第13話 地下鉄の闇(2)

 地下鉄・新横浜駅の照明は、表面上は正常に回復したように見えた。

 利用客の群れは、何事もなかったかのように改札を抜け、さらに階段を降りてホームへと向かっていく。白河美琴しらかわみこともまた、その流れに乗るように階段を降りようとしていた。


 地下からただならぬ妖気を感じ取っていた、翠蓮すいれんが意を決して叫んだ。

「その先にいっちゃ、ぜったい、ぜったい、だめー!」


 何を言っているんだとでもいうような、訝しげな目線が翠蓮に突き刺さる。

 美琴は翠蓮の方を見て、柔らかな笑みを浮かべた。その目は、普段の朗らかさとは違い、どこか遠くを見透かすように細められていた。


「そうねえ、あなたのいうとおり、確かに何か来てそうね。……冷たい風が吹いてきたみたい。」


 美琴もまた、その場の利用客たちに語りかけた。


「みなさん、一旦上に戻りませんかー。さっきのは明らかに故障です。電車が止まったら、大変ですよー。」


 美琴の言葉に足を止める者もいたが、幾人かは警告を無視して、ホームへと続く階段を進んでいく。

 だが、階段の途中で、まるで粘着質のとばりに包まれるかのように、利用客たちの姿が次々と見えなくなった。

 彼らは悲鳴を上げようとして口を開くが、声は音にならず、もがく腕も、空を掴むことすらできずに、泡のように弾けて消えていく。


「何だあれは?」


 利用客が、何かに包まれ姿を消していく異常な光景に、それを見ていた人々は恐慌に陥り、一斉に改札へと引き返した。


 中年男性が改札脇の窓口で、必死に駅員を呼ぶ。

「すみませーん、ホームで何が起きているか教えていただけませんか?」

 窓口の向こうは煌々と明かりが灯っているが、駅員は誰一人として姿を見せない。

 まるで、そこだけ時間が止まっているかのように、無人の空間が広がっている。

 列車の案内表示板の行き先も、意味不明な文字に化けて読めなくなっていた。


「あの、私は地上に戻りますね。」


 美琴が男性に呼びかけると、翠蓮と目を合わせ、小さく頷いた。

 二人はそのまま改札を抜け、駅の出口へと向かう。地下から立ち上る妖気の奔流は、ますますその勢いを増していた。


 JR新横浜駅側の連絡通路出口に向かおうとする翠蓮と美琴だったが、人の流れがとんでもなく多く、なかなか前に進めない。


「なにこれ」


 翠蓮が思わず声を上げる。


「アリーナでコンサートでもあったのかしらねえ。」


 美琴も首を傾げるが、その人々の顔は虚ろで、まるで何かに操られている傀儡のようだった。

 彼らの足音はなぜかほとんど聞こえず、会話も一切ない。

 ただ、無音で押し寄せる波のように、目的地もなく改札を抜け、同じ場所をぐるぐると回っているように見えた。


「おばさん、こっちに行こう。スタジアムのほう。8番出口。」


 翠蓮は案内板をチェックし、新横浜駅の反対側の出口を目指すことにした。人並みを掻き分け、必死に歩くも、一向に出口にたどり着けない。何度も同じ道を通っているように思えてきた。


「なんだかおかしいよ。」


 翠蓮が不安げに呟く。


「そうねえ。」


 美琴もまた、ただならぬ異変を感じ取っていた。

 ふと、きらりと光る細い糸が翠蓮の顔にかかる。見覚えのある、その妖糸に翠蓮は気づいた。

「これ、小机城の夜織おねえちゃんのだ!」


 糸は、翠蓮たちが向かおうとしている先に続いていた。そして、ふと気づくと、自分の背中にも同じ妖糸がついていることに気づく。

「ループしてるんだ。」


 翠蓮はそう悟った。夜織の妖糸は、この歪んだ空間の中で、彼女たちが同じ場所を何度も巡っていることを示していたのだ。

 翠蓮は意を決して引き返し、妖糸が示す方向へと進む。すると、まるで空間の壁が剥がれ落ちるかのように、それまでの不自然な人の流れが嘘のように消え失せ、駅構内の喧騒が正常なボリュームで耳に飛び込んできた。ループから抜け出すことができたのだ。


