第6話 モノノフだった男
九条陽介と白河琴音は、深夜の静かな住宅街を、口を開かず、疲労困憊の足取りで歩いていた。
琴音は打撲・擦過傷多数、陽介もまた、砕け散ったFUMの残骸が入ったリュックを背負い、重い足を引きずっていた。彼らの心には、鬼に対する不甲斐なさ、役禍角との激戦の余韻と、壊れたFUM、小鬼たちに何もできなかったことの全てがのしかかっていた。
陽介のアパートは、小机駅から徒歩10分ほどの場所にある、築年数の経った2階建ての一室だった。鍵を開け、明かりをつける。散らかった部屋には、所狭しと機械部品や工具が並び、まさに「ギークの巣窟」といった趣だ。
「……とりあえず、休もう」
陽介は、ソファの上の荷物を手で払い除け、琴音を座らせた。琴音はすぐさまソファに横たわり、泥のように眠りに落ちていった。
陽介が救急箱を持ってくる。大した薬品はない。
寝息を立てて眠る琴音の手足に見える痛々しい傷を治療する。ノンアルコールのウェットティッシュで汚れを拭きとり、マキロンで消毒。絆創膏を貼る、青くなっているところには、シップをしておく。なんの知識もない応急処置。
その後、リュックからFUMの残骸を取り出した。メインユニットは完全に砕け散り、配線はむき出しになり、ディスプレイもひび割れている。しかし球状の観測珠だけが、まるで何事もなかったかのように、鈍い光を放っていた。
陽介は、その観測珠を手のひらに乗せ、じっと見つめた。幼い頃、母親を亡くし、研究に没頭する父親が海外を飛び回る中で、孤独に世界を見つめてきた。
父親が再婚もせず、独り身で、研究のみに没頭するのは、自分のせいだと自覚している。自分がいなければ父親はもっと自由に生きられている。
極端にいうと、自分は厄介者で、多分世界に必要ない。それが心根にある。
『想子力場という未知の世界を測定し操作する機械』という、いまこの世にない、世界で唯一のものを作り出せたら、もしかすると世界は自分を必要としてくれるのかもしれない。
そんな浅ましい心の拠り所になっていた。
FUMの破壊は、レゾンデートルの再喪失だった。
「くそ……」
陽介は、観測珠を握りしめ、唇を噛み締めた。再構築は可能だろう。観測珠さえ無事なら、データは残っている。だが、また一から部品を集め、組み上げ、調整する途方もない作業を想像すると、絶望的な気分になった。これまでの時間と労力、そして何よりも、FUMを通して琴音と繋がっていた感覚が失われた喪失感が、陽介の心を深く蝕んでいた。
陽介は手持ち部品で少しでも再生できないか試みた。制御システムを実装していたラズベリーパイのマイクロSDカードを喪失していた。新横浜の新幹線ホームに探しに行きたいとすら思う。
どれだけ時間が経ったか。空が白んできた。
その時、琴音のスマートフォンが振動する。
琴音はぼんやり横になったまま画面も確認せず、寝ぼけた声で応答する。
「はい、琴音……です。あ、お母さん?」
琴音は、はっと顔を上げた。
「……あ、あっ!お母さん?やばいっ」
受話器の向こうから、母親の白河美琴の明るく、しかしどこか見当違いな声が聞こえてきた。
「琴音さん…遅くなるなら連絡する約束でしょう。朝帰りですらないじゃない。いったいどこにいるの?もしかして?……お相手はどなたかしら?」
琴音は、思わず陽介の方に視線をやった。陽介は、耳を澄まして聞いていたのか、ギョッとした顔で琴音を見ている。
「お、お母さん!違うの!ちょっといろいろあって、陽介くんのとこにいるの。」
「まあ?お母さん応援するけど、高校生にはまだちょっと早いかしらね?はやく孫の顔は見てみたいけどねぇ。それにしても、陽介くんは、ちゃんと責任とってくれそう?」
美琴さんの言葉に琴音の顔が真っ赤になる。
「せ、せ、責任って」
