第8幕 非言語コミュニケーション中級・前編

時は満ちた。


「……あー、その、もう、大丈夫らしい」

「そうか」

「抜糸後の経過も異常ナシ」

「うん」

「だ……だから、多少……血流が良くなるような……激しい、運動?も、だいじょうぶ……ほら、こんな感じでテープだけ貼ってっから、あんま触んなければ……」

「累」

「……うん、何だよ」

「セックスを、しましょう」


ベッドに正座して向き合っている。僕は真っ直ぐに、真剣に告げた。僕の誠意だった。


「…………随分畏まっちゃって、どうも。」

「しましょう」

「分かった、分かったよ!だ、だけどさぁ、章?お前、ほんとにその……大丈夫か?」

「すごく、大丈夫だ」

「お、おう。あのな、俺は……再三言ってるけど、お前に家賃代わりとか、お前がオメガだから、セックスを求めてる訳・では・ない。これはOK?」

「オーケーだ」

「んじゃ、聞かせてもらうかな。章センセーのヤりたい理由」


累は照れ隠しをするように腕を組み、ふん!と態とらしく鼻を鳴らした。かつて累が高校教師に向けていた反抗的な態度、に程近い姿勢で聞かれている。


「……セックスとは非言語によるコミュニケーションなのだと、僕は思い至った」

「……なるほど。それが章の図書館からの収穫ってわけ?」

「そうだ。そして累がセックスを求めるのは、もちろん性欲が原動力だ、ということを君は教えてくれたけれど」

「……うん」

「本題はもっと別の部分だ。セックスは、身体が持つ言語のひとつだ。コミュニケーションの手段でしかない。僕はこれまでそれに怯えて、何かしら重すぎる意味を付与してしまっていたが……今は違う。僕はいま、高揚している。累とセックスできるということに。何故か。それは、多分僕は、累、きみと、ただ純粋に、繋がりたいんだ。触れたい。接続したい。おまえを分かりたい…………累と、つながりたい。」

「…………そっ、か」

「僕は、篠塚章は、僕は、ええと、荻原累とセックスが、非常にしたい。また失敗するかもしれないが、試みたい。こういった感情は───なんというか、知らない。すごく好奇心をくすぐられている。たぶん、今……僕はちょっとおかしいけれど、前回みたいに恐怖が割り込んでくるなら、それでうまくトントンに収まる気もする。どうする、累。試みるか。別日でも構わない。僕は今すぐでもいい。」


累は腕を組んだまま暫く目を瞑り、静かにこくりと頷いた。ゆっくりと組んだ腕を解き、その手は膝の上でぎゅっと握りしめられる。


「……章」

「なに」

「……試みたい。章、俺は……俺も、章みたいなこと、考えてた。章、俺……ほんとは、ずっと、」

「うん」

「……章がそう言ってくれるの、待ってた」

「ありがとう」

「すげぇなんか、嬉しくて、その……なんて言ったらいいかわかんねぇ、ううん……」

「よろしくお願いします」

「……っふ、くふふ、ははは。分かった、うん、よろしくお願いします」


お互いに静かに頭を下げる。顔を上げ、ほんの少し間合いを伺い───僕は自ら、累の唇を求めた。


すこしかちんと歯が鳴ったが、気にしない。何度も角度を変えて、累にキスをする。累とのキスは、あの夜好きになれたような気がする。舌を入れるフレンチ・キスは少し勇気が出ない。何度も海外の映画みたいに、小鳥みたいにキスに夢中になっていると、累は静かに僕の頬を撫でた。びくん、と僕が止まった隙に、累の舌が入ってくる。


累の生々しい温度の舌が僕の口の中を探る。僕は控えめに舌を絡めてみることにした。ぬる、とした異質な感覚、剥き出しの肉同士が絡んでいく。不思議な気持ちで、すこし腹の底がふわり浮くように思った。累の舌が僕の口蓋を刺激する度、やっぱり変な気持ちになる。でもこれは恐怖ではないと確信している。


累が唇を離すと、銀の糸が伸びて切れた。性的興奮によって唾液の粘度は上がるらしい。累は確かに性的に興奮していた。


累の唇は僕の頬や鼻先や耳に忙しなく触れていく。ちゅ、ちゅ、と響くリップ音が、背骨にぞわぞわと響く。これも、恐怖じゃない。


どさ、とベッドに押し倒される。一瞬恐怖の記憶で体がすくんだが、熱を帯びた累の視線でそれはどうでも良くなった。ごくり、と累が生唾を飲み、喉仏が上下する。美しいと思った。このうつくしい男に僕は、抱かれる。


