魂の羽化師は夢を斬る
平本りこ
序章
1 無光堂の盗人①
――最近、
凪いだ濃紺に細い月が浮かぶ晩。
牛に引かせた
――泥棒って……無光堂に供養されているのは、光らなくなってしまった蛹石でしょう。
――穢らわしい。死者の魂を盗んで何になるというのかしら。
牛車の簾を透かし、濃密な夜の闇を睨む凜とした瞳がある。それを囲むのは涼やかな切れ長の眼。目頭から続くのは小ぶりながらも筋の通った鼻梁。怜悧な顔立ちだが、紅を乗せた唇はぽってりとしていて愛嬌がある。
まだ若い娘だ。しかし目を引くことに、本来男性の装束であるはずの
とはいえ、男装を意図したものではない。中流貴族の娘として生を受けながら、宮仕えの絢爛な
――恐ろしいわ。
――そのようなことをするのは間違いなく、下賤の輩ね。いったいどんな呪詛に使うつもりなのかしら。
――仕事とはいえ、女の身ながらそんな場所に行かなければならないなんて、
――お父君が
「羽化師殿。無光堂に着きましたよ」
牛車を導く牛飼い
簾越しに先導の
「ご苦労様。今出るわ」
狭い車の中に自分の声が反響すると、脳内で反芻されていた、やんごとなき姫君たちの悪意あるささやき声は霧散する。
(あんな噂話、気にする必要はないわ)
足場である
「あなたはここで待っていて頂戴」
「へえ」
牛飼い童と呼ばれ元服前の装いをしているとはいえ、彼は初老に差し掛かる年代の男である。年若い娘の綾埜がこのような夜更けに一人でお役目を仰せつかっていることを哀れに思ったのか、闇に沈む無光堂の方角を気遣わしげな目でちらちらと見遣っている。
綾埜は男から松明を受け取り、もう片方の腕には
おどろおどろしい空気が漂っている。恐れがないわけではない。現に、身体の奥底から、微かな震えが込み上げてくる。
しかし怯えてなどいられない。綾埜は半年ほど前に念願叶い、死者の転生を促す羽化師の卵として、
綾埜は凍るような空気を裂いて、不気味に石が積み上げられた道を行く。やがて前方に、しんと静まり返る御堂が見えた。
両開きの扉は、堅牢な錠で封じられている。綾埜は腰にくくりつけた紐をたぐり寄せ、蝶の形状をした鍵を穴に差し込んだ。その途端、鍵がぼうっと薄紫色の燐光を放ち、かちりと音を立てて錠が外れた。
軋んだ音を引きつれて、扉が開く。堂の内部からは、供養香の甘酸っぱい香りと古びた家屋の匂いが押し寄せた。ごくりと唾を呑み、緊張の面持ちで、いっそう暗い堂内へと進む。
最奥に、祭壇がある。燈台に火を灯すと、燃え切らなかった線香の乱立が淡く照らし出される。魂の羽化を司る神仏の木像は、湿気のせいか部分的に黒く変色していた。室内の清掃こそ行き届いているものの、全てが古く、修繕された痕跡は久しくない。
これが、光を失い二度目の……永劫の死を迎えた魂たちの墓場。何と哀れなものだろう。
綾埜は軽く唇を噛み、胸に去来する複雑な感情の帯をやり過ごし、責務を淡々とこなすことだけに意識を向けた。
運んできた葛籠を包んでいた布を剥がす。蓋を開くと、こぶし大の白茶けた石の山がそこにある。これが蛹石。命を終えた人間の魂が肉体を離れた姿である。
顕現したばかりの頃は、いずれの蛹石も来世への希望の光を放ち幻想的な薄紫色を帯びていたはずなのだが、今やただの遺骨のように沈黙している。
綾埜は事前に教わっていた通りの手順で、御堂の壁面に作られた小さな
不気味さが時の感覚を狂わせているようだ。だいぶ長い時間をかけた心地で半分ほど供養を終えたところで、異変があった。
どん、と御堂の内部で何かが動きぶつかったような音がした。突然のことに小さく悲鳴を上げて身体を震わせた拍子に、長箸が抽斗の内側を打ち、手元が狂って箸を取り落としてしまう。
からん、と軽い音がする。綾埜の顎の辺りにある抽斗は、かなりの深さがある。背伸びをして覗き込んでも、長箸は影も形も見えない。
先ほどの音は何だろう。耳を澄ませて辺りを見回すが、動くものはない。小型の獣が走ったのだろうか、それとも家鳴りのような現象だったのか。
綾埜は身震いしてから、まだ蛹石が残っている葛籠の中に布を押し込むと、無造作に抱えて堂を出た。長箸の予備は牛車にある。そうでなくとも、一刻も早く誰かの側に戻りたかった。
ほとんど飛び出すようにして扉を閉める。錠に鍵を挿すと再び薄紫色の光が灯る。やがてそれも闇に散って消え、辺りには再び暗くなった。
当然だが、光を発する物は、綾埜が手にした松明しかない。……はずなのだが。
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