陽介の顔も真っ赤になる。彼は口パクで「俺はまだ童貞です!」と琴音に訴えかけるが、琴音は顔を伏せて「お母さん、もう!ばか。」とだけ答える。
「あとで、じっくり、のろけ話をきかせてもらうからね。ちゃんと帰るのよ。」
電話が切れる。琴音は少し呆然としている。申し訳なさそうに陽介の目をみる。
しかし、その顔には、どこか照れくさそうな、そして少しだけ嬉しそうな色が浮かんでいた。陽介は、まだ顔の熱が引かないまま、話題を変えるように口を開く。
「……熟睡してたよ。大丈夫? 体調は?」
陽介は、努めて平静を装って尋ねた。
「うん、寝たら重さは抜けた……あ、絆創膏。ありがとう。」
琴音は、寝てる間に陽介に施された、とんでもなく不器用な傷の処置に気づく。
机上のFUM残骸を見つめて、陽介の目をじっと見る。その視線に気づき、陽介が眉を上げる。
「……大丈夫だ。観測珠は無事だから時間をかければ作り直せる」
陽介はそう言ったものの、その声には、明らかに元気がなかった。琴音は、そんな陽介の様子に気づき、ゆっくりと立ち上がると、彼の隣にそっと座った。
再び、琴音のスマートフォンが振動する。今度は見慣れぬ固定電話からの着信。
琴音は訝しげに画面を見る。横浜市の市外局番が表示されている。陽介も不安げな顔で画面を覗き込む。
「……もしもし」
琴音が恐る恐る電話に出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは事務的な女性の声だった。
「失礼ですが、こちら、白河琴音さんの携帯で誤りないでしょうか。」
「はい」
「こちら新横浜駅の落とし物センターですが、お荷物とお洋服、お忘れではないでしょうか。」
「えっ!はい。」
新幹線ホームに飛ぶ際に、駅横に放置した手荷物、ホームで投げたリュック、ジャケットのことだと琴音は気づく。ジャケットに生徒手帳を残してきていた。おそらくそれで連絡先がわかったのだろう。
「あの、少々お待ちください、駅長にかわります」
「!」
聞き覚えのある、新横浜駅の駅長の声だった。
「あの、新横浜駅長の中西と申します。はじめましてではないと思いますが。」
「……」
琴音は言葉を返せずにいた。鬼を倒せなかった弱い自分、罪のない小鬼を救えなかった自分。彼女の心もまた、それらの出来事に囚われていた。
「申し訳ない、個人情報のコンプライアンス違反ではあるのですが、お礼を言わせてください」
お礼と言う言葉に琴音は少し目を見開く。駅長の声は、先ほどまでの事務的なトーンとは打って変わり、深く、そして真摯な響きを帯びていた。
「あなたの初動で多くの部下の生命が救われました。本当にありがとうございます。」
驚きと同時に、琴音の目に、うっすらと涙が滲む。
「最初に鬼から救い出していただいた女性社員は、来月結婚を控えておりました。」
琴音の頭の中に、ホームで鬼に体を掴まれ今にも身体を握り潰されそうだった女性駅員の姿が浮かんだ。フィジカルに勝る相手に対する戦闘のセオリーを破り、近接攻撃で腕を攻撃し女性を手離すように仕向け、己にヘイトを向ける策を仕掛けざるを得なかったが、その作戦変更が、どれほどの意味を持っていたのか、その言葉で初めて実感した。
「あなたが鬼を抑えていなければ、多くの部下がもっと、怪我をしていたかもしれません…。本当に、本当にありがとうございます。」
駅長の言葉が、白河琴音の心を覆っていた重い雲を、少しずつ晴らしていくようだった。鬼を倒しきれなかった、小鬼たちを救えなかった、激しい戦いの傷跡に苛まれていた彼女の心に、この感謝の言葉は温かい光を灯した。琴音は、電話を握りしめたまま、かすかに頷いた。
「いえ……私たちは、勝手に……」
琴音がそう言うと、駅長は穏やかな口調で言葉を継いだ。
