第2話 潮の記憶と、手の温度

 旅立ちの日は、霞がかった青空だった。


 ミナとユイは、かつて新宿と呼ばれたエリアを後にし、水に浸食された都市部を南へと進んでいた。かつての道路は水路に変わり、歩道橋がかろうじて道の役目を果たしている。中には完全に崩れたものも多く、慎重な進行が求められた。


 ユイは少し遅れて、ミナの後ろをついて歩いていた。


「ねぇ、ミナ。さっき見たあの看板、“高層モール跡”って書いてあった気がする」


「……ああ。たしかにあの辺、一時避難所だったって話。食料の残りはないだろうけど、電池とかはあるかもな」


「なんだか、人のいた痕跡が残ってるのって……少し、ほっとする」


 ユイはしみじみと呟く、ミナは無言で頷いた。彼女にとって過去は“資源”でしかなく、感傷に浸る余裕はなかったが、ユイのそんな感覚を否定する気にはなれなかった。


 しかし、その時——


 次の一歩を踏み出した瞬間、ミナの足元で鉄骨がきしみ、わずかに傾いた。

 金属が重みに耐えかねるように沈み込むと、橋全体がゆっくりと揺れた。


「ユイ!下がれ!」


 ミナはとっさに叫んだが、反応が遅れたユイの足元が崩れ、彼女の姿が宙に消えた。


---


 落ちた先は、くるぶしほどの深さの水溜まりだった。運よく傾斜を滑り落ちたユイは怪我を免れたが、橋の支柱に囲まれ、ミナのいる側には戻れそうになかった。


「ミナ……!」


「じっとして! そこで待ってろ! すぐ回り込む!」


 ミナは目の前の崩れかけた橋を見て、地図を取り出す。ここから少し北へ戻れば、下に降りられるスロープがあったはずだ。だが、そのあたりはかつてのバスターミナル跡で、建物の影が多く、視界が悪い。


「くそ、私がもっと注意してれば……」


 一人旅が長すぎて、誰かを“守る”意識が鈍っていた。

 こんな簡単なミスでユイを危険にさらした自分に、小さく歯を食いしばった。


 彼女は走る。廃墟の隙間を抜け、残骸の上を飛び越える。


---


 ユイは水辺で座り込みながら、ミナの姿を待っていた。1人は怖い。だけど、動いちゃダメだ。ミナは「待ってろ」って言ったから。


 足元には小さな貝殻が転がっていた。かつてこの地に潮が満ちていた証だ。手に取って、そっと鼻に近づける。わずかに、海の匂いがした。


 ――小さな頃、母に手を引かれて歩いた浜辺。冷たい波と、潮風の音。家族の声。

 そのどれもが、もうここにはない。けれど、たしかに“あった”記憶が香りに宿っていた。


「……ミナ。来てくれるよね。信じてるから」


 そう呟いたとき――建物の影から、ミナの姿が現れた。


「ユイ!」


「ミナ!」


 二人はすぐに手を取り合った。ユイを支え、慎重に壊れた柵の隙間を抜けると、やがてふたたび平らな路面に戻った。


  夕日が彼女たちを照らす。


 汗と泥と水に濡れたミナは、いつもより少しだけやわらかく笑った。


「……ごめん。怖かったよな……でも、ちゃんと待っててくれてありがとう。無事でいてくれて、本当に良かった」


「うん……ありがとう、ミナ。すごく、心強かったよ。絶対来てくれるって思ってたから」


「当たり前。一緒に行くって、約束したでしょ?」


 そう言いながら、ミナは自分のジャケットをユイの肩にそっとかけた。


 二人の影が、長く、細く伸びていく。

 

---


 夜が訪れた。


 崩れた建物の影――かつて小さなカフェだったらしい、屋根の一部が残るコンクリートのくぼみに、二人は焚き火を囲む。


 缶詰の豆とクラッカー、そして水筒の水を沸かして紅茶をいれる。贅沢とは言えないが、それでもふたりの頬には一日の終わりを実感する静かな安堵が浮かんでいた。


 ミナは小枝を火にくべ、ちらちらと燃える炎を見つめながら言った。


「……ユイ。明日から、ちょっと難しい場所を目指すよ」


「難しい場所?」


「“情報集積拠点”。大昔、都市の制御やネットワークを担ってた中枢のひとつ。いまは廃墟だけど……まだ、内部に生きてるデータがあるかもしれないって言われてる」


「データ……?」


「そう。たとえば――“緑の塔”の手がかり。アクセス経路、新入の方法や内部の構造。それに、記録装置がまだ生きていたら何らかの情報が残っているかも」


 ユイは小さく息を飲んだ。


「私たち以外の人にあえるかな?」


「もしかしたら、だけど、それを確かめる手段が、そこにあるかもしれない。」


 火が音を立てて弾けた。二人の影が揺れる。


「……危ない場所なの?」


 ユイの問いに、ミナは少しだけ口をつぐんでから、頷いた。


「うん。おかしくなった警備ドローンがうろついてるだろうね……あそこは都市の“心臓”だったからさ、廃墟が密集してて崩落や電磁障害もあるだろう」


 ユイは少しの間、沈黙した。


 やがて、防寒シートに包まりながら、ミナの方に顔を向けた。


「……私も、行くからね。どんな場所でも、ミナと一緒に行くって決めたから」


 その声は震えていたけれど、確かだった。


 ミナは、思わず少しだけ笑って、頭を横に振った。


「無理はしなくていいんだよ?ユイはここで待ってても――」


「いやだよ!」


 ユイの声が、今度ははっきりしていた。


「怖いけど……でも、ひとりより、ふたりの方が、心強いでしょ? ミナが前そう言ってくれたみたいに」


 夜風がそっと吹き、ふたりの髪を揺らす。


 ユイの言葉に、ミナは少し驚いたように目を細めた。


「……そっか。ありがとう、ユイ」


 その声はどこか緩んでいて、焚き火のぬくもりと同じ温度だった。


「正直、私も少し……怖かったんだ。あそこに行くの」


 ユイは目を丸くする。


「ほんとだよ。ずっとひとりで考えてたから、余計にね。でも――ユイが一緒に来てくれるって言ったとき、なんか……その怖さが、吹き飛んだ」


 ミナが照れ隠しのように、少し笑った。


 その笑みに釣られて、ユイも小さく笑う。


「私はミナと何処でも一緒!」


 二人の笑い声が、静かな夜に、焚き火の音と一緒に混じって溶けていく。


 世界が変わっても、笑い合える誰かが隣にいる。


 ――それだけで、夜の闇は少しだけやわらいで見えた。

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