「っう、く、んん……」


累は耳の周りを丹念に責めた。よく洗ってはいたが少し恥ずかしい。あの美しい累が、夜の街で輝く累が、僕に素顔を晒して懸命に愛撫している。くちゅ、ねち、と濡れた音が響く度、ぞわっと腹の中が戸惑う。優しく耳の縁を甘噛みされ、ぞくぞくっと背筋が震えた。恐怖じゃない。未定義の感情がそこにある。


僕らは下着一枚しか身につけていなかった。相変わらず僕の自身は機能を失っているままだが、時折累の張り詰めた昂りが布越しに触れる。恐怖ではない。これまで累のそれは、僕なんかに興奮してしまう可哀想な異常性癖の主張として面白おかしく感じていた。しかし今は、もっと違う。何かが違う。その熱に触れる度、離れる度、鼓動が早くなる。


累は静かに僕の身体を愛撫していく。痩せぎすの筋の目立つ身体を、舌で、手で、ゆっくりと定義していく。累が触れたところだけが実在を持ち、感覚を持っている。あんまり愛おしそうにするものだから、うっかり自分が累にとってそんなに大事なものなのかと勘違いしそうになる。


慎重に、慎重に、累は僕の下着へ手を伸ばす。思わずごくり吐息を飲んだが、フラッシュバックではなく緊張で身体が硬い。じっと観察するようにこちらを見つめている累の深紅の瞳に、僕はゆっくりまばたきして頷いた。


しかし累は僕の下着を下ろすのにやや苦戦していた。痩せぎすの体の骨に引っかかってしまっている。去年数ヶ月入院していた病院でやったように、少し腰を浮かせてやることにする。ずる、と布とゴムは僕の尻から離れ、僕は生まれたままと言うには歳をとって醜くなりすぎてしまった肌を全て晒した。


「章」

「うん、大丈夫だ」


累は僕の脚を割開き、その間に陣取った。一瞬バクン、と心臓が跳ねたが、累の皮膚と自分の皮膚が重なり合っている部分でなんとかここに留まっている。同い年なのに、累の肌はハリがありキメ細やかで、僕の肌は老人の様ですこしかさついていた。見比べるとあまりにもひどい。しかしじっとりと滲んだ汗で、今僕の肌は見た目より湿っている。


まだ爪が半分しか生え揃っていないつま先にキスされる。そんな所にもキスをすることがあるのか。本日酷使されている累の唇は、つま先から徐々に内腿へ向かってキスを繰り返していく。僕の棒きれのような脚でも、内腿はすこし湿度を帯びているのだと知る。浮き出た腰の骨を舐められると、僕はよく分からない素っ頓狂な声を上げた。


「かわいい声、続けて」


累にそう言われたら、僕の懸念はもうぐずぐずになってしまう。ぐったり投げ出した脚の間には、僕の力なくくたびれたペニスがあった。累は僕をじっと注視して様子を見ながら、それを恐る恐る撫でた。びくん!と身体は反応するが、不快ではなかった。他の部位を撫でられた時と同じ気持ちだった。


「ここも元気になるといいな、いつか」

「僕はオメガだから……このままでも支障はないだろう」

「オメガってより前に、お前の身体だから」


なにも言い返せなかった。


そして累の指先は、慎重に、慎重に蟻の門渡りを通り過ぎて、僕のそこに触れた。オメガとしての性器であり排泄口でもあるそこ。ほんのわずか、うっかり聞き漏らしてしまうほど微かに、にち、と音がした。


「ちょっとだけだけど……濡れてる。章、大丈夫か。今気分悪くないか」

「濡れたのか?僕の穴は!」


思わず飛び起きて累に詰め寄る。累は黙って、ほんの僅かに愛液に濡れた指を見せてくれた。

僕はそれに飛びつくように食らいついて、舐めた。


「え」

「んん……確かに腸液ではなく愛液のような……酸味…………そうか、僕、そうか……」

「……そうだな。俺もすげー嬉しい。でも、その……多分、足りないから、」

「うん。潤滑剤はそこに置いておいた。そちらの補助を利用してくれると助かる」


僕はベッドサイドのアナル用ローションを指さし、思い切りばたんとベッドに倒れ、目を瞑った。累は暫し戸惑い、恐る恐るそれを手に取ったようだった。


「あー、あの、章、ひとついいか」

「なんだい。もう好きにしてくれ」

「違う、ちゃんと決めとこう。もし……もし、本当に怖くて、でも俺が全然言うこと聞いてくれないとかそういうことになったら……章、あの」

「なぐる」

「殴れないかもしれないって話!セーフワードを決めさせてくれ。今すぐ俺に止まって欲しかったら、俺のことフルネームで呼べ。荻原累。分かったか?勿論ちゃんと章のペースで進める、進めるけど……」