「勝手、か。そうかもしれない。だが、君の行動がなければ、我々はもっと大きな被害を受け、多くの命が失われていた。それは紛れもない事実です」
駅長は一呼吸置き、静かに尋ねた。
「ところで、君の連れが使っていたあの奇妙な装置は、何ですか? 君の、人とは思えぬほどの動きと関係があるのでは?でなければ、役禍角を追い詰めることもできなかったはずだ。私はあちこちの駅で、多くの怪異を見てきたが、あれほど戦況を動かした『道具』を見たのは初めてだ」
警戒し、耳をそばだて会話を聞いていた陽介は我慢できず、琴音の手から電話を奪うようにして耳に当てた。
「なぜ、装置のことを……!?」
陽介の声には、警戒と驚きが混じっていた。
「あ。君もいたのか、ならば話は早い。お名前、お伺いしても?」
「九条、九条陽介といいます」
「中西です……駅長もやってますが、それだけの立場ではない。あちこちで起きる『怪異』に対し我々駅員がいかにして対処し、駅を守るべきかを研究する組織の一員でもある。君たちモノノフの存在を知っていて、時に助けていただいてもいる。」
駅長の言葉は、陽介の合理的な思考に訴えかけるものだった。陽介は厳密にはモノノフではないが。
「あの装置が、どれほど重要な役割を果たしていたか、私は理解している。そして今後のために、強い興味を抱いている」
陽介は、電話口で息を呑んだ。駅長が、自分たちのことをここまで把握しているとは。そしてFUMにまで言及するとは。
「今は、何もお見せできないです。手作りなので再構築には時間がかかります。それに、部品も……」
「いやはや手作りとはすごいな。いや、装置が破壊されたことも承知している。そこでだ。ええと、まずは君たちの忘れ物だが、駅で預かっている。取りに来てほしい」
駅長はそう言うと、少し間を置いた。
「そして、その時に、君たちにモノノフに関する、いくつかの話をしたい。特に九条くん。君が持っていたあの装置について、是非とも聞かせてもらいたいことがある」
話をぶったぎることになるが、陽介には少しだけ引っかかってることがあった。
「一点、いいですか?……あの、まさか……あの強いおっさん…、死んだんじゃ……?」
陽介は、恐る恐る、しかし切実に尋ねた。咄嗟に自分の仕掛けた罠が、あの巨体の男を本当に殺してしまったのではないか、駅に行くと警察が待っているのではないかという、策士の疑心暗鬼、漠然とした不安が彼を襲っていた。
電話の向こうで、駅長がフッと小さく笑った。
「安心したまえ。君のいう強いおっさん、
駅長の言葉に、陽介は全身の力が抜けるのを感じた。死んでいなかった。安堵と、そして少しの拍子抜けが入り混じった表情で、陽介は琴音を見た。琴音もまた、会話の端々の単語と、陽介の様子から事態を察し、少し笑い、安堵の息を漏らしていた。
「……わかりました。お伺いします」
陽介は、電話を切ると、信じられないものを見るように琴音を見つめた。
「琴音さん……すごいよ。FUMを……直せるかもしれない」
陽介の顔に、久々に希望の表情が戻っていた。彼の言葉に、琴音もまた、小さく頷いた。失われたかに見えた希望の光が、再び二人の心に灯り始めたのだった。
「陽介くん、行く前にシャワー借りていい?」
琴音にも気持ちの余裕が出てきたらしい。
「え?」
突然の言葉に、ドキドキする。以前データ越しに映像化して見てしまった琴音の身体を思い出す。平静を装っているが、とんでもないエロ顔になってそうでやばい。
「私、ドロドロの汗だくだから」
目が泳ぐ。『一緒に浴びよう』という一足飛びの言葉を、辛うじて飲み込んだ。
「……Tシャツ、男物のMでよかったら、新しいの出しとくよ」
数時間後。陽介と琴音は、新横浜駅の駅長室にいた。駅長の中西は、彼らを奥の応接室へと通した。室内は整然としており、壁には新幹線の模型や古い鉄道関連の資料が飾られている。
