:熱視線、夏の残影

志乃原七海

第1話「わたし?見られている?」



第一話:真夏の熱視線


陽射しが容赦なく降り注いでいた。午後四時、真夏のテニス部は、汗と熱気が充満する小さな地獄だった。ジリジリと肌を焼くような日差しの中、谷本重美(13歳)は、ラケットを振るたびにまとわりつく汗に不快感を覚えながらも、ひたすらボールを追った。喉はカラカラで、セミの鳴き声が耳鳴りのように脳髄に響く。


練習も終盤に差し掛かる頃、西の空がオレンジ色に染まり始めた。熱気を帯びた空気が、練習による疲労でさらに重くのしかかる。その時、親友のかなみが、疲労困憊の表情で重美の腕を掴んだ。

「重美、お願い! 今日どうしても外せない用事があって、片付け、一人でやってもらえないかな? 本当にごめん!」

かなみは普段から少し抜けているところがあるが、滅多に頼み事をしない性分だった。よほど切羽詰まっているのだろう。重美は一瞬ためらった。汗で貼りつくシャツの不快感と、全身を襲う倦怠感で、早く涼しい場所に行きたかった。

「えー、仕方ないなー。ぶーぶー」

口ではそう言いながらも、重美は結局、かなみの必死な顔に負け、片付け当番を快く引き受けていた。


午後七時を回ったテニスコートには、もう重美以外の生徒の姿はなかった。傾いた陽が校舎の壁を長く引き伸ばし、真夏の残照が赤みを帯びてあたりを包み込む。熱気はまだ去らず、夕闇に吸い込まれていくセミの声が、一層、周囲の静けさを際立たせていた。普段ならば、こんな時間まで一人で残ることはない。薄暮が迫る校庭の向こうから、グラウンドの照明がチカチカと瞬き始める。汗で額に張り付いた前髪を鬱陶しく思いながら、重美はラケットを一つずつ丁寧にバッグに収めていく。かなみに頼まれた重圧と、一人きりの心細さ、そして陽が完全に暮れてしまう焦りから、重美の手はなかなか進まない。カゴに残されたボールの数を見ると、思わずため息が出た。


カゴに残ったボールを一つずつ拾い上げながら、ふと、重美は背筋にひやりとしたものを感じた。

──誰かに、見られている?

不意に視線を感じ、振り返る。しかし、そこには誰もいない。気のせいだろうか。そう思って再びボールに手を伸ばした、その時だった。校舎の窓に、人影が映っているのに気づいた。三階、職員室のあるフロアだ。目を凝らすと、そこには担任教師、鷹仲先生の姿があった。


「先生……」

重美は思わず息を呑んだ。夕焼けの残光が、窓ガラスに映る鷹仲先生の姿を、どこか不気味に浮き上がらせている。鷹仲先生は、窓からじっとこちらを見下ろしている。その視線は、いつもの親しげなそれとは明らかに異なっていた。まるで、獲物を観察するような、あるいは何かを値踏みするような、奇妙な熱を帯びた視線。その熱が、肌を焼く残暑とは違う、冷たい汗を重美の背中に流させた。重美の心臓が、ドクン、と不快な音を立てる。全身の皮膚が粟立つような、言いようのない警戒感が鎌首をもたげた。重美は動けなかった。その視線から逃れることもできず、ただ、時間が過ぎるのを待つしかなかった。


鷹仲先生はいつの間にか窓から姿を消していた。しかし、代わりに、どこからともなく現れたように、ひょいとコートに顔を出した。背後から突然かけられた声に、重美はびくりと肩を震わせた。

「谷本、まだ片付けてたのか。遅いじゃないか。片付けが終わらないなら、先生が手伝ってやるからな」ほら!と差し出す冷たい缶ジュース

涼しい顔でそう言う鷹仲先生に、重美は言葉を返せない。言い訳をすれば、自分が不注意だったせいにもなるし、疲労と暑さで思考が鈍っている重美には、そもそも教師の言葉に逆らう発想もない。

