第9話 修行
——翌朝。
サイラスは、子どもの甲高い笑い声に目を覚ました。エマが、サンとツキとじゃれ合っている。サイラスは、数日ぶりに見るサンとツキの姿に、どこかほっとした。
「ふふふ、そなたの連れは、おぬしの無事を確かめるために、毎日、二匹を寄越しおる。いい仲間に巡り合ったな」
マグナスは目を細めて言った。
三人は簡単に食事を済ませ、サイラスとマグナスは外に出た。
「これが最後じゃ、サイラス。そなたにとって、おそらく最も辛く、厳しいものになるであろうな」
マグナスは歩きながら、静かに言った。
遺跡よりも、さらに深い森の奥へと進んでいく。人の気配はない。道らしい道はなく、ただ鬱蒼と茂る木々のあいだを縫うようにして歩いた。
ふと、背後に気配を感じた。一定の距離を保ちながら、じっとこちらの様子を窺っている。
「サイラス、どう戦う?」
そう言うと、マグナスの姿が音もなく消えた。
十メートルほど先だろうか、サイラスの倍はある巨体の熊の姿があった。そのまた後ろに、二匹の小熊が潜むようにしてこちらを見ていた。
(まだ、小さい。おそらく、今年生まれた子どもだろう。母なしでは、到底生き延びることはできまい)
母熊は、子どもを守ろうと、じりじりと距離を詰めてくる。五メートルほどまで近づくと、ウロウロと落ち着きなく、行ったり来たりしながらこちらの隙をうかがい始めた。
サイラスは、ゆっくりと後ろへ下がった。なるべく刺激しないように、慎重に。しかし、足元で枯れ枝がパキリと鳴った。
次の瞬間、母熊は咆哮を上げながら飛びかかってきた。
咄嗟に、近くに落ちていた枝を手に取って構える。だが、自然の獣を相手に枝一本で敵うはずもない。
母親がその枝を弾き飛ばし、鋭い爪でサイラスを地面へと叩きつけた。圧倒的な力。胸にのしかかる重みとともに、命の危険が、現実となって迫ってくる。
その時——。
体の奥底から、凄まじい波動が噴き出そうとしていた。
いけない!
このままでは、母熊を——。
全身の力を振り絞り母熊を押しのけると、後方へ走った。母熊は、凄まじい勢いで迫ってくる。重たい足音が、背後から地を揺らす。
サイラスは振り返ると、瞬時に地面へと意識を集中させた。
バキバキバキィィッ!
母熊とのあいだに、大きな亀裂が走る。四メートルほどの深い裂け目。その向こうで、母熊はサイラスを鋭く睨みつけていた。
(この距離なら、近づけまい)
波動の制御に、サイラスは全てのエネルギーを使い果たしていた。抑えきれず、今にも噴き出しそうな力。その奔流を内に封じ込めようと、必死に堪えていた。
意識が……朦朧とする。途切れそうになる意識の中、残るすべての力で”風“を呼んだ。
風が立ち昇り、枝葉が渦を巻きサイラスを隠す。今にも切れそうな意識を必死に掴みながら、息を潜めた。
小熊たちが、おそるおそる母熊に近づいてくる。母熊はまだ、裂け目の向こうで行ったり来たりしているが、やがて一声、咆哮を放つと、子熊を伴って森の奥へと姿を消した。
サイラスは、それを見届けてから、ようやく力を抜いた。風が止み、森の静寂が戻る。そのまま地面へと倒れ込んだ。
——息が、苦しい。
「なぜ、母熊を殺さなんだ?」
いつの間にか隣に立っていたマグナスが、静かに訊ねた。
「まだ、子どもは小さい……母親が必要だろう」
かすれる声で、絞り出すように答えた。
——そして、記憶が蘇る。
遠く、遠く、封じてきた記憶。できることなら、二度と思い出したくなかった過去。
涙が、零れ落ちる。
あの時も、別の手段があったはずだ。ただ、全身からあふれる波動をぶつけるしかなかったあの時も。
嗚咽が、漏れる。
——制御できるかどうか、なのだ。
マグナスの言葉が、頭の中で反芻する。
マグナスはそっと、サイラスの背を撫でた。
まるで、すべてを知っているかのように。
あの日のことも、心の奥に沈めた記憶のことも、すべてを。
