第二十六話 焦り
side:刃
母は、常に静かな人だった。
怒声を上げることも、涙を見せることもない。
ただ、背筋を伸ばし、どんな時も己の責務を果たしていた。
子どもの頃、拙者はそれが怖かった。
あまりに凛としすぎて、手が届かない存在に思えたのだ。けれど、病に伏す今になって、ようやく知る。あの強さの裏に、どれほどの痛みと孤独を隠していたのかを知ることなる。
「……柚花は、学舎に入れたのですか?」
母が細い声で問うた。
声がかすれ、言葉の一つ一つが綱渡りのようだ。
柚花には知らせてはならない。母の言葉に従っている。
「はい。勉学に励み、士女の道を歩み始めております」
そう答えると、母はわずかに目を細めた。
「よかった……柚花は……優しい子だから……苦労が多かったでしょう」
拙者は、母の冷たい手を包み込むように握った。
「……母上。なぜ、拙者を御影守にしたのですか? 柚花ではなく、拙者を」
その問いに、母はしばし沈黙し、微かに唇を動かした。
「……あなたの望みを叶えるには、その道しかありませんでした」
母の言葉は、かすれた風のように部屋の隅へと消えていった。
幼き頃、夜更けに一人で鍛錬していた拙者の姿を、母は黙って見てくれていた。
その背中に、彼女は何を重ねていたのか。強さを望んだのは、拙者自身。
わからない。ただ、今は母に感謝しかない。
「拙者は……そばにいたいのでござる」
その言葉は、願いだった。
しかし、願いは叶わないこともある。
隠し楼にて、急報がもたらされた。
市中の裏通りにて、御影守の出陣。
魔物ではなく、鬼が出たという。
しかもまだなりたてで、理性を残している可能性がある。
すぐさま、拙者に出動命令が下された。
母はすでに何日も意識を取り戻していない。
いつ、その時が訪れてもおかしくはない。
寝室を見返る時間もなく、拙者は御影守の装束に身を包み、夜の屋根を駆けた。
道すがら、胸中で葛藤が渦巻いていた。
なぜ今なのか。なぜ、母の最期が迫るこの時に限って……。
任務は、命令である。そして御影守に感情は不要とされる。
(今宵だけは、剣を振るいたくない……)
到着したのは、荒れた寺の跡地だった。
中に入ると、明かりもない薄暗がりの中で、ひときわ異様な気配が漂っていた。
小夜と九重がすでに戦闘を行っている。
ぼろを纏い、目の焦点が定まらず、だが、表情にはどこか理性が残している。
「増えたか……影の者」
喉から漏れるような声。
男は、肌の下から黒い血管のようなものが浮かび上がっており、爪は獣のように伸びていた。
「……まだ、完全には鬼になりきっていないようでござるな」
「どうせ……いずれ、なる。もう止まらん……。でもな……」
男は笑った。
「それでも、お前よりはマシだ」
拙者は、動きを止めた。
「……ほう?」
「お前、戦いにきたくせに情けない顔をしておるぞ。あぁ〜お前ならば簡単に殺せそうだ」
拙者の喉奥が凍りついた。
(なぜ、この鬼が……?)
いや、知らないのだ。推測にすぎぬ。だが、それでも――
「お前は、俺を斬る。任務だから。鬼だから。そうだろ?」
「……貴様に、拙者の心はわからぬよ」
刀を抜く。
その動作に、一瞬の迷いが混じった。
男はそれを見逃さなかった。
「迷ってるな。……そんな剣で俺を殺せるのか?」
そう言って、男はにやりと笑った。
「刃! 惑わされてはダメ! この鬼は心を読んでくる!」
「心を?」
「くくく、逃げろ。帰れ。俺なんて見なかったことにして、母親のそばにいろ」
「!!!」
拙者の心が見透かされている。心を整え剣を構え直す。
「御影守とは、影の剣。その矜持を捨てれば、母上の教えを裏切ることになる」
母の教えが、拙者の心を守ってくれている。
鬼にならずに済んでいる。
母はどれほどの痛みを抱えていても、人を守るために、己の命を削り続けた。
だからこそ、拙者は後を続いて、柚花の代わりに御影守になる。
「拙者は、刀を振る」
「ははっ……じゃあ、せいぜい早くしろよ。お前の母親、待ってるぞ」
男が、鬼の爪を伸ばし、跳躍した。
躊躇は、もうなかった。
拙者は一閃した。しかし、鬼は霧と消えた。
「あははは! 心が読めるんだ。かわせるに決まっているだろ?! 我名はサトリ! 貴様の剣など通ずぬ」
サトリと名乗った鬼が拙者を揶揄う。
「刃君。結界を作ります。それまで」
「心得た」
九重の陰陽術でサトリを封じる。
それまで我、心を無に……。
「無駄無駄、お前の母さん。どうせもう死んでるさ」
プチっ!
何かが切れる音がした。
次の瞬間、『動』の気配が高まり、拙者は心を忘れて、刀を振り抜いた。
鬼の首が落ちる。
その身体が崩れ落ち、瘴気が地に染みこむように消えていく。
膨大な魔が、我の中に流れ込んできた。
「刃?」
「刃君」
二人が心配そうに拙者をみていた。
「大丈夫ござる。前のように暴走したわけではござらん」
危なかった。白嶺に「静」を学んでいなければ、堕ちていた。
理性とは儚い。
どうしても心を刺激されれば、崩れてしまう。
「御免。先に失礼するでござる」
拙者は、すぐに踵を返した。
風を切る音だけを連れて、母のもとへと急いだ。
(間に合え……)
拙者はただ、祈ることしかできなかった。
急いで戻った隠し楼の一室には、もう灯火が絶えていた。
障子の向こうは、深い静けさに包まれている。
……母の気配が、まだそこにいてくれる。
拙者は、ゆっくりと襖を開けた。
薄明かりの中、母は床に伏したまま、動かない。
だが、目は開いていた。
その瞳が、ふとこちらを見てかすかに微笑んだ。
「……じん……」
弱く、けれど確かに拙者の名を呼んでくださった。
その声は、もうかすれていて、風のように頼りなかった。
「拙者でござる。戻ったでござるよ、母上……」
駆け寄り、母の傍に膝をつく。
その手を包み込むと、あまりに冷たい。
それでも、わずかに力が返された。
母は、動かない唇で何かを言おうとしていた。
耳を近づける。
「……柚花を……お願い……」
「はい……必ず……守ります」
母の目に、微かに涙が浮かんだように見えた。
けれど、すぐに閉じられる。
そのまま、静かに、穏やかに母は、眠るように呼吸を止めた。
拙者は、何も言えなかった。
涙も出なかった。
ただ、母の手を握りしめたまま、動けずにいた。
ずっと、守られてきた背中だった。
誰よりも強く、誰よりも優しかった。
そして、最後まで、息子のことを案じてくださった。
「……ありがとう、母上」
その言葉だけが、喉から漏れた。
夜の帳が落ちる頃、風が一筋、母の髪を撫でて通り過ぎていった。
まるで、微笑みながら旅立っていくかのように――。
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