真珠語り『ラーメン、それは湯気と魅惑の夜食』

 夜中の二時、腹が鳴った。


 我慢する理由なんてない。だから俺は台所で新聞を読んでいた翡翠の襟を引っ掴み、紅玉の寝ている部屋の障子を開けて俵担ぎにし、最後に主の部屋をノックした。


「ラーメン行くぞ!」


 最初は「今ですか」「眠いのに」だの言っていた二人も、俺が夜しかやってないイチオシの店だと言うと、なんだかんだで支度を始めた。


 主だけは、はじめから嬉しそうにしていたから俺は機嫌がいいから二人の文句は目をつぶってやる。


 ---


 山道を抜け、川沿いを進み、獣道のような細道に入ると、視界がぱっと開ける。

 そこに金と朱の看板が灯る小さな店。暖簾には墨で「一幻屋」と染め抜かれている。戸を開けると、香ばしいスープの香りと湯気をまとった空気が押し寄せた。


「おう、真珠じゃねぇか」


 カウンター奥で腕まくりをした赤鬼の店主が笑う。立派な角が湯気に霞んで見える。


「今夜は賑やかだな。人間のお嬢さんも一緒かい?さぁ注文は?」


 待ってましたとばかりに、俺はカウンターに身を乗り出す。


「黒ごま油豚骨大盛り、野菜マシマシ、ニンニクと背脂ガッツリで、チャーシュー多め、味玉二つ、ねぎだく!」


 翡翠は涼しい顔で、


「普通盛りのチャーシューメン、麺はカタ、ネギ多めで」


 紅玉は椅子に背伸びし、真っ直ぐ挙手して


「ミニラーメン一つ、味玉と餃子を柚子胡椒で」


 主は少し迷っていたから俺イチオシの「黒ごま油豚骨ベース」を勧めた。ほっとしたような顔をして注文する。


「黒ごま油豚骨チャーシューメンを普通盛り、ねぎだくでお願いします」


 お勧めを頼んでくれてなんか……わからないけど、ほわって顔が熱くなった。


 店内は静かだが、鍋の湯気がくるくると舞い、湯切りの音が響く。

 外はいつの間にか霧が濃くなり、窓の外には林も街も見えない——この店は夜の間だけ世界のどこかに浮かぶ、幻の場所なのだ。


 渋ってた二人もワクワクした目をしてやがる。

 ほらな、常連の俺に任せときゃ間違いない。


 ---


 白く輝くスープが注がれ、背脂がきらりと光る……湯気が香りを運び、丼が一斉に並ぶ。


 俺は山のような野菜を崩しながら啜り、スープのコクとニンニクの刺激にうなる。


 翡翠は冷静に一口。


「太麺ととろみのある豚骨スープの相性が絶妙です。チャーシューの味の染みかたも香ばしく、全体がキリリと引き締まっています」


 と評した。

 店主は「真面目な食レポは初めてだ」と豪快に笑った。


 紅玉は湯気をふうふうしてから、


「……おいしい……」


 と目を細め、味玉の黄身がとろけるのを嬉しそうに眺める。


 そして主がレンゲを手に取る。

 一口、スープを含んだ瞬間、驚きに目を見開き、ふっと笑った。


「……今まで食べた中で一番美味しい。このスープ、飲んだ瞬間に身体がほどけていく感じがする。」


 ——その言葉に、ちょっと誇らしくなる。

 連れてきてよかったと思う。


 ---


 食い終わり、俺たちがカウンターから立ち上がると、鬼の店主はカウンター越しにやりと笑った。


「……また来な」


 その声は低く、湯気と一緒に胸の奥へ染み込むようだ。


 瞬き一つの間に、その大柄な影は湯気の向こうに薄れ、角も輪郭も白に溶けた。

 次の瞬間には、カウンターも、暖簾も、スープの香りも——すべてが霧に呑まれていた。


 気づけば俺たちは、ひんやりとした山道の入口に立っていた。

 足元の石畳も濡れ、遠くで川の音がする。


 ……この店は夜の幻なのだ。

 だが味と匂いは確かに残っている。

 常連としての俺だけの宝物——今夜は、それを主にも分けられた。満足だ。


 振り返ると、そこにはただ気配だけが薄く漂う。


 主が小さく「また連れてきてね」と呟いた。今度は二人で来たいなぁと考えたら、何かを察した紅玉と翡翠がジロリと俺を見たが無視して


「いつでも、連れてきてやんよ」


 と、主の手を取り家路に歩き出した。

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