「よく来てくれた。まずは、忘れ物だ」
中西駅長は、琴音のリュックと手荷物、そしてジャケットを差し出した。琴音はそれらを受け取ると、安堵の表情を浮かべた。
「さて、本題に入ろうか、九条くん」
中西駅長は、陽介の手に握られたFUMの残骸に目を向けた。
「君のその装置……私は『FUM』という名称は知らんが、その機能、そしてそれが想子力場に与える影響については、ある程度推測できる」
陽介は、駅長の言葉に身構えた。
「新幹線というのはな、九条くん。ただの乗り物ではない。それは、電子デバイスの塊だ。膨大な電力、精密な制御システム、そして広大なネットワーク。その全てが、この日本の大動脈を支えている」
中西駅長は、立ち上がると、壁にかけられた日本地図の鉄道網を指差した。
「君のその装置が、もし想子力場を制御するものであるならば、この鉄道ネットワークは、君にとって最高の『素材』となるだろう。駅構内には、様々な電子部品が保管されている。古い信号システムから、最新の通信機器の予備パーツまで、多種多様なものがある。君の装置の再構築に役立つものも、きっと見つかるはずだ」
陽介の目が、興奮で輝き始めた。彼の頭の中で、FUMの設計図が、新たな可能性と共に再構築され始めていた。
「さらに言えば、この駅には、君たちが自由に使える場所も提供できる。駅の地下には、かつて鉄道システムの開発に使われていた、今は使われていない古い開発室がある。電力供給も安定しているし、外部からの干渉も少ない。君の装置を再構築し、研究を進めるには最適な場所だろう」
陽介は、驚きと興奮で言葉を失っていた。FUMの再構築に必要なものが全て、この駅で手に入るというのだ。
「無論、今回のような怪異が起きた時に、その装置を使わせていただきたいという下心もあるがね。」
駅長がニヤリと笑う。
「そして、もう一つ。君たちに紹介したい人物がいる」
中西駅長は、そう言うと、奥の扉に視線を向けた。
「彼の名は……『
駅長の声に、僅かながら悲しみが混じった。
「彼は、その戦いの経験から、多くの知識と技術を得た。特に、想子力場の構造の理解や、その人為制御については、私が見てきた中でも随一だった。君のその装置が、もし本当に想子力場を制御する機械だというなら、彼の知識が役に立つかもしれない」
中西駅長が扉を開くと、そこにいたのは、車椅子に座った、痩身の男だった。彼の顔には深い皺が刻まれ、右手は義手、左足は義足になっているようだった。しかし、その瞳の奥には、かつてモノノフとして戦っていたであろう、鋭い光が宿っていた。
「……朽木だ。駅長から話は聞いている。君たちの『装置』とやらに、少し興味がある」
朽木は、静かにそう言った。陽介と琴音は、新たな出会いに、期待と緊張の入り混じった面持ちで、彼を見つめていた。
中西駅長は、朽木を陽介たちに紹介すると、すぐに開発室の案内を始めた。駅の地下深くに位置するその部屋は、かつて新幹線関連の電子機器開発に使われていたというだけあって、広い空間に整然と作業台が並び、各種計測器や工具類が所狭しと置かれていた。壁には配線図や回路図がびっしりと貼り付けられ、陽介の部屋とは比べ物にならないほど、本格的な研究環境が整っていた。
「ここを使いたまえ。必要なものがあれば、駅の備品で対応できる範囲なら提供しよう。もちろん、朽木さんもここにいる」
卓上の金属トレイの上に、見覚えのある回路が、分析されるように丁寧に配置されているのに気づく。騒動の後片付けでホームから回収したFUMの残骸だろう。
「ああ、装置の構成物は、出来うる限り、拾っておいた。役に立つといいが。」
中西駅長はそう言って、陽介に部屋の鍵を渡し、そっと部屋を後にした。残されたのは、陽介、琴音、そして朽木の三人だった。