サイラスは大きく息を吐き、ゆっくり立ち上がるとマグナスの方へ向き直った。
「私の修行とは……自分の力を制御することなのですね」
マグナスは頷いた。
「そなたはまだ気づいておらぬが、そなたの波動は、周囲にとって脅威となりうる。だからこそ、そのまま使ってはならぬ。正しく制御し、正しく使わねば、多くの者を傷つけることになるのじゃ。
波動は、進化する技術と同じじゃ。使う者の意思がそのすべてを左右する。
“正しく使う”という確固たる意思がなければ、どれほど優れた術も、技も、むしろない方がマシじゃ……。いずれ、破壊を招くだけじゃからの」
サイラスは母熊に引っかかれた腕をそっとさすりながら、静かに耳を傾けた。
「器であるそなた自身が、制御の術を身につけねばならぬ。時間はかかろう……。じゃが、必ず、自在に扱える時がくる」
マグナスは、傷を負ったサイラスを見つめ言葉を続けた。
「さあ、家に戻ろう。その傷を手当てせねば。そなたの仲間が心配するじゃろうからな」
(自分の波動を制御? 本当に、この荒れ狂う力を扱える日がくるのか……?)
サイラスは、自信なげにうつむいた。
家へ戻ると、サンとツキが寄ってきた。血だらけの姿にエマは怯えた顔をしている。サンは心配そうに体を舐め、ツキはそっと寄り添っている。
「サイラス、これで拭くとよい」
マグナスは、絞った濡れ布巾を手渡しながら言った。サイラスは痛みに顔をしかめながらも、傷口の血を丁寧に拭い落とした。すでに出血は止まっており、しばらくするとズキズキとした痛みも和らいできた。
「このお茶には、傷が膿むのを防ぐ効能がある。飲むがよい」
喉の渇きを覚えていたサイラスは、一息に飲み干した。
「サイラス」
マグナスが、少し声の調子を変えて話しはじめた。
「わしが教えられることは、もうない。そなたが『王家の書』を探すかどうかは、お前次第じゃ。じゃが……、ひとつだけ頼みがある」
彼は、そっとエマに視線を向けた。
「この子を、安全な場所へ連れて行ってはくれぬか? わしももう老いぼれじゃ。いつまでもこの子の面倒を見てやることはできぬ。どこか安全な国で……この子が、心安らかに暮らせるように導いてくれ」
「紅血の一族」を匿ううえで、最も安全な場所——それはアヌシー以外にない。
父王のもとであれば、エマは安心して暮らせる。だが、すぐに送り届けることは難しいだろう。旅の途中で父に知らせ、信頼できる者に託すほかあるまい。
「マグナス殿、必ず、エマを安全な場所へ送り届けます」
その言葉に、マグナスは安堵の笑みを浮かべた。そしてエマの頭に手を置き、やさしく撫でる。
「エマ。これからはサイラスたちと一緒に行くのだ。サンとツキもいるから、きっと寂しくはない。サイラスの言うことをよく聞いて、無事に過ごすのじゃぞ」
エマは駄々をこねるわけでもなく、黙って頷いた。瞳には今にもこぼれそうな涙が浮かび、それでもこらえるように唇をきゅっと結んでいる。
自分の痣について、マグナスから話を聞いているのだろう。自分が「特別な存在」であることも、どこか理解しているようだった。
アヌシーであれば、きっと安全だ。教育もきちんと受けられ、何不自由ない生活を送れるはずだ。それは、エマにとって幸福な未来に違いない。 だが、マグナスと共に過ごした温かな時間に勝るわけではないだろう……。
マグナスは、エマのわずかな荷物を丁寧にまとめると、それをサイラスに手渡した。サイラスは、エマの小さな手を優しく握りしめ、深く頭を下げて家を後にした。
エマは歩きながら何度も何度も後ろを振り返っていたが、マグナスの姿が見えなくなると、ようやく前を向き、静かに歩き始めた。サンとツキが、エマのそばをずっと離れずについてくる。
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