残されていたメール

社内には、微かに漂う一つの噂があった。


──あの人。

すでに名簿からも、Slackからも消えた、あのベテラン社員。

彼が辞める直前、誰かにメールを残していったという話だった。


直接見た者はいない。ただ、「見せてもらった」という者が一人だけいた。


総務の席に近い女性がいた。

ある昼休み、紙コップを捨てるふりをしながら、燈麻にささやいた。


「……あったの、本当に。スクショとかじゃなくて、受信箱に、直接来てたって」


そのメールは、特定の三人にだけ送られていたという。

件名は、ただ──「ありがとう」。

本文も長くはなかった。


『今のままだと、また誰かが壊れると思った。

だから僕が先に抜けます。これは逃げじゃなくて、選択です』


「それだけだったのに、すごく、重かった」と彼女は言った。


燈麻は黙ったまま、冷めたコーヒーを捨て、給湯室のドアを静かに閉めた。

言葉の残響が、小さな種のように胸の底に沈んでいくのを感じていた。


──それ以来、燈麻は、あのメールの真意を探るようになった。

誰に言うでもなく、いくつかの部署を、あてもなく渡り歩いた。


誰かが知っている──

そう思わせる空気は、たしかに存在していた。


けれど、口を開く者はいなかった。

いや、開けなかったのだ。


「いや、僕は……ちょっと分からないです」

「そういえば、あの方とはあまり関わりがなかったですね」


どの返答も、ぬるい曖昧さに包まれていた。

視線は泳ぎ、笑いは、音を立てずに乾いていた。


まるで、その話題に触れること自体が、禁忌であるかのように。


ただ一人。

古株の事務スタッフが、ぽつりと口を滑らせた。


「ああ、そのメール……」


だが、すぐに言葉を引っ込めた。

そして、申し訳なさそうに、視線を逸らした。


──喋れば、自分が標的になる。


それは、燈麻にも分かっていた。

この組織では、知っているということが、もっとも危うい。


真実に触れた者から順に、姿を消していくのだから。


だからこそ、皆が知らないふりを選んでいる。

それが、この職場における、唯一の生存戦略なのだ。



三日目の昼、給湯室で偶然を装った。


タイミングを見計らっていた。

古い部署に在籍しながら、なぜか異動もせず、叱責もされず、空気のように組織に溶け込んでいる人物。

──経理課の大林だった。


「……あのベテラン社員の方、お辞めになったのって、やっぱり自分から?」


紙コップに注がれる湯の音が、いっとき会話を消した。


大林は答えなかった。

ただ、湯を止める動作がほんの一瞬だけ遅れた。


沈黙は、明確な応答だった。

「はい」でも「いいえ」でもない。

でも、無視とも違った。


燈麻は一歩踏み込もうとした。

だがその前に、大林はコップを持って、短く呟いた。


「……あのメール、見たんですね」


湯気の向こうで、その目は笑っていなかった。

だが、それ以上は何も言わず、廊下へと歩いていった。


ただの社内の挨拶のように、何もなかったかのように。


──確かに今、風が変わった。


燈麻は、ある朝ふとしたきっかけで、隣の席の部下──川上に話しかけた。


川上は燈麻より数年早くこの会社に入っている。年齢は下だが、社内の裏事情には妙に明るく、Slackで冗談を飛ばす姿とは裏腹に、空気の機微には人一倍敏感な男だった。


「川上さん。……篠田さんって、知ってる?」


「篠田さん……ですか」


川上は、ほんの一瞬、視線を外してからゆっくりと目を戻した。

その反応に、なにかある──燈麻は直感した。


「いや、ただちょっと気になって。俺が来る前に辞めた人らしくて」


「そうなんですね。……まあ、あんまり話さない方がいい人かもっすけど」


それだけ言うと、川上はその話題に触れないように戻っていった。

それ以上は追いかけなかった。だが、その翌日──Slackにメンションもなく、ひとつのPDFが個人チャットに静かに届いた。


「これ、自分が直接聞いた話じゃないっすけど……裏取れてます」


そう添えられたファイル名には、こう書かれていた。


《Shinoda_Takuji_退職経緯(非公式記録)》

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