「はい、ありがとうございます」

重美は、絞り出すような声で答えた。断る、という選択肢が、なぜか頭に浮かばなかった。


鷹仲先生は重美の返事を聞くと、満足したように小さく頷いた。そして、スマホを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。

「もしもし、谷本さんのお母様ですか? 鷹仲です。ええ、今日、重美さんが部活で遅くまで残っていたので、今、私が自宅まで送っています。大丈夫ですよ、ご安心ください。はい、もうすぐ着きますので」

彼の声は、まるで絵に描いたような模範的な教師のものだった。丁寧で、心配りが感じられる。母親は安心したような声を出し、鷹仲先生に感謝を述べていた。


母親との通話が終わり、鷹仲先生がスマートフォンを置いた。その時、鷹仲先生が重美に向き直り、鋭い声で言った。

「谷本! お母さんと代われ」

突然の指示に重美は戸惑った。自分の母親と代われ、とはどういうことだろうか。しかし、鷹仲先生の強い視線に逆らうことはできず、重美は スマホを受け取った。

「うん、お母さん?」

重美の声は震えていた。

「うん、大丈夫。先生に送ってもらうから。」

母親にそう告げると、電話の向こうから安心したような声が聞こえてきた。だが、その会話の最中、重美は鷹仲先生の表情が、微かに、ほんのわずかだが、歪んでいるように見えたのだ。それはほんの一瞬のことで、すぐに元の無表情に戻ったが、重美の心には消えない小さな影を落とした。


「もうすぐ陽も暮れる。危ないから、終わったら先生が送るから」

鷹仲先生は、あたかも当然のことのようにそう告げた。重美は頷くしかなかった。


片付けを終え、重美は部室へと向かった。制服に着替えるためだ。鷹仲先生は、コートの入り口で重美が戻ってくるのを待っていてくれた。重美が部室の扉を閉める瞬間、なぜか、背中に刺さるような視線を感じた気がした。ただ部活動着から制服に着替えるだけの行為なのに、その視線は重美の心に奇妙な不安を植え付けた。


校門を出て、鷹仲先生の車に乗り込んだ。車内は外の熱気が嘘のように冷え切っていて、重美は思わず身を縮める。エンジン音が静かに響く中、妙な沈黙が二人の間に横たわった。窓の外を流れる、夕闇に沈みゆく景色に目を向けたが、鷹仲先生の隣にいることが、ひどく落ち着かなかった。そして、車内のエアコンの効きが、いやに記憶に残った。外の生暖かい空気とは対照的な、冷え冷えとした空気感が、重美の頬を撫でる度に、より一層の緊張感を呼び起こした。


自宅の前に車が止まる。

「着いたぞ、谷本。気を付けて帰るんだぞ」

鷹仲先生の優しい声に、重美は「はい」と小さく答えて車を降りた。車が見えなくなるまで見送るよう促された気がして、重美は玄関の前で立ち尽くした。街灯が点々と灯り始めた道を、鷹仲先生の車は静かに走り去っていく。


車が完全に視界から消えた後も、重美はしばらくその場から動けなかった。真夏の夜の空気はまだ生暖かかったが、重美の心臓は冷たい氷を握りしめられているかのように、ずっと小さく、不規則なリズムを刻んでいた。今日の鷹仲先生は、どこかおかしい。あの視線。あの言動。そして、母親に電話をかける際の、あの巧妙な演技。拭い去れない不快感と、漠然とした不安が、暗い予感のように重美の心を締め付けていた。そして、ふと、重美は思った。

──もし、かなみが片付け当番を代わってほしいって言わなかったら。

そんなありえない「もしも」が、重美の脳裏をよぎり、胸騒ぎを一層強くさせた。夜の帳が完全に降り、虫の音が響き始めた。重美は、この夏が、何か恐ろしいものの始まりになるのではないかという、漠然とした恐怖に囚われていた。

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