第1巻 第8章:ひび割れの絆
「今日、誕生日だよね?」
カレンダーを見ると、今日の日付に奇妙な絵が描かれていた。誰が描いたかなんて、考えるまでもない。私じゃないのは確か。
昔、太陽と月の観察に基づいた最初の暦が、ずっと前のエジプトで作られたって聞いた。今部屋にあるカレンダーは、そんな複雑なものじゃないけど、理解するのはやっぱり難しかった。だから、日付より窓の外に目を向けることが多かった。
「3歳か」
18歳を過ぎるたび、毎年「忘れないぞ」って自分に言い聞かせた。でも、毎回忘れた。購読してる店の通知だけが、今日が何の日か教えてくれた。
なんで覚えるの難しいんだ? 重要じゃないから? たぶん。年齢が「戻れない線」を越えると、何歳かなんてどうでもよくなる。
今、スタートラインに戻ったけど、誕生日への気持ちは変わらない。3歳って数字に何の意味がある?
まあ、背は確実に伸びた。気がするだけかもしれない。頭に手を当てて確かめたけど、違いは分からなかった。
まあ、いいか。
でも、髪は確実に長くなった。よく口に絡まって目が覚める。ひどく絡まると痛いくらい。でも、なんか美しさがあるのも否定できない。
目はクイント似、髪はエミリア似。まだ子どもで未完成な見た目だけど、今の自分、昔より好きだ。
なんでそんな自信があるんだろう? 昔の自分の顔、思い出せないのに。まあ、心配するようなことじゃないか。
カレンダーをもう一度見て、クイントの描いた絵を解読しようとした。何度見ても、さっぱり分からない。すぐ諦めて、部屋をうろついた。
次は何しよう? それが問題だ。
朝型人間じゃない――いや、絶対に無理――なのに、今日、めっちゃ早く起きた。誕生日を楽しみにしてたわけじゃないけど。
窓を見ると、明らかに朝。太陽が明るく輝き、雪に光の斑点を作った。まぶしくて、すぐ目を逸らした。
昔の名前は思い出せないけど、なんか「空虚」って漢字が入ってた気がする。季節にピッタリだ。この時期、賑やかな通りさえ白い野に沈む。「空虚」そのもの。
じゃ、ヨリは?
新しい名前に漢字があるか、思い出せない。たぶん、ない。でも、冬は私に合わない気がした。
でも、冬って変な季節だ。降水は年中あるけど、こんな白い雪は冬だけ。なんか異質で、新鮮で、今の状況に合ってるかも。
もう、こんなバカな考えはいいや。そんな思いで、寝室を出た。
ドアノブは私の背丈にしては高め。でも、ドアの横にスツールがあって、それで部屋を出られる。でも、逆はダメ。風でドアが閉まると、立ち尽くして誰かが開けるのを待つしかない。まるで猫。木を引っ掻くか、助けを呼ぶしかできない。
「背が低いって最悪」と結論。
廊下を見回したけど、2歳の時から何も変わってない。はは、2歳って響き、なんか笑える。一日で何が変わるって? 数センチ伸びてたら、世界も変わった気がする。たぶん。
ゆっくり階段へ。段を見ると、ため息。相変わらず乗り越えられない壁みたい。やっぱり何も変わってない。
手すりをつかみ、慎重に足を次の段に。もう一歩。次。で…
4段目くらいで、息切れ。ハーフリングが階段登るの避ける理由、分かった。降りるのだって疲れる。
段の端に座り、足をぶらつかせ、短い息の海に沈んだ。脈も少し速くなった。目覚まし時計みたいに、ちょっとだけ。
階段の始まりを見ながら、登る自分を想像した。想像でも、しんどい光景。1段目で倒れそう。
さて、どうしよう?
