第8章 現実の番人
停電の狂騒が過ぎ去った翌朝、間宮文彦は、鹿島田の跨線橋の下にある、自身が管理する月極駐車場のフェンスを点検していた。彼の世界は、数字と契約書、そして土地の価値という、揺るぎない現実で構築されている。その世界に、曖昧さや、非合理性が入り込む余地はない。
そして彼は、フェンスの支柱に、それを見つけた。黒いスプレーで描かれた、渦巻きと点の記号。彼の眉間に、深い皺が刻まれる。これは、ただの落書きではない。彼の管理する「現実」に対する、侵略であり、挑戦だ。清掃費用、資産価値の低下、治安への懸念。彼の頭の中を、具体的な損失額と、対策のフローチャートが駆け巡る。
数日前の夜、橋の上ではしゃいでいた、あの軽薄な若者二人組の顔が浮かんだ。間違いなく、あいつらの仕業だ。この街には、目的もなくうろつき、ガラクタに意味を見出しては、奇妙な儀式に耽る連中が増えている。彼らは、間宮にとって、街の価値を蝕む害虫以外の何者でもなかった。
警察に相談しても、まともに取り合ってはくれないだろう。彼は、自ら動くことにした。夜間の巡回を強化し、これ以上の「汚染」を防ぐ。彼の、個人的な戦争の始まりだった。
その夜、間宮は、武蔵小杉の、高層マンションの谷間に忘れ去られたように存在する、小さな稲荷神社の前に車を停めた。ここも、あの手の連中が好んで集まる「歪み」の一つだと、彼は認識していた。
案の定、いた。
暗がりの中、一人の女性が、神社の古い賽銭箱の上に、何かを並べている。佐橋美奈子だった。彼女は、ベルベットのポーチから取り出した数本の古い鍵を、神経質な手つきで、決められた間隔と角度に配置していた。そうすることで、かろうじて世界の均衡を保ち、明日を迎えることができる。彼女にとって、それは生きるための、必死の祈りだった。
間宮の目には、その姿は、不審で、理解不能な異常行動にしか映らなかった。彼は車から降りると、足音を立てて、彼女に近づいた。
「失礼。ここで何をされているんですか」
冷たく、威圧的な声だった。美奈子の肩が、恐怖に跳ね上がる。振り返ったその顔は、聖域を侵犯された信者のように、怯えきっていた。
「あ……いえ、その……」
彼女は、自分の行為を、この男に理解できる言葉で説明することなど、できそうになかった。論理も、整合性もない。それは、彼女だけの、切実なルールなのだから。
「ここは、神聖な場所だ。あなたのような人間が、得体の知れないものを並べて、うろついていい場所じゃない。何か、まっとうな用件がないのであれば、すぐに立ち去っていただきたい」
間宮の言葉は、正論という名の、容赦ない刃だった。美奈子の、脆いガラス細工のような世界が、音を立ててひび割れていく。彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい」
彼女は、半狂乱で鍵をポーチに掻き込むと、逃げるようにその場を走り去った。
後に残された間宮は、満足げに、しかしどこか苦々しげに、息を吐いた。また一つ、害虫を駆除した。自分の手で、この街の秩序と現実を守ったのだ。
彼は知らない。彼のその、揺るぎない「正しさ」こそが、美奈子のような人間を、さらに深く、自分だけのルールの迷宮へと追い立てているということを。彼の守ろうとするその完璧な「現実」の、その息苦しさこそが、城戸や、羽依里や、江莉のような人間たちに、ガラクタの中から、別の世界の入り口を探させる原動力になっているということを。
間宮文彦は、現実の番人だ。そして、彼のような番人がいるからこそ、この街では、人々が、自分だけの、狂おしくて切実な「ゲーム」をやめることができないのだった。彼は、闇に包まれた鳥居を背に、しばらくの間、そこに仁王立ちになっていた。
賽銭箱の前で、あの男に現実という名の冷水を浴びせかけられてから、佐橋美奈子はずっと、ただ走り続けていた。どこへ向かうでもなく、ただ、あの冷たい目から逃れるために。
