禍讖

白蛇

斎雨

第一章 祈域

——お名前を教えてください。

「我々『彩雨の会』の巫女を務めさせていただいております、穂村ほむら夕凪ゆうなと申します。名の夕凪は、風が鎮まり、雨の気配だけが残る刻を意味しております」

 録画映像に一瞬ノイズが走る。照明を使っていないはずなのに、彼女の装束の白だけがわずかに発光しているように見えた。


——巫女さんは何人いらっしゃるんですか?

「私一人です」

 音声はくぐもり、部屋全体が吸音材で覆われているようだった。マイクは正常。だが、周囲の環境音が極端に希薄だ。


——どのような活動をされているんでしょうか?

「催事での祈祷や、信者の方々の声に耳を傾け、必要に応じて導きます」


——いわゆる懺悔みたいなものでしょうか?

「……そうですね。そう解釈していただいて構いません」


——現在何名ほどがここで暮らしていらっしゃるのですか?

「私を含めて百六人です」

 その数字を告げる瞬間、映像の光量が一段落ちた。観る者の錯覚か、部屋の奥の人影がひとつ減ったようにも見える。


——中途半端ですね、なにか理由でもあるんですか?

「我々の数は、いつも欠け一つであるよう定められております」


——皆さんここでどのような生活を?

「助け合いながら、皆さんがそれぞれの得意を活かして生きています」


——では実際に、その様子を取材させていただいても構いませんか?


 このインタビュー映像は、暴露系YouTubeチャンネル『裏ネタ探偵団』が密着取材を試みた、新興宗教団体『彩雨の会』の記録だった。映像の中心には、白装束に淡い雨の香を纏う巫女・穂村夕凪の姿が据えられていた。


 十一月初頭。旧暦における神無月——出雲に神々が集う代わりに、他の地は神の不在に沈む、空白の季節。


 旧暦十月十日——神が去り、夜そのものが骨を見せるように冷たくなる刻。彩雨の会ではこの日を、静寂の底から“彩られた世界”が滲み出す日と呼ぶ。

——色と匂いが、雨に還る日。


——————


 穂村へのインタビューを終えた直後、プロデューサーの佐倉涼介がぼやいた。

「おい圭介、もっと質問考えとけって言ったろ。これじゃ尺ぜんっぜん足りねぇよ」

 ピンマイクを外す音がやけに響く。圭介の息が白く揺れる。その白が空気に溶けない。ここだけ季節が沈んでいる。

「挨拶だけでいいって最初に言ったの、涼介でしょ。それにあの巫女さん、全部棒読みみたいだったじゃん……あれ以上どう広げんのよ」

 アシスタントの北村圭介が口を尖らせ、不満を滲ませる。

「あの無機質さが、逆に仕掛けなんじゃね? なんか全部台本みたいでさ……」


 涼介が周囲を見回し、声を落とす。

「なあ拓海さん、どう思った?」

「……うーん、画的には地味だったかな」

 カメラマンの溝口拓海が機材バッグを下ろすと、床の板がわずかに鳴った。湿った木の匂いが立ちのぼり、呼吸が白く揺れた。

「あの人、ほとんど動かないし、表情も変わんない。写真撮ってスライドにしても、多分気づかれないよ」


 三人がこのチャンネルに関わる理由はそれぞれ違っていた。涼介の声には焦りの熱があり、圭介はその熱を怖がっていた。拓海だけが、どこか冷えたままカメラを構えている。

 白木の床を叩く靴音が、遠くの雨に沈んでいった。


「これさ、本当にネタになるかもしれんぞ。今までとはなんか違うって、俺の勘が言ってる」

「でもさ……ほんとに大丈夫かな」

 圭介の声は雨雲の底を這うほど低い。横目で捉えた穂村の輪郭が、空気の歪みに合わせてわずかに滲む。背筋を冷たいものが撫で、息が詰まる。雨の匂いが室内にまで忍び込んでくる。

