第三十七話 記憶なき厨房・ノウリーノと、忘却の中で生まれる奇跡のレシピ

「……ここ、どこ……?」


男は呟いた。


白い厨房の中央、完璧に整頓された空間の中で、

彼は自分の名前を思い出せなかった。


彼は“ノウリーノ”と呼ばれていたが、

それは周囲の人間がつけた呼称に過ぎない。


- 自分が誰か

- なぜ料理をするのか

- 誰に食べてもらいたいのか


――何も覚えていない。


それでも、彼の料理は驚異的だった。


- 誰もが「懐かしい」と感じる

- 初めてなのに「涙が出る」

- 味の記憶が呼び起こされる

- 誰かを思い出してしまう


「記憶がないのに……なぜ、こんな料理が作れるの?」


それがアリシアの問いだった。


* * *


ノウリーノは一言だけ返す。


「……わからない。ただ、“作りたくなる”んだ」


まるで呼吸のように、彼の手が動く。


- 包丁は静かにリズムを刻み

- 火加減は本能で調整され

- 塩は“心”で測られる


それは“レシピ”ではなく、“祈り”のような動きだった。


アリシアは、彼の料理を口にする。


「……これ、“想い出の味”だ……」


「知らないはずなのに、泣きそうになるのは……なんで……?」


彼女の頬を、一粒の涙が伝う。


* * *


アリシアは考える。


「彼の料理は、きっと“記憶のない心”が動かしてるのよ」


「なら――わたしが、“彼自身”の記憶を料理で呼び覚ましてあげる♡」


* * *


アリシアが作るのは、**“自分の記憶を呼び起こす”一皿**。


名付けて、《リフレイン・カレー》。


- 少年期の味覚を刺激するフルーツチャツネ

- 青春の記憶に残るピリ辛スパイス

- 母性を呼び覚ますミルク仕立ての隠し味

- 最後に“初恋の香り”として、ローズマリーをひとつまみ


「これは、“あなたがどんな人生を歩んできたか”、

 味で語ってくれるレシピよ」


ノウリーノがそれを口にした瞬間。


その手が、ピタリと止まる。


「……思い出した……」


「小さな手……包丁を握った感触……

 “君に食べてもらいたい”って、誰かが笑ってくれた記憶……」


「俺は……料理で、“誰か”をずっと、想っていた……」


* * *


彼の頬に、静かに涙が流れた。


「ありがとう。君がいなかったら……俺は、ただの影だった」


アリシアはにっこり笑う。


「料理は、記憶より深く“心”に残るの。

 それって、きっと――“愛”って呼ぶのよ♡」


* * *


ノウリーノは、その後、厨房に“記録ノート”を置くようになった。


今日、どんな料理を作ったのか。

誰に出したのか。

何を感じたのか。


「忘れてもいい。でも――“誰かを想って作る”ことだけは、忘れない」


ライザが言う。


「……記憶をなくしても、“手”が想い出すなんてな」


アリシアはうなずく。


「次は、“喋る料理”がある国らしいの♡」


「……喋る? 何を?」


「“食べられる前に、最後の言葉”を言うんだって。

 “私を食べて幸せになって”とか、“今度はもっと焦げないように焼いてね”とか♡」


「……感情が追いつかねぇな……」


ふたりは、命ある料理たちが語りかけてくる次なる国――

“食材の声を聴く国”へと旅立っていく。

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