気づけば、彼女は二十四時間営業のファミリーレストランの、窓際の席に座っていた。深夜の店内は、数組の客が、それぞれ孤立した島のように点在しているだけだ。テーブルの上には、彼女の震える手で置かれた、ベルベットのポーチ。だが、彼女はそれに触れることができなかった。あの男に、土足で踏み荒らされた聖域。儀式は汚され、もはや何の効力も持たない。
「均衡」が崩れてしまった。
その恐怖が、冷たい手のように彼女の心臓を掴む。
すべては、五年前の、あの雨の日に始まった。大学受験を控えた弟が、自転車で車と接触事故を起こした。幸い、命に別状はなかったが、彼は右足に、生涯残る障害を負った。その日の朝、彼女は寝坊し、いつもとは違う道順で駅に向かい、お守りにしていた古い鍵の入ったポーチを、家に忘れて出てきてしまったのだ。
論理的な因果関係など、ない。頭ではわかっている。だが、彼女の罪悪感は、その偶然を、必然の罰へと捻じ曲げた。彼女が「日常」を怠ったせいで、弟の「未来」が損なわれた。その日から、彼女の世界は、無数の、破ってはならない「ルール」でがんじがらめになった。
毎朝同じ時間に起き、同じ朝食を摂り、同じ順番で服を着る。七本の鍵を、決められた配置に並べるのは、その儀式の頂点に立つ、最も重要な祈りだった。そうしなければ、また、自分の大切な誰かが、不幸に見舞われる。彼女の信じる「法則」とは、力を得るためのものではなく、ただひたすらに、世界の破滅を先延ばしにするための、終わりなき防衛戦だった。
そして今、その防衛線は、完全に破られてしまった。
どうすればいい。どうすれば、また、均衡を取り戻せるのか。パニックに陥った彼女の脳裏に、ふと、ある名前が蘇った。ネットの、心の病を抱える人々のコミュニティで、囁かれていた場所。最後の砦。藁にもすがる思いの人間が行き着くという、隠れ家。
『マキ』
バー、という場所は、美奈子の規律正しい生活とは、最も無縁の場所だ。夜の街、酒、見知らぬ人々。すべてが、彼女の恐怖を煽る。だが、今の彼女には、恐怖を選り好みしている余裕などなかった。
彼女は、震える足で、あの雑居ビルの前に立った。エレベーターに乗り、四階の、オーク材のドアの前に立つ。中から漏れてくる、微かな話し声と、音楽。帰ってしまおうか。何度も思った。だが、崩れてしまった自分の世界を思うと、前に進むしかなかった。
ドアを開ける。
伽羅の香。薄暗い、静かな空間。カウンターの内側から、山のようにおおきな男が、ゆっくりと顔を上げた。
「あらまあ」
寺嶋茉輝の声は、驚くほど優しく、そして、すべてを理解しているかのように、深く、悲しかった。
「世界中の荷物を、一人で背負い込んじゃったみたいな顔をして。お入りなさい、お嬢さん。ここは、嵐から逃げてきた小鳥を、誰も追いかけたりしない場所よ」
美奈子は、その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れるのを感じた。彼女の目から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。
寺嶋は、何も言わずに、彼女をカウンターの一番奥の席に座らせると、温かいハーブティーを、そっと差し出した。
「お飲みなさい。大丈夫。大丈夫よ」
大丈夫。その言葉を、彼女はどれくらいの間、聞いていなかっただろう。
寺嶋は、彼女が背負い込んでいるものの正体を、問いただしたりはしなかった。ただ、こう言った。
「自分に課した約束ほど、重たい鎖はないわよねえ。でもね、お嬢さん。あなたはもう、十分すぎるくらい、その約束を守ってきたわ。少しぐらい、休んだって、誰もあなたを責めたりしない。私が、保証してあげる」
その言葉は、魔法でも、神託でもない。けれど、それは、美奈子の心を縛り付けていた鎖を、ほんの少しだけ、緩めてくれる響きを持っていた。
彼女は、何年かぶりに、心の底から、息を吸い込んだ。ここは、安全な場所だ。儀式を行わなくても、世界の均衡が保たれる、奇跡のような聖域。
涙は、まだ止まらなかった。だが、それはもう、絶望の涙ではなかった。
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