第4話 ツール

三日ほど山道を歩き続け、最後のカーブを曲がると、一気に視界が開けた。眼下には果てしなく広がるセレノス海。陽光を受けてきらめくその水面に、サイラスは目を見開いた。


「サイラス、海を見るのは初めてなのか?」


ケイレブが声をかけてくる。


「ああ、これまで、国の中だけで暮らしていたからな」


サイラスはそう言いながら、海から吹く風を大きく吸い込んだ。遠く離れているにもかかわらず、微かに潮の香りがする。


故郷のウール川は、悠々たる流れで土地を潤していたが、目の前に広がる海の存在感は別格だった。海は万物が生まれ、そして還る場所。川は、すべてを海へと導く旅人のようなもの。存在の意味が異なるのだろう。


岬の先端には、巨大な女神像が空を背に立っていた。



ティル・マーレ(海の母)だ。



この地を旅立つ船乗りたちの守り神として、広く信仰を集めている。


夏祭りを控え、周辺の村から多くの人が集まり、町は活気に満ちていた。通りには、珍しい食べ物を売る屋台が所狭しと立ち並ぶ。スパイスの香りや、嗅いだことのない甘い匂いが、そこかしこからする。


食べ物の屋台に並び、工芸品やきらびやかな装飾品を売る店が軒を連ね、若い娘たちで賑わっていた。


ケイレブの目は、珍しい食材を前に輝いている。笑みがこぼれ、口元がゆるんだまま、凄まじい速さでメモを取る手が止まらない。興味が尽きないのだろう。


町中に集まっていた娘たちは、ケイレブの美しさに一瞬固まり、しばらくするとうっとりとした様子で動きを目で追っている。白い猿を肩に乗せたケイレブは、まるで神話の世界から飛び出した神の化身のように見えるだろう。


だが、当の本人は、周りの視線に気づく様子もなく、屋台の魚介を物色している。


彼はその店の店主に「働かせて欲しい」と頼み込んでいる。報酬はいらないから、と。


最初は、胡散臭そうに話を聞いていた店主も、やがてケイレブの熱意に折れたようで、翌日からケイレブはその店で働くことに落ち着いた。


三人は町の宿に部屋を借り、早々に休むことにした。久しぶりの柔らかいベッドに、オスカーはすでに大いびきをかいている。



朝、目覚めると、ケイレブはすでにいない。オスカーも路銀を稼ぐために、仕事を探しに出かけていった。手っ取り早く食事をすませると、留守番をしていたサンとツキを連れてツールで一番大きい教会に向かった。


ツールの夏は厳しい。強い日差しが容赦なく注がれる。そのため、多くの建物の壁は白く塗られていた。こうすることで、強い日差しを反射して少しは暑さを凌げるらしい。ツールまでの旅路で、オスカーに教えてもらったマメ知識だ。


白壁に映えるカラフルな屋根の群れが、この地特有の美しさを形作っている。


教会は町を見下ろす高台にあり、そこへ続く路地は狭く入り組んでいた。途中、狭い路地を器用に走り抜ける子どもたちに出会った。どうやら、海に遊びに行くところらしい。


町を一望する教会は、長年、海風にさらされたせいか、所々壁が剥がれている。だが、どっしりとした荘厳な建物は、畏敬を感じさせた。


教会の中庭を抜け、重い扉を開いた。目の前に、立派な祭壇が見える。ステンドガラスから差し込む柔らかい光が、色とりどりの模様を床に描いている。長く並んだ木製の椅子は磨き込まれ、古い木の香りがわずかに漂っていた。


ひとり祈りを捧げていた神父が、物音に気づき、こちらへ歩み寄ってきた。


「こんにちは。初めてお見かけしますね。何かご用ですか?」


柔らかな笑みを浮かべ、話しかけてきた。かなり、年かさの神父だ。


「私は旅の者です。『王家の書』という書物を探しています。何か、ご存知ではないかと思いまして」


神父はしばらく顎に手をあて、思案しているようだった。


「『王家の書』ですか……。残念ながら、それらしい書物について、私は聞いたことがありません。 ただ、マグナスという者なら、何か知っているかもしれません」

「その、マグナス……殿というのは? どのような方なのですか?」

「マグナスは、この町に長く暮らす老人です。大変物知りで、今は、あの森の奥で暮らしています」


神父は、窓の向こうに見える鬱蒼と茂った森を指差した。


「そうですか、ありがとうございます。では、そのマグナス殿を訪ねてみます」


頭を下げて礼を言った。


中庭で待っていたツキとサンを連れて、元来た道を引き返す。町のいたる所から見える美しい景色を楽しみながら、坂道を下りていった。


「ちょうどいい散歩になったな」


サイラスは、肩に乗ったツキを撫でて呟いた。

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