第2話
「
呼ばれて、陸遜は振り返った。
そこに
彼は部屋の中ほどまで入って来ると、見回した。
「おお、随分片付いたな!」
陸遜は微笑む。
「はい。もうそこの荷を解けば、使えるようになると思います」
「すまんな。こんなことまで手伝わせて」
「いえ。手が空いていたので構いません。呂蒙殿は
「すまん。俺はどうも要領が悪くてな。自分の耳で直接引継ぎをしてもらわないと、状況が把握出来ん」
「今は少しの油断もならない時ですから。
慎重になるのは良いことだと思います」
「ありがとう」
すまなそうにしていた呂蒙は笑顔を浮かべた。
「いえ……ここに置いた書物は、……お読みになるのですか?」
「段々と時間が取れればな。俺はまだ、学も足りん。
付け焼刃ではどうにもならんのは分かるんだが、やらないよりはマシだ。
それに時間がない時間がないと言っていても、時間は増えん。
少しでも時間を見つけて、読めればな」
陸遜は棚に並べた本の一つに触れた。
「……仰る通りですね」
「
それであの博識だった。
やはり、幼い頃より自分がどうなるべきか、為すべきことをしっかりと見据えて、理解しておられたのだろうな。
才能以前に、あの方は積み上げた土台も違う。
周瑜殿のように、などというつもりは元より無いが、命を預ける兵からしてみれば、俺は周瑜殿ではないから、などと言ってはおられぬからな」
陸遜は、瞳を瞬かせた。
呂蒙はあまり否定的な言葉を言ったり落ち込むところを見せない人ではあったが、彼の口からそういう言葉を聞くと、やはり周瑜の後任という責務は重いと感じていることが分かる。
――
逃れ難い使命であることと、いかに重いことかは【
それでも呂蒙は自分を戒めて、少しでも周瑜との差を埋めようとしているのが分かった。
「陸遜?」
じっと自分を見ている陸遜に気づいたのか、呂蒙が首を捻る。
「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
陸遜は慌てて首を横に振った。
「いえ、――すみません。私も、目の前のことで手一杯だったので、
呂蒙殿は……御立派だなぁと、思って……」
呂蒙が目を丸くする。
数秒後、彼は大笑いした。
「あっはっはっは!」
笑われて陸遜はすぐ、自分が変なことを言ったのだと自覚する。
「す、すみません。変なことを言いました」
「いやいや。別に言ってない。
そうか、ではお前にこれからも立派だと思われるよう、頑張って精進せねばな」
呂蒙はおかしそうに笑っていたが、陸遜は恐縮している。
「りょ、呂蒙どの」
「おっ。呂蒙、なに爆笑してんだよ」
振り返ると、
「楽しそうでいいなぁ、こっちの城は」
この江陵の地には三つの城がある。
三つといっても、揃って防衛線の意味を含んでいるからごく近場だ。
お互いの城を、目視出来る距離にある。
江陵方面軍、総大将である呂蒙が着任した城はこの長江の川沿いに向かって、最も高台に建てられた【
甘寧は水軍調練を任されていることから、着岸出来る港が最も近い【
ここからも見える。
「呂蒙、俺もこの城に部屋が欲しい」
「駄目だ。お前の部隊は人数が多い。こっちに来るとゴチャゴチャする」
「俺の部隊とかはそのままでいい。俺だけ来る」
「駄目だ。お前のとこは新兵が多い。上官がそうしょっちゅう場を外していては、求心力に関わるし、兵も不安がる」
甘寧は顔を顰めた。
「何でおれがガキどもの面倒みなきゃいけねーんだよ。
修錬はちゃんとしてやってんだからいいだろうが」
「だーめーだ。将という者はな、戦場だけで奮えばいいというものではないぞ甘寧。
普段からの部下との絆があってこそ、部下も戦場で、将の命令に命を賭けてくれるというものだ。……というかそんなこと俺が言わんでもお前は誰よりも分かってるだろうが」
「別にほとんど隣の城なんだからいいだろォ」
「ならん。お前はどうせここに来たら陸遜に構い倒して仕事に支障をきたすに決まっておる」
「んだよ~! 陸遜! 分かってねえこいつにお前から言ってやれよ!
俺はお前の仕事の邪魔なんか一回もしたことねえよな!」
「……えっ、と……んん……どうだったかな……」
「陸遜てめー!」
陸遜としては「いえ、いつも邪魔しに来ます」と言わないだけ気遣ったつもりだったが甘寧は怒って陸遜の首に腕を掛け、ぐぎぎぎと締めに掛かって来る。
勿論戯れの手加減は十分したものだったから、陸遜はこの人だけは本当にいつもと変わらないなぁ、などと逆に少し尊敬してしまった。
「呂蒙殿【黄雅城】から前任の守備隊長が……」
迷いなく飛んだそれが、グサッ! と思い切り甘寧の額の中央に命中する。
「おわっ!」
「わっ!」
あんまりにも綺麗に命中したので、陸遜も驚いて声を上げた。
「いてぇな淩統てめーっ! 今なに投げやがった⁉」
「短剣だよ短剣。便利だろ?」
淩統は懐に仕込んであったらしい手の平に収まるほどの小さく簡素な刃を取り出してみせた。
「てめぇなんてモン投げてくんだ!」
「うるせぇな……だから逆さで投げてやっただろうが。ゴチャゴチャ言うんじゃねえよ」
「何が逆さで投げてやっただ逆さじゃなかったら俺の額大量出血だろ!