 出口の案内板に「8」の文字が見えた。

「こっちみたいよ、ええと?」


 美琴が翠蓮に視線を向け、名前を尋ねる。

李翠蓮りすいれんでぇーす。」

「翠蓮ちゃん、可愛いお名前ね。わたしは美琴、白河美琴しらかわみことといいます。」


 白河という苗字はメジャーなんだろうか、と翠蓮は少し頭の片隅で考えた。

 美琴が8番出口の案内板の前まで辿り着いた、その時だった。

 突然、壁の周囲から何本もの手が現出し、美琴の体のあちこちを掴む。


「きゃあああああ!」


 壁に引き込まれそうになった美琴を見た翠蓮の表情が、刹那、真剣なものに変わった。その瞳が、獣の目に変化する。


「いーんちきぃぃぃ!百烈拳ーえぇぇん!」


 翠蓮が叫ぶと、妖力に任せた”ただの連撃”を放つ。人には出せぬ速度で繰り出される掌底と拳はまさしく、爆裂する金華猫チンホヮーマオの猛攻だった。

 美琴を掴む全ての手を弾き飛ばし、8番出口案内看板前から美琴を避けさせる。


「美琴おばさん、離れてて!」


 翠蓮は、8番出口の看板の太い一本の腕に飛びつく。


「隠れてないで出てこーい!引きずりだすぞー!」


 翠蓮は、8番出口の看板横に伸びていた太い腕を、両手両足で抱え込むように掴み、壁を蹴った。すると、壁からもんどり打って、ねっとりとした音を立てながら、腕が十二本ある不気味な肉体がその姿を現した。その皮膚はまるで死んだ魚のように蒼白く、無数の眼が不気味に瞬いている。


          ・


「でーったな妖怪〜!、十二本も腕があるあんたに、アーシがテキトーにへんな名前つけてやるからねえ!」

 翠蓮は少し考え込んだ後、ニヤリと笑った。


「あんたは、妖怪『イチダース』よ!」


 そう叫ぶと、翠蓮は「イチダース」と名付けられた十二本腕の妖怪に飛びかかった。

 翠蓮に対し、まるで遅回しの映像のようにイチダースの複数の拳が伸びるも、その全てが翠蓮の残像を空しく切り裂くだけで、実体を捉えられない。

(琴音ちゃんに比べたら)

「全っ然んっおそい!」


 翠蓮はイチダースの攻撃を紙一重でかわしていく。そして、次の瞬間にはイチダースの顔面へと肉薄し、翠蓮の鋭く伸びた爪が、まるで紙を切り裂くかのように掠め、いくつかの目から、黒い血がしぶく。


 イチダースの後方に飛び去ろうとした瞬間、一本の腕が翠蓮の右足を掴む。その動きは、先ほどまでの緩慢さが嘘のように素早く、翠蓮の油断を突いた。

(やばっ!)