「穂村さん、なんか……空気が違うっていうか」

「おいおい、びびるの早すぎ」

 涼介は笑い、軽く手を叩く。

「とにかく気抜くな。この教団の内部取材は俺らが初だ。行方不明になった信者の件も探れよ」

「……じゃ、案内してもらおうか。どこか開けたとこで、オープニング撮りたいんだけど」


 拓海が機材を持ち上げる。

「予備バッテリーもあるし、このまま行ける」

「よし、今日中に撮れるだけ撮っとくぞ。泊まるのは……まあ、最後に考えようぜ」


 三人は白木造りの廊下を進む。足音が響かない。廊下の端を抜けると、風がいきなり消えた。


「では、こちらへどうぞ」

 穂村が先を行く。砂利を踏む音も衣擦れもない。影だけが半拍遅れて揺れた。背の輪郭は陽光に溶け、また結ばれる。


 生い茂る木々を抜けると、色づき始めた畑が広がった。刈り跡の残る土はまだ雨の匂いを抱いている。隣の区画では大根や里芋が静かに掘り出されていた。鍬を振るう音、手袋越しに土を掘るざらりとした音。だが、そのどれもが水の中のようにくぐもっていた。ひとつだけ、遠くで硬い音がした。雨ではない。


「え……静かすぎない?」

 圭介が小声で言う。涼介も眉をひそめた。

「ここ、音を立てること自体がタブー……そんな感じしない?」

 信者たちは気づいているはずなのに、視線を向けない。三人の存在だけが、世界から切り取られているように。

「……なあ、拓海、今の撮れてた?」

「うん、バッチリ。でも……全部が演出みたいで、不自然だ」

 拓海はカメラを仕舞い、呟いた。


 次に案内されたのは、集会所裏の炊事場だった。竈から上がる湯気は白く、鉄鍋の蓋がわずかに震えている。

 信者の女性たちは山菜の皮を剥き、雑穀の粥を掻き混ぜていた。その顔に喜怒哀楽の影はなく、湯気に滲んで形を失っている。


 穂村が近づくと、女性たちは頭を下げた。だが彼女は応じず、ただ淡々と告げる。

「今夜の献立は、雑穀の粥と山菜の煮浸し、梅干しです」

「ずいぶん質素ですね……」

「慎ましさの中に、感謝と畏れのすべてが込められております」

 録音の平面に乗る声。起伏のない返答。


 周囲には風も鳥もなく、この空間には音という概念が最初から拒まれていた。静寂は神聖な膜となって張り巡らされ、いかなる振動も、その内側に触れることを赦されていない。

「ねぇ涼介……ちょっと不気味だよ、ここ」

「うん……けど絵としては最高だ。怖くないのに、怖い」


 再び集会所に戻り、三人がミーティングをしていると、穂村が音もなく近寄った。

「今宵の夕餉をご一緒に。……今夜は、天が騒ぎ出す夜となりましょう。お泊まりになることを、お勧めします」

 穂村の声は、どこか濡れていた。言葉というより、喉の奥で鳴る水音に近い。

 圭介は、なぜかその音を聞いた瞬間、眠気に似た重さを覚えた。涼介は窓の外の厚い雲を見て頷く。

「じゃあ、お言葉に甘えます」

 車中泊の予定は消えた。


「夕食後には、皆で禊の祈りを行います。信者以外は立ち入りできませんので、離れの一室をご用意いたします」

「……ここに泊まって本当に大丈夫なのかな……?」

 圭介が声を落とす。

「大丈夫だって。逆に泊まったほうが、なんかあるかもしれないだろ?」

 涼介は笑った。

「なあ……ほんの一瞬でいい。祈ってるところの、匂いだけでも切り取れたら、絶対バズる。な? 行くだけ。覗くだけだから」

 外では、雨粒が石を打つ音が静かに始まっていた。最初の一滴が落ちるたびに、空気が少しずつ重くなる。

 その音は——遠い心臓の鼓動。

 夜の胎動。

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