てめぇホント……馬鹿だろ⁉」
「誰が馬鹿だ。だから前からそうやって陸遜様に絡むのやめろっつってんだろ。
建業の王宮は甘めに見てやってたが今は遠征先だ。
そういうふざけた言動見つけたら、これからドンドン投げてくからな」
いてーっとまだ赤くなった額をごしごししている甘寧の額を撫でてやりながら、陸遜は床に落ちた短剣を拾い上げる。
「本当に真ん中に命中しましたね」
呂蒙が腕を組み、頷いている。
「そうだったな。淩統。お前は弓の腕前も相当だと殿から聞いているぞ。
父を誉められ淩統は少しだけ、嬉しそうな顔をした。
「いえ……」
「そうなのですか。私も、馬、剣、弓くらいはきちんと心得ておかなければならないなと思っているのですが……。弓はまだ、どちらかというと不得手です」
淩統は目を瞬かせる。
「そうでしたか? でも……修錬場ではお上手だったと思いましたが」
「修錬場の的は、動きませんから」
「淩統に教えてもらえばよい。陸遜。やはりこういうものは、要領を得ている人間に教わった方が、上達も早いぞ」
「えっ!」
「えっ」
淩統と陸遜が同時に驚いた。
「でも……それはご迷惑では……」
「いえ! 全然迷惑などではないです。
むしろそんなことでしたらどれだけでも……いえ、あの……俺も新兵を調練していますし、――そう! 弓も教えていますから。
よろしければ、その時に一緒に教えて差し上げます」
「うん。陸遜は俺の補佐官として着任しているからな。
部隊を今回、近衛以外連れて来ておらんだろう。
いざという時に、俺や淩統の軍も指揮出来るようにしておくのはいいことだぞ。
戦場は何があるか分からん。出来るだけ兵士たちと親交を持っておくのはいい」
なるほど、と陸遜は頷いた。
「では次の調練の時に、ご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「はい。喜んで。陸遜様なら、きっと上達も早いでしょう」
淩統は内心飛び上がっていたのだが、それを押さえるように後ろ手を組み、表面上は落ち着いた様子で微笑んで見せた。
「陸遜。俺だって弓の名手だぞ。教えて欲しいなら何で俺に言わないんだよ」
不満気に立ち上がって甘寧はそんなことを言った。
まだ額の中央が赤くて拗ねるように言うものだから、子供のように見えて陸遜は少し笑ってしまった。
「はい。貴方が弓の扱いも上手なのは知っています。
でも、いちいち教えたりするのは面倒で嫌かと思って……」
「嫌じゃねーよ! お前になら全然教えてやんのに!」
「いつも何でも面倒臭がってるからいざという時こういうことが起こるんだよ。残念だったな甘寧さんよ」
「淩統! てめー!」
「お前たちはまったく、建業にいる時と何にも変わらんなぁ」
呂蒙が明るく笑っている。
陸遜は、先ほどまで少しだけ疲れているようにも見えた呂蒙が笑顔を見せたので、少し安心した。
「そうだ。守備隊長が来たんだったな、淩統」
「あ、はい。二階の軍議室にお連れしました」
「そうか。すまん。
――陸遜、今日はもう適当に切り上げてよいぞ。多分軍議は明日になる」
「はい。【
「おお、もう出来たか。助かる。そうだな、それも明日の軍議に持って来てくれるか」
「かしこまりました」
「甘寧。副官が優秀だと仕事が捗るなぁ。淩統も陸遜も文武両道ゆえ、本当に助かる」
「そうかよ。陸遜を俺の副官にくれ」
「絶対やらん。」
「呂蒙! てめー!」
呂蒙が笑いながら歩き出す。
「
退屈させて悪いが、もう少ししたらこちらも随分落ち着く。
そうしたらまた飲もう」
呂蒙が淩統と出て行くと陸遜は、はたと淩統の投げた短剣を手に持ったままだったことに気づく。
「返すのを忘れてしまいました」
今追っても十分追いつけると思うが、陸遜は小さく息を付く。
「明日も会いますから、その時でいいですね」
隣の甘寧を見上げる。
甘寧はそっぽを向いていた。
陸遜は笑ってしまった。
「……退屈してるんですか?」
「してる」
ぶっきらぼうに返して来た。
呂蒙の言う通り、甘寧は実戦の緊張感が無いと途端にだらける所があった。
ここは開戦していないとはいえ一応半分戦場だから、まだそれなりの緊張感は持っているようだが、この開戦するのかしないのかも分からない状態というのが彼の場合、良くないのだろう。
甘寧は剣を振るってれば気分が乗って来る性格をしているので、兵達の修錬でいい加減なことをするような人ではないと、それは分かっていたが大抵甘寧は退屈し過ぎるとろくなことをしなくなる。
「……それなら甘寧殿、もし今からよろしければ、遠駆けに付き合っていただけませんか」
甘寧が振り返った。
建業からおよそ二週間の道のりだった。
船は違ったから会うことも出来なかった。
江陵に着いて甘寧が頻繁にこちらに顔を出すようになり、陸遜は甘寧の顔が見れて単純に嬉しかったが、ここは戦場なのだからいざとなれば前線に立ち、指揮を執らねばならない甘寧の集中を妨げてはいけないと思って、自分からはあまり余計な話などはしないようにしていたのだ。
だが、甘寧自身が退屈だというのなら、遠慮はいらないだろう。
甘寧とゆっくりと話したかったという気持ちは否定しないが、陸遜はまだ着任後この地の付近の地形や状況などを確認出来ていない。
早めに自分の目で確かめたいと思っていたのだ。
「付近の様子を、見ておきたいのです」
陸遜が言った途端、甘寧の瞳が子供のように輝いた。
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