第7章 ブラックアウトの狂騒

夏の夜の、まとわりつくような熱気が、わずかに緩み始めた頃。羽依里のアパートの部屋で、彼女と江莉は、床に座って、買ってきたばかりのアイスを食べていた。テレビが、抑揚のない声でニュースを流している。公園での一件以来、二人の間には、言葉にしなくても伝わる、穏やかな空気が流れるようになっていた。無理に話す必要も、気まずい沈黙もない。ただ、同じ空間にいるだけで、満たされるような感覚。


その、平穏な静寂は、唐突に破られた。


ぷつり、と音がして、部屋の明かりが消えた。テレビも、冷蔵庫の低い唸りも、すべての音が死んだ。窓の外に広がる、見慣れた街の夜景が、まるで存在しなかったかのように、漆黒の闇に塗りつぶされていた。


「停電?」


羽依里が呟く。江莉は、すでにスマートフォンのライトをつけて、窓際に立っていた。


「みたいだね。この辺り、一帯全部っぽい」


スマートフォンの電波はかろうじて生きていた。SNSを開くと、『中原区、大規模停電』『原因不明』といった文字が、タイムラインを駆け巡っている。


その頃、武蔵小杉のカラオケボックスで、城戸と璃子は、次の「目」の印を探すための、無駄で冗長な作戦会議に行き詰まっていた。テーブルの上には、飲み干されたエナジードリンクの缶が、墓石のように林立している。


城戸のスマートフォンの画面に、停電のニュース速報がポップアップした。


それを見た瞬間、二人の目は、同時に輝きを放った。


「……来たな」城戸が、かすれた声で言った。


「ディーラーからの、招待状ってわけね!」璃子は、椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。「こんな最高のお祭り、乗らない手はないでしょ!」


二人は、狂騒の始まりを告げる号砲を聞いたかのように、店を飛び出した。


羽依里と江莉もまた、アパートの外に出ていた。闇に沈んだ街は、いつもとは全く違う顔をしていた。非常灯の赤い光だけが、点々と闇を区切り、人々が、家の玄関先やベランダに出て、不安げに、しかしどこか興奮したように、ひそひそと囁き合っている。災害の予兆というよりは、非日常の祝祭が、静かに始まったような雰囲気だった。


二人は、駅前の商店街の方へと、ゆっくりと歩を進めた。そこが、一番人が集まっているようだったからだ。


そして、その中心で、彼らを見つけた。


城戸と璃子は、まるで舞台の上の役者のように、闇の中で躍動していた。璃子は、両手を広げて、天から降ってくる見えないエネルギーを受け止めようとするかのように、くるくると踊っている。城戸は、スマートフォンのライトで、シャッターが下りた店の壁を、必死に照らしていた。あの「目」の印を探しているのだ。彼らにとって、この停電は、ただのインフラの異常ではない。世界の真実が姿を現した、奇跡の時間だった。


「……馬鹿みたい」


江莉が、吐き捨てるように言った。その目には、軽蔑と、そして、かつての自分を見るような、痛みが混じっていた。


羽依里は、何も言わずにその光景を見ていた。寺嶋の言う「集団ヒステリー」。その言葉が、これほどしっくりくる場面もなかった。人々は、突然訪れた闇という「空白」に、それぞれの願望や不安を、必死に投影しようとしている。


その時、羽依里の視界の隅に、静かに佇む人影が映った。商店街のアーケードの柱に、寄りかかるようにして立つ、篠竹正樹だ。彼は、城戸たちの狂騒を、眉一つ動かさずに、ただ静かに観察していた。まるで、嵐の中で、木の葉の揺れを一つ一つ数えているかのように。


正樹は、羽依里たちの視線に気づくと、江莉に向かって、かすかに頷いた。江莉も、驚いたように目を見開き、小さく会釈を返す。


全ての役者が、この小さな舞台に揃ったかのようだった。


その瞬間、世界は、あっけなく日常に引き戻された。


ぱ、ぱぱっ、と音を立てて、商店街の街灯が、一つ、また一つと、無慈悲な白い光を取り戻していく。閉ざされていた闇が、こじ開けられる。ビルの窓が、コンビニの看板が、次々と点灯し、数分前までの静寂と祝祭の空気は、嘘のように霧散した。


城戸と璃子は、突然の光の中で、間抜けな格好で立ち尽くしていた。その姿は、滑稽で、そして少しだけ、哀れだった。正樹は、いつの間にか、雑踏の中に姿を消していた。


「なんだったんだろうね、今の」


羽依里が言うと、江莉は、ふっと、息だけで笑った。


「さあね。まあ、いつものことでしょ、この街の」


江莉は、そう言いながら、ポケットの中の、硬いコンパスの感触を確かめていた。彼女はもう、城戸たちを、自分とは無関係な「馬鹿」だとは思えなかった。自分もまた、この奇妙で、巨大な生態系の中にいる、一つの生き物に過ぎない。そこから完全に抜け出すことなど、おそらく誰にもできないのだ。


その諦めにも似た自覚は、不思議と、彼女の心を穏やかにしていた。

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