第14話:神官はヤキモチを焼く。

伝説の鍛冶師ゴードンが、三十年ぶりに槌を握った――その噂は、鉄と炎の都ヴルカンヘイムを、一陣の熱風のように駆け巡った。

ゴードンの工房には、今や、彼の復活を祝う昔なじみの職人たちや、その腕を頼ろうとする商人たちが、ひっきりなしに訪れるようになっていた。


そして、その工房に、もう一つの、新しい光が灯っていた。

ゴードンの孫娘、ハンナだ。


「いらっしゃいませー! おじいちゃん、お客さんだよー!」


太陽をぎゅっと絞って作ったような、快活な笑顔。すすけた作業着に、無造作に束ねた栗色のポニーテールがよく似合っている。彼女は、祖父が再び槌を握ったことが、心の底から嬉しいのだろう。工房の看板娘として、かいがいしく立ち働いていた。


俺とセレスは、ゴードンが旅の準備を整えるまでの数日間、この活気を取り戻した工房に、厄介になることになった。

そして、事件は、そんな穏やかな昼下がりに起こった。


「リクさん、すごい! 本当にすごいよ! あんなに頑固だったおじいちゃんを、また笑わせてくれたんだもん!」

ハンナは、キラキラと輝く瞳で、俺に駆け寄ってきた。その瞳には、純粋な尊敬と、子犬のような好意が、満ち溢れている。

「ねえねえ、リクさんの故郷って、どんなところなの? もしかして、王子様とかだったりする?」

「いや、平社員だった」

「ひらしゃいん? なにそれ! すごい位の騎士様!?」

「いや、どっちかっていうと下っ端の兵隊みたいなもんだ」


俺の、気の抜けた返事に、ハンナは「えー!」と言いながらも、きゃっきゃと楽しそうに笑っている。

俺も、彼女の裏表のない明るさは、嫌いではなかった。ついつい、頭をわしゃわしゃと撫でてしまう。

「あんたは、偉いな。爺さん思いで」

「えへへ、そんなことないよ!」


そんな、微笑ましい(と俺は思っていた)光景を。

少し離れた場所から、凍てつくような視線が、突き刺さっていることに、俺は、まだ気づいていなかった。



異変に、最初に気づいたのは、その日の昼食の時だった。

ハンナが、俺のために「特別だよ!」と言って、肉がごろごろ入ったシチューを持ってきてくれた。


「わ、すごい! 美味しそう!」

ハンナが、満面の笑みで俺の隣に座る。

その瞬間、テーブルの向かい側に座っていたセレスの持つフォークが、皿の上で、「キィィィィッ!」と、黒板を爪で引っ掻いたような、この世の終わりみたいな音を立てた。


「…セレス? どうかしたか?」

「……いいえ。何でもありません」


セレスは、そう言うと、ぷい、とそっぽを向いてしまった。その横顔は、能面のように、一切の感情が抜け落ちている。


その日から、セレスの様子は、明らかにおかしくなった。

俺がハンナと一言でも話そうものなら、どこからともなく現れ、「リク。祈りの時間です」と、俺の腕を掴んで連行していく。

ハンナが、俺に焼きたてのクッキーを差し出せば、その間に、物理的に割り込み、「リク。神聖な武具の手入れは、神に仕える者の、重要な務めです」と、俺の新しい剣を、ピカピカになるまで磨き始める。

そして、一人になると、工房の隅で、ブツブツと、何やら恐ろしい気迫で祈りを捧げているのだ。


「おお、全能なる神よ…なぜ、私の心は、このようにささくれだっているのでしょうか…。なぜ、あの娘(こ)の屈託のない笑顔が、陽光の下で美しく発酵している堆肥のように見えるのですか…。我が内に巣食う、この、黒く、淀んだ霧は、一体…。主よ、どうか、我に、不動の心の平穏を…!」