陽介は、FUMの砕けたメインユニットと観測珠を朽木の前に差し出した。
「これが……僕が作っている、想子力場制御装置、通称FUMです」
陽介は、FUMの概念、観測珠の役割、そして想子力場と卦術の関係について、
「想子力場を操作する術を、モノノフは『卦術』と呼びます。そして、その卦術を定着させる媒体が『符』だ。普通は、熟練のモノノフが自らの想子力場を込めて、儀式的な作法で符を作る。その符を使えるのは、作製した本人か、波長が合ったごく一部のモノノフだけ……ですよね?」
陽介は、比丘尼師匠や琴音から得た知識を確かめるように、朽木に問いかけた。朽木は無言で頷いた。
「『符』は私の場合、調子が良いときで、日に3枚の作成が限界。」
琴音が補足する。
「FUMの場合、観測珠で卦術発動時の想子力場のデータを観測数値化し、それを元に特定の卦術の情報をデジタルデータとして再構築できる。そして、そのデータを測定済みの対象の想子力場に『同期』させることで、誰でも、どんな想子力場を持つ相手でも、卦術を行使できるようになります。」
陽介の言葉に、朽木の表情が、それまでの冷静さを失い、大きく見開かれた。
「無論、行使すれば、使用者の想子力場エネルギーレベルも減少しますので回数無限ではありませんが」
彼の義足の足が、車椅子のフットレストの上で、かすかに震えている。
「……バカな……そんなことが、本当に……!?」
朽木の目が、陽介の手にある観測珠に釘付けになった。彼の知るモノノフの歴史、そして彼自身の経験と常識では、ありえない「理」だった。想子力場とは、個人の肉体や精神に深く根ざしたものであり、それをデジタル化し、普遍的に適用するなど、夢のまた夢、いや、冒涜に等しい概念だったからだ。
「これまで、どれほど多くのモノノフが、自らの体質や、符の生成にまつわる制約に苦しんできたか……。お前は……それを、機械で……!?」
朽木の声は、驚愕と、わずかながら畏怖の念を帯びていた。彼の目には、陽介が単なる「機械いじりの学生」ではなく、長きにわたるモノノフの歴史に、革命を起こす可能性を秘めた存在として映っていた。
陽介は、朽木の反応に、少し嬉しくなりながらも、すぐにFUMの現状の課題へと話を戻した。
「でも、まだ試作段階で、安定性に問題があります。それに、今回の完全に破壊されてしまった。観測珠は無事ですが、メインユニットを再構築するには、もっと高性能な部品と、何よりも『理』を深く理解する必要があるのです。」
朽木は、車椅子の肘掛けに手を置き、顎を撫でた。彼の瞳には、陽介の「装置」が持つ無限の可能性と、それに伴う危険性が同時に見えているようだった。
「なるほど……。興味深い。君の『装置』は、想子力場の『観測』と『再現』を主軸としているわけか」
「そうです。これまでのFUMの挙動は、過去琴音さんにやってもらった卦術発動の『再現』です。」
朽木は改めて陽介のFUMを見つめた。
「だが、君の『観測』は現象の『結果』に過ぎん。『再現』も経験則で導き出した『型』にはめているだけだ。それでは、この世界に蔓延る『
朽木の言葉は、陽介の胸に突き刺さった。彼のFUMは、これまでの彼の知識と経験の集大成だった。しかし、朽木は、その根幹を問うてきたのだ。
「『理』の本質……?」
陽介は、困惑しながら尋ねた。
「ああ。想子力場は、あらゆる事象に宿る『流れ』だ。君の装置は、その流れの『表面』しか見ていない。だが、その深奥には、より根源的な『理』がある」
朽木は、壁に貼られた古い配線図を指差した。
「例えば、この鉄道の線路を見てみろ。単なる鉄の棒ではない。何百万もの人間が、これに沿って日々移動し、彼らの想いが流れている。それは、見えない想子力場の『線路』でもあるのだ」
陽介の視界に、駅構内を走る電車の動き、人々の喧騒、そして地下を流れる電力線が、まるで新たな想子力場の回路図のように見えてきた。
