第二十五話 春は遠く
side:刃
柚花が士学へ入学できたという知らせが手紙によって知らされた。
奉公に出て、半年ほどで勉学を励んだのだと喜ばしい。
だが、嬉しい知らせが届くと共に、悲しい知らせもまた訪れていた。
母の寝室には、冬の匂いが訪れつつある。。
少しだけ開いた障子からは、穏やかな陽が射しているはずなのに、風は冷たく。空気の入れ替えを行うことしかできない。
室内は静かで、肌に感じる空気すら重たかった。
母は、薄く目を閉じて横たわっていた。
呼吸は浅く、白磁のような肌には、かつての凛とした気配が薄れている。
柚花が奉公に出る頃には、すでに病状は悪化していた。
「……母上……」
湯で濡らしたタオルで顔を拭き、熱があるのを確認して水で濡らしたタオルを額におく。
返事はない。ただ、わずかに指が動いただけだった。
すぐに襖が閉じて、部屋の中は暗くなる。
白嶺が現れる。
「なんや辛気臭いなぁ〜」
「白嶺!」
「そないな情けない顔をするなや」
「……何が、起きているのでござるか?」
白嶺は、視線を母がいる襖に向けて、深々と溜め息を吐いた。
「お前の母親は、鬼狩りやったんやろな。それも最強の一人やったんやろ」
「鬼狩り?」
「ああ、かつて多くの鬼を斬り伏せた。この国の裏側を守ってきたや。ただ、それが仇になった」
拙者が知る母の背中は、常に凛としていた。抜き身の刀のように張り詰めていて、誰よりも強く、誰よりも優しかった。
けれど……咳をして苦しそうな姿もたくさん見てきた。
「だがな、刃。鬼を斬るということは、魔を斬るということなんや。魔を断つっちゅうことは、魔を喰らうという行為でもあるんやで」
「……魔を、喰らう?」
信じがたい言葉に、思わず眉をひそめた。
いや、なんとなくは理解している。
影組として戦闘を行うようになり、魔物の討伐を成功させるたびに、自分だけじゃなく、小夜や九重も強くなっている。
それが魔を喰らう。
「鬼が持つ魔の力は、倒されたとき、相手に返る。生きていれば、体内に蓄積される。蓄積したものは何病を呼び込む」
白嶺は、襖の向こうに広がる庭を見やった。
咲き誇る花々さえ、どこか遠く霞んで見える。
「お前の母は、数多の鬼を討った。いや、討ちすぎたと言ってもええやろ。限界を超えたんやろな」
「限界……」
「御影守は、魔を抑える術も鍛錬も身につけとる。だがな、それでも制御しきれぬほどの深き魔を取り込めば――身体を蝕まれるってことや。何度も言わせるなや」
「つまり、母上は……鬼を多く倒したがゆえに、病に……?」
「そうや。強くあろうとした代償やろな」
白嶺の言葉は静かだった。だが、それが逆に胸を締めつける。
「最強であろうとした者の果ては、こういうことや。誰にも語らず、誰にも助けを求めず、ただ己の剣を信じ続けた者の末路にしては悲しいな」
襖を開いて、母の手を握る。熱はあまりに弱々しく、手のひらは羽のように軽くなっていた。
「……なぜ、言わなかったのですか。母上は、何も語らず……」
「語るはずがないやろ。お前らの母親は強い人やった。お前たちの未来を守りたかったんやろな」
そのとき、母がわずかに瞼を開いた。焦点の合わぬ目が、こちらに向けられた。
「じ……ん……」
口元が、かすかに震えた。だが、それ以上は続かず、瞼は再び静かに閉じられた。
「もう長くはもたん。余命を問うな。医では癒えぬ。魔に蝕まれた体は、もはや戻らんのや」
「……助ける術は、ないのでござるか?」
振り返って尋ねる声に、白嶺は答えなかった。
ただ、唇を結び、沈黙をもって首を横に振った。
それが答えだった。
最強の御影守だった母が、最期を迎えようとしている。
それは、この国の影を狩る者の宿命。
強くなればなるほど、魔は魂を喰らう。
「……それでも、拙者は剣を手放すつもりはござらぬ」
「そうか。ならばお前は、お前の道を行け。だが、母の背中を追うだけでは……同じ地獄を見るんやで」
白嶺の言葉は鬼のくせに拙者を心配しているようであった。
「心得ている。されど、母上がどうして柚花ではなく、拙者に御影守になるように示したのか、わかったような気がするでござる」
「どういうことや?」
「柚花を守れ。そう言われている気がするでござるよ」
白嶺は一瞬だけ目を細めた。
その瞳に、微かに懐かしさが灯った気がした。
「……お前は、どこまでもお人よしやな。お前が妹の代わりに鬼を倒して犠牲になるんか?」
それだけ言って、白嶺は消えていった。
残された静寂の中で、母の寝息だけが、時間を刻んでいる。
拙者はその手を包むように握りしめ、声を出さずに、ただ1日でも長く生きてほしいと祈るしかなかった。
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