たとえば、それが世界の端でも

乃東 かるる@全快

緑の塔へ

第1話 緑に沈んだ街で

 その大津波は、彼方より現れた。

遥かな地平の向こうから、黒い壁のように――静かに、確かに。


 それは国土を洗い、街を呑み、すべてをさらっていった。

 人の営みも、積み重ねた文明も、誰かが誰かを想った記憶さえも。


 2044年。

 地殻の眠りが破られ、世界は音を立てて崩れ落ちた。

 “当たり前”は、ほんの一瞬で、ただの幻となった。


 海に囲まれた日本列島は、最も深く、最も長くその爪痕を刻まれた。

 沿岸部はほぼすべてが水没し、津波の残した塩は沿岸部の大地から実りを奪い去った。

 東日本は壊滅的な損害を受け、経済も政治も、文明の骨組みすら音を立てて崩れていった。


やがて、それは《終ノ浪(ついのなみ)》と呼ばれるようになる。


 人類の九割が命を落とし、文明は崩壊した。

 鉄も、言葉も、約束も、日々の営みも――そのほとんどが海に沈み、風に消えた。


 残されたのは、緑と、深い沈黙だけ。

 かつての時代を知る者も、今ではほとんどいない。


 それでも、人は歩いている。

 まだ終わっていないと、小さな灯火を胸に抱きながら。


 かつて「東京」と呼ばれた都市は、今や緑に沈んでいる。


 崩れかけた摩天楼は樹木や蔓に絡め取られ、静かな水面にその影を落とす。

 アスファルトはひび割れ、低木のハマヒサカキやヒイラギモクセイが芽吹き、歩道橋には苔が広がっていた。


 都市の亡骸は、やがて呼吸する“巨大な温室”へと姿を変えた。

 風は穏やかに吹き、雲はゆっくりと空を渡る。

 時間さえ、どこかへ消えてしまったかのような静けさ――。


 けれど、世界は“死んだ”のではない。ただ、静かに“姿を変えた”だけだった。


 歩道橋の上、ひとりの少女がしゃがみ込み、朽ちた自動販売機の陰に手を伸ばす。

 指先に触れたのは、砂埃をかぶった銀色の缶。


「……軍用レーション、かな。まだ食べられるかも」


 錆びた蓋をナイフでこじ開ける。

 腐敗臭はない。保存食特有の、乾いたにおいが微かに漂った。


 少女の名はミナ。歳の頃は十五、六歳ほど。

 黒のショートボブが風に揺れ、ミリタリージャケットとカーゴパンツを身にまとう。

 首にはゴーグル、腰にはナイフ、足元は厚底のスニーカー、背負ったザックと揺れる水筒が、長い旅の痕跡を物語っていた。


 彼女の目的は、近くにあるショッピングモール跡での物資探索。

 食料が第一。そして――もし、稼働する情報端末が見つかれば、それはこの世界では“奇跡”と呼べる発見だった。


 そのとき――音がした。


 コンクリート片を踏む、軽やかな足音。

誰かが――“生きている何か”が、近づいてくる気配。


 即座に物陰に滑り込み、ミナは息を殺す。

 この世界では、生きていること自体が“リスク”でもある。獣、野犬、暴走するドローンの残骸すら人を襲うのだ。


 ナイフの柄に手を添え、ミナは気配をうかがう。

 足音は――ひとつ。軽い。けれど、油断はできない。


 そして、声が届いた。


「……誰か、そこにいますか?」


 少女の声だった。


 ミナはそっと顔をのぞかせる。

 そこにいたのは、肩までの栗色の髪をした少女。

 Tシャツにデニム、肩には空っぽの網カゴ――まるで、買い物帰りのような格好。


《……こんな軽装で、この街を?》


 警戒を解かぬまま、ミナは低く声をかける。


「……そこ、見えてるよ」


 少女はびくりと肩を震わせたが、すぐに安堵の表情で振り返った。


「あなた、人……?」


「そう見えたら、嬉しいかな」


「よかった……本当に、人に会えた……一年ぶりだよ……」


 その場にへたり込み、少女は深く息を吐いた。

 それは恐怖ではなかった。長い孤独の果てに人の気配に触れた者だけが見せる顔だった。


 少女の案内で、廃ビルの一室にミナは宿を得た。

 二人は簡易コンロで湯を沸かし、ほのかな明かりの中で焚き火を囲んだ。


「私、ユイです。このビルで暮らしてます」


「ユイ、か。私はミナ。“緑の塔”を目指して旅してるんだ」


 そう言いながら、ミナは心の中で小さく眉をひそめる。目の前のユイは十二、三歳といったところ。

 どうやって、こんな場所で一人きりで――生き延びてきたのか。


「でもさ……君、本当に一人で?」


 問いかけに、ユイは少しだけうつむき、ぽつりと話し始めた。


「……一年前までは、母さんと暮らしてたの。このビルの中で。水が出る部屋を見つけて、小さな畑も作った。

物資を探しに行くのも、二人で協力して……」


「でも、母さん……病気だったの。咳が止まらなくなって……ある朝、目が覚めたら、もう――」


 言葉が途切れる。

 ぱち、という焚き火の音だけが、沈黙を埋める。


「……それからずっと、一人だった。話す相手もいなくて」


 ユイは、小さく笑ってみせた。

 けれどそれは、張り詰めた寂しさをごまかすための笑顔だった。


 ミナは、しばらく黙って彼女を見つめていた。

 やがて、焚き火の光の中で、静かに言葉を返した。


「……偉かったね、ユイ。よく、頑張った」


 ユイは、はっとしてミナを見つめた。

 その目に、張り詰めていたものが緩み――涙が滲んだ。


「……ありがとう」


 ミナはタオルを差し出し、火を見つめながら続けた。


「私は、“緑の塔”って場所を目指してる。

そこに“希望”とやらがあるって噂があってな」


「この世界、もう滅茶苦茶だけど……それでも、信じたいものがあるなら、私はそれを追いたいんだ」


 ユイはぽつりとつぶやく。


「……ミナ、かっこいいな。

一人でこんな世界を歩くなんて……すごい」


 その声には、怖れと憧れ、そして久しぶりに話せた喜び――いくつもの感情が、複雑に溶けていた。


 そしてその“出会い”こそが、人類の九割が死滅したこの世界においては、奇跡だった。


「……ねぇ、ミナ。あの……明日には、行っちゃうの?」


 おずおずと尋ねる声に、どうしようもない孤独がにじむ。


 ミナは火を見つめながら、しばし黙し――

 やがて、決意をこめて言った。


「ねぇ、ユイ。一緒に来ない? 私と」


 ユイは、目を大きく見開いた。


「……でも、私……足手まといになっちゃうかも……」


「気にしないよ。一人より、二人のほうが――きっと楽しい。……ユイさえよければ、一緒に来てほしい。どう?」


 ミナは、にかっと笑ってみせる。


 ユイは一瞬だけ呆けた顔をしたが、やがて、ほころぶように笑って、力強く頷いた。


 翌朝。


 ユイも小さな旅支度を整えていた。


「お、ユイ。似合ってる。……ちょっと旅人っぽくなったじゃん」


「そ、そうかな……? えへへ……。改めて――ミナ、よろしくお願いします」


「うん。私こそ、よろしく」


 しっかりと手を握り合い、照れくさそうに笑い合う。


――


 二人は、緑に沈んだ都市をあとにする。


 目指すは、遥か遠くの「緑の塔」。

 崩壊と再生の狭間で、少女たちは小さな一歩を踏み出した。


 その背に、名もなき希望を背負って。

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