「君の装置が目指すものが、ただ『怪異を倒す』ことだけではないだろう。君はもっと根源的な、『世界の歪み』をデバッグしたいと願っている。ならば、もっと深く『理』そのものと向き合わねばならん」
朽木は、陽介にいくつかの古びた巻物を手渡した。それは、墨で書かれた難解な図形と、筆で綴られた文章が記された、モノノフの術式に関する古文書だった。
「これらは、私の師から受け継いだ。想子力場の真髄、そして古代から伝わる卦術の『原型』が記されている。君の装置と、私の知識を組み合わせれば、新たな『理』を解明できるかもしれん」
陽介は、巻物を手に取り、その重みに身震いした。それは、彼がこれまでデータとしてしか見てこなかった世界の、もう一つの側面を示しているようだった。朽木の言葉は、陽介のFUM再構築へのモチベーションを、単なる修理から、より深い『理』の探求へと昇華させた。
朽木は、陽介に古文書を広げさせ、そこに描かれた複雑な幾何学模様を指差した。
「君のデータは、想子力場の『表面』を撫でているに過ぎん。だが、この図形は、想子力場の『核』、つまり『本質的な振動』を捉えようとしている」
朽木は斜め上に目線をずらし、少し考えて言った。
「振動、そうだ、音に例えよう。音楽の平均律は、一オクターブを均等に12分割したものだ。だが、音の周波数はそれ以外にも存在する。君は、『楽譜』でしか想子力場を見ていないのだ」
朽木は、義手の右手をゆっくりと持ち上げ、空中で見えない糸を辿るように指を動かした。
「怪異の出現、空間の歪み、想子力場の異常な集中……それらは全て、この世界の『理』が歪むことで生じる。君の装置は、その『歪み』を検知し、打ち消そうとしているのだろう。だが、真に重要なのは、『なぜ歪むのか』だ」
朽木は、陽介に、観測珠から得られる想子力場のデータを、古文書に描かれた図形と照らし合わせるよう促した。戸惑っていた陽介だが、朽木の簡潔な指示と、時折挟まれる感覚的な表現に導かれ、これまでFUMが捉えきれていなかった微細なデータ、あるいは無視していた「ノイズ」の中に、新たな規則性を見出し始めた。
「これは……! 想子力場の流れに、特定の『共鳴点』がある。僕のFUMは、それをノイズとして処理していた……」
陽介は、興奮して叫んだ。朽木の「職人的な真理」が、陽介の「科学的な分析力」とFUMのデータ処理能力によって、具体的な『数値』や『パターン』として顕在化し始めた瞬間だった。
朽木は、陽介の発見に満足げに頷いた。
「そうだ。モノノフは、この『共鳴点』を感覚で捉え、自らの体で術を紡いできた。君の装置は、それを『記録』し、『再現』できる。その誤差を限りなくゼロに近づけることができれば、君の装置は、もはや個人の能力に依存しない、普遍的な『卦術行使機』となり得るだろう」
陽介は、朽木の言葉に、自身の研究の最終目標が明確になったのを感じた。FUMの再構築は、単なる修理ではない。それは、朽木の持つ古代の知識と、自身の最先端の技術を融合させ、誰でも怪異の『理』を理解し、対処できる普遍的なシステムを構築するという、壮大な挑戦の始まりだった。
その日から、新横浜駅の地下開発室では、陽介がFUMの再構築と改良に没頭し、朽木がその横で、古文書や自身の経験に基づいた「理」の真髄を語り続ける日々が始まった。琴音は、二人の研究の様子を静かに見守りながら、時折、陽介の実験を手伝ったり、朽木からモノノフの歴史や怪異の性質について教えを受けたりしていた。彼らの協力は、FUMを、そしてモノノフの世界そのものを、新たな次元へと導いていくこととなるのだった。
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