第10章 空白のカンバス
間宮の言葉は、氷のナイフのように、バーの、ぬるま湯のような空気を切り裂いた。羽依里は、息をすることさえ忘れていた。現実が、武装して、この聖域に乗り込んできたのだ。
寺嶋は、羽依里の方に、安心させるようにそっと目を配ってから、ゆっくりと間宮に向き直った。その顔には、先ほどまでの哲学者の憂いは消え、ただ、分厚いガラスのような、 непроницаемыйな笑みが浮かんでいた。
「ご注文は、お話、でよろしいかしら。あいにく、メニューにはございませんが」
「ふざけるのはやめていただきたい」間宮は、内ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を寺嶋の眼前に突きつけた。そこには、城戸と璃子が残したであろう、「目」の印の画像が、数枚表示されていた。「この印に見覚えは? あなたの店に出入りする連中が、私の管理する物件の壁や、公共の場所に、これを描き散らしている。これは、明確な器物損壊であり、治安を乱す行為だ」
彼は、この世界の奇妙な法則を、法律と、損害賠償という、彼が理解できる唯一の言語に翻訳しようとしていた。
寺嶋は、その画面を、面白い芝居でも見るかのように眺めた。
「まあ、可愛らしい。……あなた、これが、ただのスプレー塗料の問題だと思っているの? なんて、世界はシンプルなのかしら。羨ましいわ」
「何が言いたい」
「これはね、落書きじゃないのよ」寺嶋は、磨き上げたグラスをカウンターに置いた。カツン、と硬い音が、店内に響く。「これは、祈りなの。あなたたちが、効率と、利便性のために、街から記憶や物語を、隅々まで洗い流してしまったせいで、行き場をなくした祈りの、シミみたいなものよ」
寺嶋は、一歩、カウンターに身を乗り出した。その巨体が、間宮に、静かな圧力をかける。
「あなたのような方がたは、人々に、清潔で、安全で、そして、何の意味もない、真っ白な箱を売りつける。真っ白な壁、真っ白な道路、真っ白な未来。そして、その空白に耐えきれなくなった人間が、自分たちの地図や、神様の似顔絵を描き始めたら、それを『汚損だ』と非難する。あなたこそが、この空白のカンバスを用意した張本人じゃなくて?」
「……詭弁だな」間宮は、冷ややかに言い放った。「私は、社会の秩序と、人々の平穏な生活を守っているだけだ。あなたのように、精神的に不安定な人間を甘やかし、その異常な行動を助長している人間とは違う」
「不安定?」寺嶋は、心底おかしいというように、声を立てて笑った。「ええ、そうよ。ここに集まるのは、みんな、壊れかけの人間ばかり。でもね、間宮さん。あなたがおっしゃるその『平穏な生活』という名の炭鉱で、最初に鳴くのは、いつだって、こういう繊細なカナリアなのよ。彼らがみんな、静かになってしまった時……その時こそ、あなたは、本当に怖がるべきだわ。壁の落書きなんかじゃなくてね」
その言葉は、もはや寺嶋の個人的な意見ではなかった。それは、この街で、声なき声を上げる、全ての「異常」な人間たちの、代弁者の言葉だった。
間宮は、ぐっと言葉に詰まった。彼は、この目の前の巨漢を、論理で打ち負かすことができないと、ようやく悟ったようだった。ならば、と、彼は最後の武器を抜いた。
「この店のことは、ビルのオーナーや、他のテナントにも報告させていただきます。このような、犯罪行為の温床となっている場所を、放置はできない」
それは、この聖域そのものを、現実のルールで消し去るという、明確な脅しだった。
だが、寺嶋は動じなかった。彼はただ、深い、深い哀れみの目で、間宮を見つめ返した。
「……お好きなようになさいな」
その静かな一言に、間宮は、自分が完全に敗北したことを悟った。彼は、忌々しげに舌打ちをすると、「私は、必ず証拠を掴む」という捨て台詞を残して、背を向けた。
カラン、とベルが鳴り、現実の番人は、嵐のように去っていった。
後に残されたのは、重く、よどんだ沈黙だった。
寺嶋は、まるで何事もなかったかのように、ゆっくりと羽依里の方へ向き直った。その顔には、いつもの、疲れたような、優しい笑みが戻っていた。
「さて、と。……どこまでお話ししたかしらね、哲学者の、お嬢さん」
だが、羽依らなかった。彼女は、もう十分に答えを得ていた。
この世界を動かしている、二つの巨大な力の衝突を、目の当たりにしてしまったのだから。
羽依里は、震える手で代金をカウンターに置くと、小さな声で「ごちそうさまでした」と言って、席を立った。
店を出て、夜の闇の中に足を踏み出す。彼女はもう、ただの傍観者ではいられなかった。ガラクタの神様を信じる人々と、それを駆逐しようとする現実の番人。その、終わりのない戦争が繰り広げられる、この街の、当事者の一人になってしまったのだと、彼女は、肌で感じていた。
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