「ほら、2段も登った。すごいね」
声に振り返ると、クイントと目が合った。腰に手を当て、なんか優越感をアピールしてるみたい。
いつものように、見た目は気にしない。くしゃくしゃの白いシャツ、袖まくり、灰色のズボンにはシミが数えきれない。エミリアも彼の「センス」と戦うの諦めたみたい。
「4段だよ」とつぶやいた。
「ふん」と彼は眉を上げた。「1段目は段とも言えない。3段目でバテたじゃん。すぐ疲れるし、数えるのも下手?」
「は?」
普段から優しい声じゃないけど、今日、なんか特にキツい。いつもの遊び心が、刺すような矢の雨に変わったみたい。
「そこで何してんの?」
クイントはしゃがみ、身をかがめて私に近づいた。階段を下りる方が簡単なのに、クイントは楽な道を選ばない。「頭の良さ」って概念、頭に入りきらないみたい。
彼は私の脇の下をつかみ、肩に乗せた。落ちないよう、本能的に彼の頭を抱えた。
「なんでもないよ」とつぶやいた。
「だろうね」と彼は答え、急にピョンと跳ねた。なんか思い出したみたい。「いや、待てよ。昼前なのに部屋から出てくるなんて、何かあった?」
「え? 今日が何の日か知らないの?」
彼の態度に混乱した。あの変な絵を描いたのが誰か、確信が揺らいだ。
「んー」と彼は声を伸ばした。「週末、だろ?」
部屋の方を、壁越しにカレンダーを見ようとした。当然、何も見えなかった。でも、クイントは私を乗せたまま寝室に向かった。
部屋の真ん中で止まり、彼はカレンダーを見た。
「今日、太陽が描いてあるな」
それが太陽だったの?
気づいて、顔が歪んだ。何にでも見えたけど、太陽には見えなかった。自分の想像力に疑問を持った。でも、絵の主が誰か、確信が強まった。
「そう。それって、誕生日って意味だよ」
「なるほど、なるほど」
全然分かってない気がした。だから、彼の頭にドスンと座り、足をブラブラさせた。意味のない重りみたいに。
「だよな」とクイントが言った。「今日、ユリエルが来て、誰かを紹介するって…」
言い終わる前に、クイントが古いパソコンみたいにフリーズ。頭からあの「ジー」って耳障りな音が聞こえそう。情報を処理しようと頑張ってるみたい。
「ヨリ、誕生日じゃん!」突然叫んで、私を肩から下ろし、まるで動物の王様の赤ちゃんみたいに持ち上げた。
「うそ、ほんと?」私は目を丸くして、皮肉っぽく答えた。
「ホッホッホ! こんな気配りの父さんなしで、どうするんだ?」彼はニヤリと笑った。
でも、クイントの言葉で気になった。ユリエル、誰を紹介するんだ? なんで私?
彼女でも見つけた?
司教って、彼女作っていいの?
クイントのバカな発言で手を振った。そんな状態で考えるの、疲れるだけ。根拠のない予想なんて、現実に当たらない。
「ね、ヨリ…」
「ん?」
「何歳だっけ?」
衝撃で、目が何度か瞬いた。自分の娘の歳を忘れる父親って? 彼の能天気さに、本当に父親か疑いたくなる。特に、ユリエルが覚えてるのに。
まあ、いいか。
重いため息をつき、人差し指、中指、薬指を上げて「3」を示した。その三叉戟越しに、クイントのピンクの目が指をじっと数えてるのが見えた。桜の花びらが揺れるみたいに、ゆっくり、落ち着いて。
「娘の歳を忘れるなんて、気が利いてるね、『気配りの父さん』」
廊下から、ビンタみたいな鋭い声。クイントの笑顔が、手で覆われたみたいに消えた。目が部屋中をキョロキョロ。窓から逃げ出しそうだった。
「冗談だよ、愛する人! ヨリが3歳なの、もちろん知ってるよ!」彼は神経質に笑い、なぜかエミリアじゃなく私を見た。無言で助けを求めてるみたい。
「本当? 数えられるのは君だけでよかったわ、クイント」
どうやら、会話の最初から聞いてたらしい。でも、どうやって? 近くにいなかったのに…。時々、エミリアとユリエルが忍者かスパイの秘密結社にいるんじゃないかって思う。二人とも、口より多くを知ってる。私とクイントだけ、いつも何も知らない。
