背中にぶつかった。女性は軽く会釈して笑い、翠蓮も曖昧に笑い返した。翠蓮は、その女性の顔に見覚えはないが、どこか親しみやすい雰囲気に、自然と心が和むのを感じた。


 翠蓮が気を取り直して、もう一度PASMOを改札に通そうとした、その時だった。


 ゴオオオォォォ……


 駅構内の喧騒が、まるでノイズキャンセリングされたかのように、一瞬にして遠のき、シンとした静寂が訪れた。同時に、パッと、駅の照明が一斉に落ちた。停電か?


 数秒後、再び明かりが灯り始め、照明が徐々に点灯していく。しかし、それは通常の白い光ではなく、不自然な赤や青、緑といった異様な色彩に変化しながら、まるで心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅を繰り返している。それに伴い、駅構内の風景も歪んで見えた。


「何が起きたの?」

先ほどぶつかった女性と目が合う

「なにか壊れたのかしらねえ?駅員さん、今から大変ねえ」


 周囲の乗客から、ざわめきと戸惑いの声が上がる。そのざわめきすらも、空間の不気味な歪みに吸い込まれていくように遠く感じられた。


 キィィィ……ギィィィ……


 普段は聞こえないはずの、金属が擦れるような不快な軋み音が、どこからともなく、しかし確実に響き始めた。そして、近くのデジタルサイネージや案内表示が、一瞬、ノイズに乱れる。


 翠蓮は、ただならぬ異変を感じ取っていた。肌を粟立たせるような、冷たい妖気の奔流が、地下の奥底から押し寄せてきていた。


          ・


 時は数分前に遡る。新横浜駅コンコース。

 翠蓮に続き琴音の母親も、不穏な影が潜む地下へと向かおうとしている。


(迷ってちゃだめだ、何もないならそれでいい。行かなきゃ……!)


 琴音の脳裏に、あの監視カメラの映像がフラッシュバックした。無数の手に引きずり込まれていく人々の姿。その中に、母がいるかもしれない。そんな想像が、琴音の冷静さを吹き飛ばした。


 反射的に、琴音は市営地下鉄改札に向かう階段に走った、陽介と夜織も、その背中を追う。


 人混みを掻き分け、改札が目前に迫ったその時だった。琴音の視線の先に、ちょうどPASMOをかざし終えた美琴と翠蓮の姿があった。美琴が翠蓮に、にこやかに何か話しかけ、翠蓮も笑顔で頷く。二人が改札を抜けた、次の瞬間――。


キュオォォォン……!


 奇妙な、それでいて耳障りな音が鳴り響くと同時に、改札の向こう側の空間が、水面に石を投げ入れたかのようにグニャリと歪む。

 その状況を遠方に目視した夜織が、咄嗟に己が妖糸を放つ。細く、しかし強靭な糸は、空間の歪みに吸い込まれようとする翠蓮の背に、寸前で届いた。


 美琴と翠蓮の体が、まるで薄い紙のように引き伸ばされ、ぐにゃぐにゃと変形していく。二人は何かを叫ぼうと口を開いたが、声は音にならず、空間の歪みに吸い込まれていく。琴音の目の前で、光の粒となって霧散していくかのように、その姿はあっという間に通路の壁へと吸い込まれ、完全に消失した。


「お母さんっ!」


 琴音の叫び声が、歪んだ空間に虚しく響いた。目の前で起きたあまりにも非現実的な光景に、琴音は呆然と立ち尽くした。心臓が嫌な音を立てて波打ち、全身の血の気が引いていく。


「まさか……」


 背後から追いついた陽介の、震えるような声が聞こえた。夜織もまた、目を細め、その瞳の奥に強い警戒心を宿している。


 数秒後、空間の歪みは収まり、駅の照明も元の白い光に戻った。周囲の乗客は、一瞬のざわめきこそあったものの、何事もなかったかのように再び歩き始めている。まるで、目の前で起きた怪異が、琴音たちにしか見えていなかったかのように。


 琴音は、奥歯を強く噛み締めた。震える拳を握りしめ、顔を上げたその目には、絶望ではなく、燃えるような強い光が宿っていた。


「助ける……必ず、助け出す!」


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