 翠蓮は咄嗟に身をよじろうとするが、イチダースの腕は強靭だった。そのまま翠蓮を通路天井と壁に2度叩きつける。

 ドムン!ドムン!という鈍い衝撃音が地下空間に響き渡り、翠蓮の視界が大きく揺れる。

「あうっ!」「あうっ!」


 最後は投げっぱなしで石の階段に、投げとばされた。

「ぎゃいーっ!」

 翠蓮は思わず獣のような悲鳴をあげた。

 轟音と共に数段下の石段に叩きつけられた翠蓮は、息が詰まり、全身の骨が軋むような激痛に呻いた。


 美琴が、慌てて翠蓮の方に駆け寄った。呻きながらうずくまる翠蓮を、そっと、しかし力強く抱き抱える。翠蓮の額からは血が垂れてきていた。

 美琴は咄嗟にハンカチを取り出して、優しくその血を拭い取る。

「美琴おばさん、汚れちゃうよ。」


 翠蓮は遠慮がちに言うが、美琴は眉を下げて咎めた。その瞳には、娘を案じるような優しい光が宿っている。

「だめ! うちの子にも言ってるけど、顔に怪我なんかしたら、どうするの? お嫁にいけなくなっちゃうわよ。」


 その言葉に、翠蓮は痛みで歪んでいた顔を少し緩める。

 翠蓮は頭を振って立ち上がった。

「……お嫁さん、きっといくよ、大好きなひとのとこに!ありがとう。今決めた。アーシの結婚式には美琴さん呼ぶから!」


 翠蓮は思わぬ言葉で笑いかける。美琴は目を丸くすると、すぐにふわりと花が綻ぶように微笑んだ。

 自分の娘である琴音と、陽介を巡って鞘当てしていることなど、知る由もない美琴は、ただただ翠蓮の無邪気な言葉に微笑み返すのだった。


 イチダースに対峙する翠蓮の構えが変わる。ミニスカートには、はしたないが、重心を低く落とし、脚のスタンスを広く取ったその姿は、まるで獲物を狙う猛禽のようだった。

 両手は獲物を掴む鋭い爪の形に低く突き出され、その指先からは微かな妖気が滲み出ている。

 それは、中国拳法の中でも実践的な鷹爪拳ようそうけんの構えだ。「拳」とあるが、拳法というよりは、投・打・極すべてを備えた総合格闘技に近い。

 イチダースが殴りかかったその刹那、翠蓮は文字通り視界から消えるような、電光石火の速さでその腕を掴んだ。

 肩を入れ、体重を乗せて逆関節でへし折る。ゴキリ、と骨が砕けるような嫌な音が響き、イチダースの巨体が大きく揺らぐ。


「グアァァァッ!」


 イチダースが苦痛の叫びを上げた。翠蓮は、力任せに殴りかかってくるイチダースの腕を、掴んでは折る、という攻防を幾度か繰り返す。


 やがて、イチダースの腕のうちの半分が、その肘や肩にあたる関節から、不自然な方向に曲がり、ぶらりと力なく垂れ下がっていた。

 まるで、使い物にならなくなった肉の塊のようだ。


「もう、ハンダースかな。」


 翠蓮はフッと笑い、その瞳の奥に、獲物を追い詰める獣のような、冷徹な光を宿してイチダースに向けた。


          ・


 イチダースの動きが変わる。

 半壊した腕も構わず、ゆっくりと両脚と残りの腕に力を溜めながら、確実な足取りで翠蓮に接近する。

 その一歩一歩は、巨象が地面を踏みしめるかのような力強さを持っていた。

 翠蓮は伸びてくる腕や脚を拳で弾こうとするが、まるで柳に風と受け流されるかのように、意に解さない。

 鷹爪拳の関節技は、相手の突進を利用したカウンターの要素があり、ゆっくりとした動作には対応しづらい。

 翠蓮の脳裏に、焦りがよぎる。


 翠蓮は後方に退却するが、あっという間に地下街の通路の角、退路を完全に断たれた状態に追い込まれる。

 イチダースと翠蓮は互いの間合いを潰すように、両腕を掴み合った状態に陥った。

 イチダースは残りの腕すべてで翠蓮の両腕を上から抑えつけ、その圧倒的な質量で足の動きを封じた。

 その上で、翠蓮の両脚が掴まれる。


(まずい!)


 両手に二本、両足に二本の腕で、翠蓮は軽々と持ち上げられた。

 必死でもがくが、パワーに勝るイチダースからは脱出できない。

 イチダースは残りの腕で、翠蓮にボディーブローを打ち込んだ。


「ぐふう!」


 その時、ゴカンッ!と鈍いながらも耳障りな衝撃音が、イチダースの後頭部に走る。


「放しなさい!」


 美琴が、通路にあった消火器を両手に持ち、渾身の力を込めて殴りつけたのだった。

 翠蓮がもがきながら叫ぶ。

 「だめ!やめろおおぉ!」

 イチダースは翠蓮を抱えたまま、顔を怒りで歪ませ、美琴を殴りつけ、跳ね飛ばす。


「美琴さん!」


 翠蓮の叫びが虚しく響く。跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられた美琴が、ぐったりと意識を失っているのが見えた。

(いやだ……やだ……! アーシが巻き込んだのに、美琴さんまで……!)


 翠蓮の顔が哀しく歪む。

(これだけは、したくなかったの。)


 翠蓮の瞳の色が、深淵を覗くかのような、禍々しい金へと変わった。

 大きく開かれた口腔には、通常ではありえないほどに鋭利な牙が覗き、その息は熱気を帯びている。

 悪鬼の如く顔を歪ませながら、翠蓮は目の前のイチダースの、その筋肉が隆起した腕に深く噛み付いた。


 翠蓮の背中から粘りつくような黒い影が立ち昇ると、イチダースの身体から、魂を削り取られるかのような苦悶の声が響き渡った。

 イチダースは幾度も翠蓮にボディーブローを浴びせるが、その反撃は徐々に小さくなっていく。

 その肉体は、生命力を吸い尽くされ、みるみるうちに萎み、皮膚は干からびた木のようにひび割れ、翠蓮を拘束していた腕が力なく外れた。


 そこには、見る影もなく乾涸びた肉体が、通路の冷たい床に音もなく崩れ落ちていた。

 イチダースの存在が消えたことで、周囲を覆っていた不穏な妖気が、少しだけ薄れたように感じられた。


          ・


 顔を濡らす水滴で、白河美琴はゆっくりと目を覚ました。

 ひんやりとした感触が頬に広がり、微かに潮のような、しかしどこか甘いような匂いが鼻腔をくすぐる。

 重い瞼をこじ開けると、視界に映ったのは、膝枕の上の光景。目の前には、顔をくしゃくしゃにして号泣している翠蓮の姿があった。


「生きてた〜! 美琴さん、生きてたよぉぉ!」

 翠蓮はそう叫びながら、美琴の顔に次々と温かい涙を落とし、まるで雨粒のように美琴の頬を濡らしていく。

 その表情は、心底、安堵したように緩んでいた。


「翠蓮ちゃんは大丈夫だったの?」

 美琴が問いかけると、翠蓮は小さく頷いた。


 どうやってあの危機的状況を回避したのか、美琴にはまったく想像できない。

「うん、あいつは、やっつけた。もう二度と、美琴さんを困らせないよ。」


 翠蓮はそう言って、美琴に満面の笑みを向けた。

 かたわらで、なにか乾涸びた塊が、さらさらと消えていくのが見えた。



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