6.先輩


「常務、良いバーを見つけたんですが、一緒にどうですか?」


 部下の五十嵐にそう持ちかけられ、あかつきは誘いに応じることにした。


 八重やえ不動産社長の息子であり、取締役という肩書きであるとはいえ、暁はこの春大学を出たばかりの新米社会人である。立場としては部下だが、五十嵐はそんな自分の面倒を見てくれる先輩だった。十ばかり歳上だが、話題が豊富で人付き合いも良い彼は、役職も歳の差も関係なしに暁と交流を持ってくれる貴重な同僚である。


 会社を出たスーツ姿のまま五十嵐に案内されたのは、駅前から少し離れた路地に看板を出す、知らなければ通り過ぎてしまうような小さな店だった。彼は地方貴族の出身だというが、帝都の酒場については暁よりもずっと詳しい。


 カウンターしかない店内にはずらりと酒瓶が並んでいる。客は自分たちだけのようで、年老いたマスターが静かにグラスを磨いていた。


 慣れていない暁に代わり、五十嵐がおすすめの酒を注文する。やがて供された半透明の液体を口にして、暁はむせた。


「あっはっは、王子様の貴重な姿だなぁ」


 笑う五十嵐は、氷の浮いた琥珀色の酒を早くも半分飲み干している。


「なんですか、その、王子様っていうのは」

「えっ、知らないんですか? うちの貴重な女子社員は、みんなそう呼んでますよ。佐伯ちゃんなんか、王子様だから特別とか言って、常務のコーヒーには必ずキャラメル添えたりしてて」

「はあ……」


 確かに、会社で出されるコーヒーに小さな菓子が付いてくることはよくあった。特別だったというのは知らなかったが、気の利く社員がいるのだなと感心していた。生返事の暁をしげしげと眺め、五十嵐が笑みを浮かべる。


「常務、生活感ないですからねぇ。プライベートでは何してるんです? っていうか、休みあるんですか?」

「休みですか、まあ……」


 手持ち無沙汰にカラカラとグラスの氷を揺らしていた五十嵐は、しかしいくら待っても暁の言葉が続かないのを見て、最終的にそっと目を逸らした。


「マジか……。なんかすんません」

「いや、そういう意味ではなく。先日も取引先の夜会へ呼んでもらいましたし、社長の名代で新作の歌劇も見てきましたし」

「それ休みって言わないんだよなぁ……」


 勤務が無い日もそれなりにはあるものの、たいていは別の用事が入っている。時には、自分ですら把握していない予定がいつのまにか詰め込まれていることすらある。よって暁のスケジュールは常にギチギチで、果たしてプライベートとはなんだったかと頭を悩ませてしまうような状況だ。先日七重ななえ家を訪問できたのも、たまたま打ち合わせがキャンセルとなったためで、そうでなければ今回の件も書面で相談するつもりだったほどだ。


「自由な時間という意味では、確かにほとんど無いかもしれませんね。学生の頃は友人と会うことも今よりは多かったのですが」


 すばる曜子ようこは、ネット上の情報通だという男ともう対面しただろう。できれば直接会ってその話も聞きたかったが、自分の勝手で待たせてしまうくらいなら別の形で報告をもらった方が良いかもしれない。


「ご友人、というのは、噂の?」

「噂とは?」


 水滴の浮いたグラスから暁が視線を上げると、五十嵐は空いた左手をぱたぱたと振ってみせる。


「やだな、九重ここのえ家のお嬢様に決まってるじゃないですか。ずいぶん仲が良いと聞いていますが、まだ婚約発表はされないんですか?」


 揶揄からかうような口調で付け加えられた言葉を咀嚼そしゃくし、どう返したものか迷った末に、結局暁は再び黙り込む羽目となった。一旦返事を保留して、今度は慎重にグラスへ口をつける。付き合いで少し飲む程度の自分にはややきつい酒で、すでに頭のどこかが痺れたような感覚がある。


 九重本家に男児が生まれる気配がないとわかった時から、一人娘の婚約者の座は分家全てが狙っていた。昴の夫になることはすなわち、天下の九重財閥グループの頂点を約束されたも同然だ。それがどれだけの意味を持つか、などわざわざ口にするまでもない。

 分家筆頭として財閥総帥の覚えも良い上、ご令嬢と近い年齢の息子もいる八重家当主がこの好機を見逃すはずもなく、暁と昴は幼い頃から交流の機会を与えられてきた。しかし大人の思惑とは裏腹に、2人の関係は良い友人で落ち着いている。昴が元からあんなだったせいもあるが、暁の流されやすい気質のせいも大きい。

 とはいえ、他分家の許婚候補はというと昴本人に撃退されてとっくに全員引き下がってしまっているため、唯一付き合いの続いている暁が最有力候補に見えるのだろう。当主も否定しないので、八重不動産幹部でもこの話を信じているものは多い。


「これは五十嵐先輩のための忠告ですが、その話はあまり口外しないでいただけると……」


 万一、昴の耳に入りでもしたら、関係者が軒並み撲殺されかねない。もちろん、暁も含めてである。


「もちろん、発表前ですしね。それにしても、常務がああいう、なんというか、男勝りなのがお好みだったとは」

「いや、それは誤解です。断じて」

「またまた、照れなくったっていいじゃないですか。この前ちらっとだけお見かけしましたけど、すごい美人だし、スタイルだって抜群だし。あれを自分好みに躾けるのもロマンですよね、骨は折れそうですが」


 両手で胸の膨らみを示す五十嵐に、婚約の件がなくとも彼を昴に会わせるのは避けたほうが賢明だと、暁は判断した。


「五十嵐先輩、そんな話のためにわざわざ俺を誘ったわけではないのでは?」


 ため息混じりに話題を変えると、五十嵐は軽薄な笑顔を引っ込めた。寡黙な店主に声をかけ、次の酒を注文する。暁も自分のグラスに口をつけながら本題が切り出されるのを待った。


「……ご存知だとは思いますが、ほら、若い奴らが立て続けに無断欠席したでしょう。その件で、ちょっと」

「まさか、社長からまた何か言われましたか」

「いや、社長からはあれっきりですよ。そりゃあ、社長がネットだのゲームだの、ああいう浮わついたものが嫌いなのは社内でも有名ですから、かんかんになるのもわかりますけど」


 問題となった無断欠勤者には五十嵐の部下も含まれていた。他のトラブルとも重なったことで運悪く社長の目に留まり、直々に呼び出しの上、おそらくは厳しく叱責されたのだろうと思う。あることないこと怒鳴り散らす父親には暁も辟易することが多かった。


 しかし、五十嵐はゆっくりと首を振り、そして周りを伺うように客のいない店内へ視線を走らせた。

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