三章
1 彼女という存在は
――逃げて。
追っ手の気配が迫っている。
――やり方は褒められたものではないかもしれない。でも、あなたは羽化師として、助けを求める
せっかく逃がそうとしたにもかかわらず、検非違使の前に自ら飛び出した綾埜の無鉄砲さを思えば、無意識に顔が渋くなる。だが同時に、昔から変わらない彼女の真っ直ぐさを再確認し、口元が緩みかけるのも確かであった。
――私、羽化師になるのが楽しみなの!
幼い少女の声が蘇る。綾埜は覚えていないようなのだが、颯は十年以上前、
当時綾埜は、羽化師の素質が見つかったばかりであった。型に嵌まった貴族の姫ならば、大勢の前に出て
幼少期の颯は、特権階級というものに複雑な思いを抱いていた。
母方の家系をたどれば、三代前までは末端ながらも官位を持つ貴族であった。だが、出世叶わなかった曾祖父が上役に粗相を働いたことや、その息子である祖父が官人の養成機関である大学寮に入れなかったことなどが重なって、家は没落した。母は結局、貴族家に
そんな母が、主人のお手つきになり生まれたのが、颯であった。当初は認知すらしてもらえなかったが、母の死をきっかけに状況は一変することになる。母の蛹石に触れた颯は意図せず
颯には羽化術を扱う人並み外れた才があると確信した友潤は、颯を我が子と認めた。
母の親族は、これで颯の人生は安泰だと喜んだが、颯自身は妙に冷めた感情を抱いていた。利用価値の上だけに成り立つ父子の関係を素直に受け入れることは容易ではなかったし、何よりも、これまで颯を蔑んできた者たちが、貴族の子弟という肩書きを手に入れた途端に手のひらを返す様子に、嘲りにも似た滑稽さを覚えた。
そんなかりそめの敬意に溢れた世界を颯にもたらした羽化術の才は、ありがたい能力ではあったものの、その道に情熱を注ぐべきものとは思えなかった。
ただ、生きるため。少しでもいい暮らしをするために。いわば羽化術は道具であり手段でしかなかったのだ。しかし。
――貴族女性の羽化師なんて。
――女の羽化師もいるって聞きました。
窘める暁潤に負けじと返す綾埜を見て、いったいどうして彼女は羽化師を目指すのだろうかと興味を引かれた。
――お父様だって、人の魂を救うことのできる羽化師の素質を持って生まれたことは、誉れ高いことだとおっしゃったのよ。
――そうだね。だから羽化術の才を持つ女人はいい婿を見つけて息子を産んで、その子を立派な羽化師に育てるものだ。それが身分ある姫君の幸福だろう。
暁潤の言葉には悪意の欠片もない。ただ単に、世間一般の常識を述べただけなのだ。
それにおそらく、暁潤は綾埜を好いている。
羽化術は親から子に受け継がれることが多いので、その血をより濃くしていくべきだとの風潮がある。魂蝶寮の重鎮を歴任する守影家の嫡男である暁潤は、綾埜の婿として理想の相手ともいえる。暁潤の発言には、そういった意図も込められていたのだろう。あいにく、綾埜自身には伝わっていないようだったが。
返す言葉を持たず、小さな拳を握りしめるだけの幼い姫の姿に、颯はふと親近感を覚えた。
同じだ。彼女も颯と同様に、己の立場と羽化術の才との間にしがらみを抱えている。だが一つ、颯と決定的に異なるのは、彼女が純粋に羽化術に対して誇りを抱いているということだ。そう気づいた時、自然と口が動いていた。
――誰も手を挙げる人がいなかったら、俺が君の
彼女とならば、わかり合い、補い合えると思ったのだ。
しかし所詮は子どもらの口約束。それきり綾埜と顔を合わせる機会は一度もなく、日々が過ぎ去った。それが何の因果か、十年以上の時を経て無光堂で再会するなど、思いもよらないことだった。
「……羽化師の素質を持って生まれたことは、誉れ高い」
(こんな時に誉れも何もないだろう)
そもそも、幼少期の回想に耽るなど呑気過ぎる。
(だがあの言葉が、好きでもない父から受け継いだ羽化術をただの道具として扱っていた俺に、この身体に流れる血を素直に受け入れるきっかけをくれた)
だから、依頼人からの頼みで内裏に忍び込み蛹石を奪った晩、偶然柏正則の蛹石を見つけた際に、反射的にそれを懐に隠して持ち帰ったのだ。
そう回想した時、先ほどの廃屋で、綾埜が蛹石を床下に転がしてしまったことを思い出す。経緯は不明だが、柏正則は羽化せず無光堂に納められていた。颯が発見した時には乳白色に沈黙していたはずの彼は、娘を前にして、確かに光を取り戻していた。
二年も前に肉体を離れた古い魂だ。劣化は激しく、この機会を逃せば二度と羽化できないかもしれない。
柏正則を救うべきか。だが、そんな義理はない。廃屋敷に戻り蛹石を回収するなど、自殺行為だ。
二人の己が諍い合っている。結論の出ない争いの果て、颯を突き動かしたのは、脳内で反芻される綾埜の声だった。
――あなたは羽化師として、助けを求める蛹石と真っ直ぐに向き合ってきただけなのよ!
綾埜の信頼に恥じない行いをしたい。いいや、そんなことよりも。
(綾埜を悲しませたくない)
颯は気づいた。初めて出会った日からずっと、この胸の中には綾埜がいた。そして、再会してから共に過ごす日々の中、彼女の存在は少しずつ大きくなって、いつしかかけがえのないものへと変わっていたのだ。
しばらく身を潜め追っ手の気配が消えた頃合いに、颯は竹林を出た。
やや離れた場所から仕事場の廃屋敷を窺うと、未だに三人の検非違使が立っていたが、さすがに盗人が戻る可能性などほとんど考えていないらしく、どこか気怠げな空気が漂っている。
颯は、庭の中央辺りで火を焚き暖をとっている男たちの死角を探り、裏手の小柴垣の裂け目から敷地内に入った。
柏正則の蛹石は、床下に落ちたはずである。まさかそのような場所に這いつくばる見張りなどいないだろうから、隠密に行動すれば無事に回収できるだろう。
颯は、雪が残り泥濘む床下を這い、簀子に空いた穴の直下を目指す。視線を巡らせれば、蛹石の在処はすぐに判然とした。弱々しい薄紫の明滅が、闇を微かに揺らしている。簀子の穴を真上から覗く者がいれば、微光に気づきそうなものだが、完全に気の緩んだ検非違使たちは違和感すら覚えていないようだ。
(早いところ安全な場所に逃げて、蝶夢に入らないと)
そう思い、淡い光に指を伸ばした時だった。
「なっ」
思わず声が漏れる。冷たく滑らかな蛹石に触れた途端、視界がぐにゃりと歪んだのだ。慣れた感覚。蛹石の夢の中に自身の魂が吸い込まれようとしているのである。
(待て。今はまずい。もう少し辛抱してください、正則様……)
願いも虚しく、颯の意識は朦朧とする。肉体が力を失う刹那、視界を鮮烈な薄紫の光が埋め尽くした。
(ああ、ばれたかもな)
さすがにこれほどの瞬きならば、眠たげな顔をした検非違使らの目を引くだろう。
颯は最後の力を振り絞り、蛹石を懐に押し込んだ。強い発光は一瞬のことだった。今は蛍よりも微かな光度を纏う柏正則。上手く隠し通すことができるのか、わからない。だが、これより他にどうすることもできなかった。
慌ただしく簀子を走り回る足音を聞きながら、颯の身体は完全に力を失った。
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