「分かった。累、じゃあ逆に僕がおかしくなって、またきみを殴ったり、叫び出したりしたら……昔の呼び方で呼んでくれ。シノって呼んで。これでいいかい」

「…………うん、いいって、ことにさして。」

「ああ」

「…………触るよ、いいね」


僕は静かに頷いた。


累の指先は、その穴の状態を観察するようにゆっくりと表を撫でていく。ほんの僅かな、しかし奇跡的な、僕により分泌された愛液が、爪の先ほどだけ累を受け入れる。それ以上は無理だ。しばらく放っておかれたかと思えば、累の指は潤滑剤を纏って再侵入を試みた。


ふー、とゆっくり息を吐いた。心臓が痛いほど強く早く脈打っている。怖い。自分の臓物の内側が怖い。きっと肉色なんかしていなくて、汚れて真っ黒なんじゃないかと思う。できそこないのオメガ。累を受け入れるにはあまりにも身分不相応な自分。ここにいたくない、いきているのが怖い。できる限りゆっくり息をする。ゆっくり息をする。ぎゅっと目をつぶって、何も感じないように、これ以上僕が暴れ出さないように────


ぐちゅ、にちゅ、ぐちゅっ。


耳を覆いたくなるほど下品な音がまさに僕の下半身から響いている。累の指を今、ようやく一本呑み込んだようだった。累の指は丁寧に僕の内壁をぐるりと撫でた。ああ、知られてしまった!累のあの美しい瞳に、僕の内側が映り込んでしまった!


「あきら」


累の柔らかい声で、止まりかけた呼吸が蘇る。溺れる者のように思い切り酸素を吸って吐く。


「あきら、ごめん、もうやめるか」

「やめっ……ない、やめないっ」


だって累がそうやって内ももを撫でてくれる度、累と肌が触れ合う度、まだ大丈夫だと思えている。


「続けていいのか」

「続けろ、続けろっ」


僕はもういっそめちゃくちゃになってしまえと、累のことを軽く蹴った。流石に甘えが過ぎたか、みっともないか、と思い恐る恐る目を開くと、累もまた、みっともない顔をしていた。

恐れ。期待。性欲。わかって欲しい。焦り。

その美しい顔をぐちゃぐちゃに乱しながら、彼は僕のナカに指を突っ込んでいたのだ。


「続けるからなっ」


累ももういっぱいいっぱいだった。僕の秘部に触れる指先は震えていた。大袈裟に潤滑剤を足して、また僕の内側に累の指が挿入される。二本だ。増えた質量をゆっくりと、でも確かに呑み込んでいく自分の身体に、吐き気と同時に微細な達成感を感じている。

累の指はしなやかで美しい。僕の節の目立つ不格好な老人の杖みたいな指と大違いだ。その無駄のない線でできた指は、腹の中で感じると確かに男性のもので、アルファのものだった。


僕を溶きほぐし解き明かすように指が蠢く。肉壁を押して、撫でて、かき混ぜる。少しずつ抽挿を交える。丁寧に、丁寧に、まるで僕は下拵えをされている高級な生肉だ。意識して大きく息を吸っていると、不思議と嫌悪感や吐き気は晴れていく。累の匂いだ。寝香水だと思っていたあの匂い、芳しく心の底が静まるような夜明け前の匂い、あれは、累のアルファとしてのフェロモン臭だったのだ。それを思い知った瞬間、ずくん、と腹が疼く。壊れていてどんなに回しても雑音しか拾わず、たまに喋っていたようなラジオがようやく歌声を拾ったかのようだった。累のフェロモンが分かる。累が、僕に、発情して、昂るそれを挿入したがっていることがわかる。ああ、そうだったのか。


累、君はずっと、僕でよかったのか。


オメガのフェロモンは無差別に有象無象へ撒かれるが、アルファのフェロモンは好いた相手、孕ませたい相手にしか発することがない。僕のフェロモンは枯れ果てていたが、累はずっと僕にだけ、それを放ち続けていたのだ。


僕の身体はやっと累のそれを受け取った。ぞわぞわとつま先から頭のてっぺんまで満たされるような震えるような気持ちが這い上がる。腹の奥が熱くなって、年がら年中冷たく沈んでいる僕の体温が少しずつ上がっていく。息がいつも通りできるようになって、そして浅くなる。累の指が三本になって、強く体内を擦る。僕って生きているのか。僕の身体はまだ、快楽を拾って、累と接続する気があるのか。


晴れた夜空みたいな気持ちだった。ぐじゅぐじゅとひどい水音がちゃんと淫靡なものに聞こえる。僕は性的に興奮している。たったそれだけの事が、僕には、とてつもない大発見だった。


「う、るい、累、んん、う、うう」

「……苦しいか。ごめん、もう少し……」

「累」

「ん、なに」

「もう、来てくれ」

「……焦ってんのか?」

「ううん、違う。累……僕は……おまえが欲しい」

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