第8話 王家の書
小さな家に戻ると、エマが玄関先で、今か今かとマグナスの帰りを待っていた。
「おかえなさい、マグナス!」
満面の笑みで駆け寄るエマの手をマグナスは優しく取り、一緒に家の中へと入っていった。
「サイラス、腹が減ったろう。しばらく、ゆっくりするがよい」
夕食の支度を始めると、エマは嬉々としてマグナスの隣に立ち、手伝いながら森での出来事を話し始めた。
サンとかけっこしたこと、背中に乗せてもらったこと、ツキが器用に枝から枝へと飛び移りながらついてきたこと──その一つひとつを、目を輝かせながらとめどもなく話す。
マグナスは静かに微笑みながら、手の動きを止めることなく話に耳を傾けていた。時折、相づちを打ちながら、話の途中でエマの髪から葉っぱをそっと取ってやる。
サイラスは、台所の片隅でその光景を見守っていた。二人のやりとりはごく自然で、実の祖父と孫のようだった。
食卓には、薄く焼いたパンと蒸したじゃがいも、そして鍋の中でとろりと溶けたチーズが並んだ。濃厚な香りが家全体に広がる。
サイラスにとって、それは見慣れない料理だった。だが、じゃがいもにチーズをたっぷり絡めて口に運んだ瞬間、素朴な食材はまるで別物のように変わった。
決して安くはないはずのチーズを惜しげもなく使っている。その料理に込められた気遣いを、サイラスはありがたく思った。
食後、マグナスは深々と椅子に座り、静かに語り始めた。
「『王家の書』のことを話しておかねばなるまい」
マグナスは、湯気の立つカップを両手で包み、しばらく沈黙したのち、静かに口を開いた。
「『王家の書』は……二千年以上前、ある一人の人物によって記されたものじゃ。その頃、地球はもはや人が住める場所ではなかった。欲望が技術を上回り、戦争と搾取が繰り返され、地球そのものが蝕まれていたのだ。
そなたも、あの遺跡で見たであろう? 焼け焦げた空、廃墟と化した都市……あれは幻ではない。確かに、かつて起こったことじゃ。
その書には、人類の進化、破壊、そして再生への希望が記されておる。予言ではない。ただ積み重ねられてきた破壊と、わずかに残された希望の記録じゃ」
「破壊と希望……」
サイラスが小さく繰り返す。
「そう、人の魂も文明も、同じ過ちを何度も繰り返す。だが、破壊を招くのも、受け継ぎ未来へ託すのも……結局は人なのだ。『王家の書』には、それが記されておる」
おとなしく聞いていたエマは、サイラスの方を向いた。
「サイラスは、『王家の書』を探して旅をしてるの?」
問いかけに、サイラスは頷いた。
胸の奥に浮かんだ疑問が、言葉になる前に沈んでいく。
(私に…なにができる? そもそも私は、その書を手にするのに値する者なのか……)
マグナスは、そんなサイラスの迷いを見抜いたようにゆっくりと続けた。
「『王家の書』は、いつしか”再生への道しるべ”として語られるようになった。その書さえあれば、かつて辿りついた進化の果てに再び行きつける……と。だが、それは幻想じゃ」
疲れたように、息を吐いた。
「『王家の書』を手にしたとて、この世界を変えられるわけではない。人類のかつての進化を垣間見られるかもしれんが、それに触れた者が進化するとは限らん。そもそも、進化という言葉の意味さえ……今では曖昧なものになっておる」
サイラスは疑問を口にした。
「……あの惨状から、人類はどうやって立ち直ったのですか?」
「地球が、ふたたび命を育む場所に戻るまで、長い時間がかかった。残された人々は、散り散りになりながらも、細くかすかな命を必死につないできた。何もかも失いながら、それでも人は生きようとした」
湯気の向こうを見つめながら、静かに言葉を続けた。
「彼らはただ、残された日々を生きた。そこに、偉大な物語はない。ただ一歩ずつ歩き、土を耕し、水を守り、子を育てた。その積み重ねが今の世界につながっておる」
サイラスにとって、『王家の書』は王国を救う鍵だった。伝説のように語られるその書が、実在するというなら……、それだけで十分だった。だが、マグナスの語るそれは、まるで別の意味をもっている。
(本当に、それを追い求めるべきなのか…? 今の……人類が手にすべきものなのか?)
「今、その書はどこにあるのですか?」
マグナスは、サイラスの目を見つめ、はっきりと答えた。
「北の果て。厚い氷河の地下深くに、かつての文明が築いた施設がある。そこに『王家の書』はある。そこは、人類の叡智が結晶のように封じられた場所じゃ」
「……本当に、そのような場所が?」
「確かに、ある」
マグナスは目を逸らさずに頷いた。
サイラスはわずかに身を乗り出し、声を低くして聞いた。
「マグナス殿、なぜ……そこまでご存知なのです?」
「わしも長い歳月をかけて、その書の手がかりを探し続けてきたからじゃ。……だが、結局、そこに辿りつくことは叶わなかった。仮に辿りついたとしても、その先にある使命を果たすことなどできぬ」
「使命? その”使命”とは、一体……?」
「その場所に辿りついた者だけが、知るのじゃろう。『王家の書』の真の意味と存在の理由を──。 ひとつだけ言えるのは、そこへ辿りつけるのは──共鳴士だけということじゃ」
サイラスは、その言葉に思わず立ち上がった。
(共鳴士だけ……だと?なぜ……なぜ、共鳴士でなければならない? 父は……、そのことを知っていた? だから、だから、私に探せと……)
「サイラス、わしの知っていることは、これがすべてじゃ。夜も更けた。そろそろ休もう」
そう言って、膝の上で船を漕いでいるエマをそっと抱き上げる。
サイラスは、まだ混乱している頭を振りながらベッドに横になった。次から次へと疑問が浮かぶ。
だが、その答えのすべては——『王家の書』の中にあるのだろう。朧げだった目的が、今やはっきりと姿を現した。
(行くしかない。それが──共鳴士としての、自分の果たすべき役割なら)
サイラスは横になり、ほどなく深い眠りに落ちていった。だが、まどろみの淵で、かすかな声が聞こえてきた。
それは、誰に届くとも知れぬ老いた呟きだった。サイラスは、それを夢の残響のように受け取りながら最後の意識を手放した。
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