クイントは動かなかった。捕食者が近づくオポッサムみたいに死んだふり。私、足をブラブラさせて存在をアピールしたけど、彼、眉一つ動かさない。身長と体格の差で、抵抗なんて無理。
別の視点で見ると、クイント、今、ハンガーみたい。待て…私、物扱い? コート? 帽子? うーん、オポッサムでいいか。
エミリアの足音が近づくたび、クイントの震えが体に伝わった。でも、彼女、彼に触れなかった。ただ手を緩め、罠から解放するみたいに私を下ろした。
床に降り、エミリアを見上げた。彼女はしゃがんで向かい合い、髪をそっと横に分けて、むき出しの耳に軽く触れた。そして、額に唇が触れた。
その仕草で、頬が熱くなった。
「誕生日おめでとう、ヨリ」
彼女の息で、肩がビクッとした。気まずく笑い、後頭部を掻いて、目を逸らした。
「う、うん…ありがと」
お祝いの言葉をちゃんと受け取るの、昔から苦手だ。こういう瞬間、なんか無防備に感じる。
人の気持ちにどう反応していいか、よく分からない。特に、その言葉や行動に本物の気持ちが込められてると。
クイントなら、冗談で流したり、無視したりできる。でも、エミリア…エミリアは近すぎて無視できない。彼女の前じゃ、冷静な顔を保てなかった。
リビングのソファに座り、背もたれに頭を預けた。お祝いも、成長も、客の来訪も、私ののんびりした生活を変えられなかった。強調するけど、のんびりで、怠惰じゃない。未来の偉業のためにエネルギーを温存してるだけ。たとえば、いつかまた外に出るため。冬はダメだけど。
考えはまたクイントの言葉に戻った。ユリエル、誰を連れてくるんだ? 大事ってわけじゃないけど、めっちゃ気になる。ユリエル、いつも私をドキドキさせる。あれ、いつからこうなった? あの金色の糸の時? それとももっと前?
「うわ、ヨリ、白髪?」
声に振り返ると、目が驚きで丸くなった。
「え? どこ?」
「ハハハ!」彼は笑い、気を逸らそうとしたみたい。
クイントの遊び心、いつも予想外のタイミングで出てくる。次、何してくるんだろうって考えちゃう。
目を細め、まるで太陽に眩んだように彼を見た。クイントも同じく目を細め、どこに突っ込むか探してるみたい。
「なんで私の髪いじったの? サルじゃないでしょ!」
「おべ…何?」クイントは首を傾げ、本気で驚いたみたい。
冗談か分からない。この世界、知らないことだらけ。クイントをバカ呼ばわりするのは早い。サルが存在しないか、別の名前かも。だから、すぐ手を振った。
「なんでも。絵本で読んだだけ」
「読んだ? 読めるの?」
「ほら、間違えて読んじゃったじゃん」
その言葉で、クイントはソファを回り、隣に座った。肩をつかんで引き寄せた。力の差がすごくて、抵抗なんて無理。で、彼の膝に座らされ、ペットみたいに撫でられた。
「時間、早すぎるよ。いつの間にか、いろんなこと自分でやってるんだな」
笑顔なのに、クイントの声に少し悲しみが混じる。びっくりした。彼、こんな感傷的なの気にしてないと思ってた。
「本気? 階段も一人で降りられないのに」
「ハハハ、確かに確かに」
また気づいた。人の気持ち、見えなさすぎ。エミリアとは、なんとか壁を越えられた気がする。でも、クイントとは、これからか。彼の能天気な笑顔の裏の心配、気づかなかった。
「パパ、ユリエル、誰と来るの?」話題を変えた。
「んー」
クイント、曖昧すぎる返事。返事って言えるのかも怪しい。ちょっと好奇心が。
「で、誰?」
「ん」
またか。わざと避けてる感じ。でも、気にしない方がいい気がした。
結局、名前を聞いても何も変わらない。実際会っても、たぶん分からない。
まあ、いいか。
「なあ、ヨリ」クイントが言って、振り返らせた。「富や知識を目指さなくていい。大事なのは、強く、優しくいること。賢さは人を遠ざけ、金は悪いやつを引き寄せる」
