第33話 三ツ進ム/ナリシ者双六【破 • 二】

 五月十九日 夜半の薄闇


 双六の話をしようとした――だが声が出ない。


 喉を抑え、唇を震わせる。


 あの双六。


 文字を書こうとしても、手が硬直し、万年筆は机の上で無力に転がる。


 ――どうしても、伝えなければならないのに。


 頭の中を、何かに読まれているような感覚が走る。


 考えが先回りされ、遮られる。

 伝達の手段をことごとく封じられ、私は三人にどうやって伝えればいいのかと途方に暮れた。


 三日前、原稿用紙にはただ一行、こう記されていた。


『一番目ノ駒、進ム』


 進むだけでは終わらせない。

 一番目の駒は私だろう、ならば必ず三人に現状を伝える。


 そう決心していた。


 必死に考えながら、朝食の席の食卓を見回す。皿、箸、箸置き、茶碗――日常の道具たち。目に映るものを使えば、伝えられるのではないか。


 私は四角い皿に、四人分の箸置きを駒に見立てて置いた。

 机の上でひとつずつ箸置きをつかみ、進めてから隠す。その動作を、何度も繰り返す。


 こんなのじゃ伝わらない……。


 真珠は首を傾げ、意味を掴めずにいるようだ。泣きそうになりながら、必死で身振りを重ねる。


 私の異様な様子に、ただ事ではないと感じ取ったのか、三人は神妙な顔つきで手元を見つめていた。


 双六が――いや、あの古い箱が、屋敷のどこかで消えてしまったことを、どうしても伝えたいのだ。


 私は震える手で、再び箸置きを動かす。

 そのとき、閃いた。


 ――はっきり書かずなら、妨害されないのではないか?


 急いで手帳からページを破りとり、走り書きをする。

 長文はダメだ。長考すると、また先回りされる。短く、しかし意味の通じる文を。


 書きあげたのは一首の歌だった。


 古き箱

 指触れぬうち

 宵に消え

 棚の底より

 ひそと蠢く


 私は無言のまま、視線で三人に示した。

 紅玉の瞳が揺れる。翡翠の視線が鋭くなり、真珠は「なるほど」と頷いた。


 翡翠の小さな吐息が漏れる。


「最近の所在のわからない不快感は、その“箱”なんですね」


 伝わった! 私は何度も頷いた。


 バチリ――


 何か弾けたような音を聞いた瞬間、口と思考が自由になった。


「みんなで遊べる面白いおもちゃだと思って、お宮の縁日で買った双六が……屋敷で行方不明になったんです」


 言葉が堰を切ったように溢れ出した。

 私は肩の力を抜き、短く息をついた。


 紅玉が、キュッと抱きついてくる。


「主さん、一人でよく頑張ったね! 怖かったよね……主さんが必死で呪を解いたから、術を破れたんだよ? すごいよ」


 温かさに緊張が解け、安心感が胸に満ちる。


 私は心から三人に謝罪した。軽率に怪しい代物を持ち込んでしまったことを。


「双六でみんなで遊ぼうなんて、アンタ可愛いとこあるじゃん? 謝んなよ」


 と真珠が笑う。


「そうです。主は悪くありません。僕らにも簡単に探知させないものを、人間である貴女が気づけなくて当然です。

 ただ――その箱に良からぬ術を掛けた者は、僕らと同等か、それ以上の力を持っていますね……」


 翡翠が真剣な顔で呟く。

 私は箱に【ナリシ者双六】と書かれていたことを伝えた。


「ナリシって“成りし”かな? なら、『口を借りる』『口を塞ぐ』って、この前翡翠が言ってた呪歌の膳も、その繋がりか……なるほど、箱を媒介にここに入ろうとしてるってことか。嫌な術。主さんを利用するなんて許せないよ」


 紅玉が眉を顰める。


「ナリシ者……か」


 真珠が考え込むような仕草を見せた。


 言葉を短く切り、必死に伝えきった。

 いつも助けてもらってばかりだったけれど、自分の力で打ち破れたことが誇らしかった。


 その実感が、心の奥に静かに広がる。


 夜の屋敷には、まだ微かなざわめきが残っている。

 だが、少なくとも今は、三人に伝わった。


 双六の不穏な気配に立ち向かう第一歩を、私は踏み出したのだ。

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