その祈りは、もはや神への信仰というよりは、悪魔祓いの儀式に近いものがあった。


俺は、そんな彼女の変化の理由が、全く分からなかった。

むしろ、日々、祈りの時間が増えていく彼女を見て、こうとさえ思っていた。


「よお、セレス」

俺は、鬼気迫る表情で祈りを捧げる彼女の背中に、声をかけた。

「なんか今日、やけに神々しいな。後光が差してるぞ。そろそろ、悟りでも開けるんじゃないか?」


俺の、能天気な一言。

それが、引き金だった。


セレスは、ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、こちらを振り返った。

その顔には、完璧な、聖母のような微笑みが浮かんでいた。

だが、その瞳は、一切、笑っていない。

むしろ、その奥には、絶対零度の、ブリザードが吹き荒れている。


「リク。少し、よろしいでしょうか」

「え、あ、はい」


なんだ、この威圧感は。ゴブリンの群れより怖いぞ。

俺がたじろいでいると、工房の奥から、豪快な笑い声が響いた。


「クックックッ…! 小娘、てめえのその黒い霧の正体なんざ、分かりきってらあ!」

ゴードンが、ニヤニヤしながら、こちらに歩いてくる。

「素直じゃねえな、神官様よ。焼き餅焼いてんなら、そう言やあいいだろうが」


「「や、焼き餅…?」」

俺とセレスの声が、またしても綺麗にハモった。


「ハッハッハ! ハンナの奴、すっかりリクに惚れちまったようだからな! お前さん、気が気じゃねえってわけだ! こりゃあ、ひ孫の顔を見る日も近いわい!」


ゴードンの、悪気のない、しかし、致命的に配慮のない一言。


――ドカン!


何かが、爆発したような気がした。

セレスの、聖母の微笑みが、ピシリ、と音を立てて砕け散る。

そして、彼女は、すっくと立ち上がった。その周りだけ、気温が五度くらい下がった気がする。


「ゴードン様。そのような、根も葉もないことを、おっしゃるものではございません」

静かだが、鋼のように硬い声。

「リクは、誰のものでもありませんから」


その言葉の裏に、『だから、アンタの孫娘のものにもならねえんだよ』という、恐ろしいほどの圧が込められているのを、俺の『なんとなく本質が分かる』能力が、警報レベルで感知した。

俺の脳裏に、渦巻く黒いオーラと、巨大なテロップが浮かび上がる。


**【嫉妬(ジェラシー)】**


……まじか。


俺は、目の前の、般若のような微笑みを浮かべた聖女様に、恐る恐る、震える指を差し向けた。


「セ、セレス…? お前、もしかして…その…」


俺が、核心の言葉を口にする前に。

セレスの完璧なポーカーフェイスが、ガラガラと、音を立てて崩壊した。

彼女の顔が、火を噴いたかのように、首筋まで、真っ赤に染め上がっていく。


「ち、ちちち、違います! 断じて、違います! 私は、ただ! リクが、その、誰に対しても無防備で、不用心で、危機感がなさすぎるのを、心配していただけで…! そ、そうです! 心配です! これは、信仰に基づく、隣人愛です! 決して、個人的な感情などでは、断じて、これっぽっちも、ミジンコほども、ありませんからああああああっ!」


早口で、支離滅裂な言い訳を叫びながら、セレスは、ガタン! と、側にあった武具の棚にぶつかった。

棚の上の、兜や鎧が、派手な音を立てて床に散らばる。


「ひゃっ!?」


それに驚いたセレスは、慌てて後ずさり、見事に、自分のローブの裾を踏んづけた。

そして、ツルーン! と、美しい放物線を描いて、すっ転んだ。

幸い、床にあった麻袋がクッションになったのか、怪我はなかったようだが。


「…………」


彼女は、しばらく、床で燃え尽きたように白くなっていたが、やがて、むくりと起き上がると、俺たちの顔を一切見ることなく、脱兎のごとく、工房から走り去っていった。


後に残されたのは、腹を抱えて爆笑しているゴードンと、床に散らばった武具と、そして、事態が全く飲み込めずに、呆然と立ち尽くす、俺だけだった。


「……クックックッ…こりゃあ、退屈しねえ、実に、退屈しねえ旅になりそうだわい」


ゴードンの、愉快そうな声が、工房に響き渡る。

俺は、ただ、セレスが走り去っていった扉の向こうを、見つめることしかできなかった。

女心というものは、どうやら、巨大スライムの攻略法より、遥かに、複雑で、難解であるらしい。

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