「ん? 絵本の引用?」
「違う」彼は眉をひそめ、頬をつついた。私は顔をしかめた。「俺からのお祝い。父親の助言。好きに受け取れ」
「深いね。強いって、どんな?」
クイントの顔、明らかに準備不足。目が天井をキョロキョロ、ヒント探してるみたい。
「えっと…人生が投げつけるものに立ち向かう力、かな」彼は気まずく額を掻いた。「たぶん、どんなに辛くても進むってこと」
初めて見るクイントの一面。まるで道化師が王国の統治を語るみたい。失礼な例えかもしれないけど、普段の彼からしたら、遠くない。
「ふぁ…考えてみる」
窓に目をやった。朝より明るい陽光、たぶん正午。氷に映るような、冷たく無機質な光。床に斑点を作り、まるでマス目みたい。
クイントの膝で楽に。ズボン、石鹸の匂い。客のために着替えたんだ。生地が頬をチクチクしたけど、動かなかった。膝を抱えるのだって面倒。
外、音がない。鳥も、足音も、雪の軋みも。時折、風が窓ガラスを震わせるだけ。家、凍った時間に浮かんでるみたい。
目を閉じた。周りの雰囲気、寝るのに完璧な条件。でも、眠りの深みに沈む前に…
「イテッ!」飛び上がった。「何!?」
「白髪、抜いた」
「どこに白髪があるって!?」
「ほら、普通の髪だった」クイントは笑い、髪を見せた。「じゃ、記念品な」
拳を握り、思いっきり彼の膝を叩いた。
大失敗。手からかかとまで痛みが走った。彼の膝、岩みたい。
手を握ったり開いたり、痛みを抑えようとした。クイント、ますます大笑い。
「強い子になるまで、まだまだだな」
「うるさい!」鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
クイント、何か言いかけた時、ドアをノックする音。ユリエル、普段は礼儀なんて気にしないのに。誰だろって、すぐピンとこなかった。
クイントを見たけど、彼も私と同じく何も知らない顔。一緒に、エミリアがキッチンからドアに向かうのを見た。
「お、エミ、俺が開ける?」クイントが飛び上がった。
「本気? もうここまで来たのに? 気が利くわね」
何か小さく付け加えたけど、聞き取れなかった。
「ヨリ、ゲストに挨拶して」とエミリアの声が玄関から。
クイントにソファから下ろされ、ゆっくりドアへ。足、短すぎて速く歩けない。走るなんて…未来の話。遠い未来かも。
最初に見えたのはユリエル。顔、寒さで少し赤く、肩に雪が積もったまま、払う気もない。今回はドアを使ったの、らしくない。いつも、壁も錠も関係なく現れるのに。この世界、ユリエルみたいな侵入者から家を守るなら、もっとセキュリティ考えた方がいい。
よく見ると、ユリエルが普通に来た理由が分かった。彼の後ろに、誰かいた。
小さな影が背後に隠れ、ジャケットの袖を握りしめてた。私、横に傾いて、誰か見ようとした。
細い指がフードに伸び、袖の布がめくれた。フードが肩に落ちた。
女の子だった。緑の髪――夏の草みたい――後ろで雑に束ねられ、こめかみに数本の髪が落ちてる。目は若い苔みたい、岩に生えたような。唇、薄くて、寒さで赤い顔にほとんど見えない。
彼女、私でも誰でもなく、空間を見つめてた。まるで、私たちが背景と溶け合ってるみたい。
顔じゃ分からないけど、年上っぽい。背が高いだけじゃない。私より確実に高くて、少し見上げる感じ。
思わず見つめた。誰かに似てる? 考え込んでたら、ユリエルが話しかけてきた。
「ほら、誕生日ガール。…去年より、確実に大人っぽいな」
変な祝福に、彼の手が私の頭に。雪の結晶が髪で溶けた。顔をしかめ、すぐ払った。
「ありがと…かな」
「で、こっちはルイザ、俺の娘。仲良くしてくれると嬉しいな」彼は彼女の背中を軽く押した。
「お…」何て言えばいいか分からず、声が出た。
ため息。声、自信なさげ。自分でも信じられない感じ。
娘? どこから?
その瞬間、どこで彼女を見たかはどうでもよくなった。ユリエルの娘って、どういうこと?
この3年間、どこにいた? 紹介する義務はないけど、存在くらい言ってもいいよね?
首が肩に縮こまり、亀みたいに考え込もうとした。
気づくと、ルイザと二人きり。振り返ると、クイントの背中がキッチンに消えた。手を伸ばし、助けを求めたけど、すぐ下ろした。
ルイザ、黙って立ってる。顔、ほぼ無表情――それがちょっと怖い。友達になりたいとか、私に興味とか、全然なさそう。私も燃えてるわけじゃないけど、突っ立ってるの、どんどん気まずい。
「えっと…私、ヨリ」無理やり笑って、手を差し出した。
彼女の目が私の手に滑った。指がピクッと動いた――隠そうとするみたい。失礼かもしれないけど、彼女も友好的な素振り、ゼロ。
「うん」小さくうなずき、顔をそらして、静かに。「誕生日、おめでとう」
「お…」
その素っ気ない祝福か、よそよそしさに驚いたか、どっちが強いか分からない。
まあ、いいか。
手を下ろし、彼女を真似るように小さくうなずいた。
「うん」
これ以上の自己紹介は意味ない気がして、キッチンに向かった。ルイザの戸惑いに気づき、無言でうなずいて、ついておいでと誘った。その瞬間、彼女、母親と間違えたガチョウの子のようだった。
でも、彼女の態度は正しい気がした。ユリエルやクイントより、なんか大人っぽい。恥ずかしがり屋だから? 分からない。まあ、あんまり気にならなかった。
キッチンを覗くと、テーブルにエミリアの料理がズラリ。いろんな香りが混ざり、胃の中のクジラがオペラの練習を始めた。全部、子ども向け――焼きすぎず、辛すぎず。去年と比べ、メニューがめっちゃ変わった。
「おい、クイント、手を出すなよ。誕生日ガールがいないと始めないぞ」ユリエルがクイントの手を引っ張った。
「マジ? エウリエル、男の友情はどうした?」クイントがムッとした。
「本気?」ユリエルの懐疑的な目は、言葉より雄弁。けど、何を言いたいのか、よく分からなかった。
今、二人、隣に座ってる。いつも言い合ってるのに、その配置は変わらない。エミリアは、いつものようにテーブルの主。別に驚くことじゃない。ある意味、私たち、みんな彼女の掌の上。いや…信頼できる手に、かな。
私には…隣の席が空いてた。偶然じゃないよね…
「お…」
またそれしか言えず、肩が落ちた。この日、ため息の記録更新中。
エミリアに手伝ってもらい、席に着いた。当然、ルイザが隣。もう友達になった? いや、彼女のよそよそしい目を見ると、まだ。まだだ。
まあ、いいか。
今日、発見の日だけじゃなく、「まあいいか」の日でもあるみたい。「まあいいか日」って、正式な表現?
甘い香りがキッチンに広がり、意識の奥まで入り込み、不安の残りを追い出した。料理の温もりが顔を包み、心地よいチクチク。頭がテーブルに沈んだ。チーズの匂いに吸い寄せられるネズミみたい。
「うわ、こんなに女の子に囲まれて、今日、一番幸せな男だな!」クイントが笑い、マグを上げたら数滴こぼれた。
静寂。
大げさじゃないけど、笑ったの、クイントだけ。
ユリエル、黙ってクイントの肩に手を置き、ダメな生徒に疲れた先生みたいに首を振った。エミリア、目を丸くした。ルイザ、テーブルを見つめ、まるでその一部。で、私…同情するしかなかった。
クイント、キョロキョロして後頭部を掻いた。肩が少し落ち、自分がやらかしたのに気づいたみたい。
「な、なに? 楽しくない?」気まずさを払うように、膝を叩いた。
誰も答えなかった。スープの湯気だけが、気まずさを隠そうと漂った。
「よーし」とクイントが声を伸ばした。「ヨリ、ほら、トースト、言えよ」
肺から、ヒックみたいな音。クイントの裏切り、卑怯すぎ。沈む船に私を乗せる気?
「自分で言えば? なんで私が自分をお祝いするの?」
答えられない私を、エミリアが助けてくれた。
「え、俺、ただ…」クイント、つぶやき、マグの後ろに顔を隠し、めっちゃ飲むふり。
立派な黙らせ方。普段のクイントなら、もっと粘るのに、意外と効いた。
クイントから目を逸らし、ルイザを見た。
彼女、動かず。背景に溶け込むの、めっちゃ上手。…でも、私、チラチラ見てたよね? いい質問だ。
じっと見るの、失礼って分かってる。でも、どこかで会った気がして離せなかった。興味がないふりの目。緊張した肩で、リラックスを演じてる感じ。何年も練習したみたい。
夢で会った? バカバカしい。私の夢、知らない人は出てこない。
外に出た唯一の日、子どもたちを見た…
心がギクッとした。あの木のそば、楽しそうな子たちの中で、一人だった女の子を思い出した。手が勝手に上がり、指が彼女を指した。
「君…」
囁き、ほぼ無音。唇、かすかに動いただけ。でも、その仕草――奇妙な気づき――叫びより大きい。
マンガみたいに、運命? でも、そんな簡単? ただ一瞬、目を奪われた子との再会? それでも、答えはなかった。
ルイザ、うつむいて、手が膝で動かない。瞬きして、ゆっくり私を見た。視線が下、顔へ。鎖が私を縛るように絡みついた。魔法じゃない。変な感覚が血管に流れ、固めた。
「じゃ、前に会ったことある?」ユリエルの落ち着いた声。
「え? いや、ただ…」
言葉に詰まった。どう説明すればいい? 階段で一人だった彼女を、チラッと見たなんて言えない。覗いたわけじゃない…ただ、近くにいた。偶然。そういうの、別物でしょ?
言い訳が思いつかず、後頭部を掻いて、気まずく笑った。ユリエルは小さくうなずいた――同意じゃなく、事実を認めるみたいに。
「少しは分かってきたかな」
直接じゃないけど、私に向けた言葉だとハッキリ感じた。彼は平然と食事を続け、クイントやエミリアと何か話してた。何もなかったみたいに。
でも、ルイザは私から目を逸らさない。非難じゃなく、探るような視線。背中に冷たい汗が一滴。
彼女を思い出した今、色々見えてきた。彼女、近づくのが怖いんじゃなくて、仲間外れだった。
よくある話。学校で覚えてる。静かだったり、「なんか違う」子、親が教師や校長、子どもが「怖がる」誰かだと、よそ者になる。問題を避けるため、避けられる。逆に、媚びられることも。でも、本当には受け入れられない。彼女も、そういう感じだったのかも。
それで孤独は分かるけど、他の疑問は残る。
ユリエルに娘がいたなら、この3年、どこにいた? なんで彼、うちで何日も何夜も過ごして、彼女とじゃなかった? 誰も彼女のこと、3年間、一言も言わなかった? 私が小さすぎたからって、黙ってる理由になる?
で、今、彼女に手を差し出せって? あの時、勇気が出なかった手を?
これが、運命ってやつ?
世界が背を向けると、血のつながりでも呼べば来てくれるとは限らない。新たな人生でも、変わらないことがある――家族の中で、断れないのは私だけ。
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