選別

長谷川 優

兆し

三ヶ月の試用期間が終わった。


数字は明らかだった。広告費を絞ったまま、CVは130パーセントを超えていた。なのに、上司の目はどこか遠くを見ていた。


「……正直、予想を上回る成果です」


言葉は評価のかたちをしていたが、声には湿り気がなかった。感情というものが、そこから抜け落ちていた。デスクの書類から目を離さず、あくびを飲み込むような抑揚でそう言った。


「再現性がね……少し見えづらいかな。属人的というか」


輪郭の曖昧な一言が添えられた。面談が終わると、上司は「ありがとう」と言ってマウスに手を戻した。その動作が、次の予定への切り替えであることを雄弁に語っていた。


燈麻は部屋を出る直前、ほんの一瞬だけ、背を向けた上司の指先を見た。キーボードを打つ動きが、どこかぎこちなかった。


違和感が残った。そのまま、試用期間に起きた出来事を思い返す。


この三ヶ月で、すでに三人が辞めていた。入社一ヶ月目にアシスタントが。翌月には中堅のエンジニアが。そして、先週、広報の女性が「急に」いなくなった。ひと月にひとり。ここは、そういう場所なのだと身体が覚えていく。


今朝、またひとつ噂を聞いた。営業が、来月いっぱいで抜けるらしい。経験上、これは終わりではない。止めようとした誰かの痕跡もない。誰かがいなくなるたび、会議の座席が詰められ、フォルダが消え、Slackのアイコンが静かに消える。それだけだった。


ASD気質のせいかもしれない。兆候が、並んで見えてしまう。Slackの更新頻度、会話の間、予定表の密度。それらが、かすかに示していた。


──今度は、自分かもしれない。


それは論理ではなく、直感だった。動物のような勘だった。


面談のあと、席へ戻る途中で足が止まった。社内のオープンスペースに、甲高い声が抜けていた。


「これ、また誤字あるじゃん。さすがに三回目はないでしょ」


若手のリーダーが、年配の営業社員に声を張っていた。語気は荒くない。だが、明らかに周囲へ聞かせるような抑揚だった。


叱られているのは部下──ただし、年齢だけを見れば、二回りも上のベテラン社員だった。背中を丸めて、何も言い返さず、ただモニターを見つめている。


「何回も言ってることだよね? 俺の言い方が悪いのかなあ」


笑い混じりのセリフに、誰も笑わなかった。公開処刑──燈麻は、そう名付けた。令和の空気に似つかわしくない儀式。教育という名を借りた見せ物だった。


そのベテラン社員には、かつて営業の花形として知られた時代があったという。だが今では、組織の歯車から外れた扱いづらい人として、晒される立場にある。燈麻は、その背中を見ながら薄く息を呑んだ。どこか、自分に重なる気がした。


そんな折、アジア地区の四半期戦略会議が、日本支社で開催されることとなった。米国本社からはCEOと、副社長──北米・中東・アフリカ・欧州以外を統括する人物が来日。さらに、シンガポールに駐在するアジア本部代表、韓国系アメリカ人のリー・ジェフンも参加していた。


戦略会議そのものは非公開だったが、現地マネージャーとの個別面談が設定された。「現場の声を直接聞きたい」との理由だった。燈麻にも、その順番が巡ってきた。


迷いはあった。だが、言葉を選びながら語った。


「……部署を超えて、人前で叱責される社員がいます。入社直後の自分でも、それが文化だと錯覚するほどに繰り返されていて……正直、いつ自分がその標的になるか、恐ろしさを感じています」


副社長は、顔を曇らせた。


「それはPublic Humiliationですね。本社では重大な違反行為です。伝えてくれて、ありがとう」


その数日後、本国の人事部長から直接メールが届いた。詳細な経緯の報告を求められ、丁寧に答えた。後日談として、こうも聞いた。役職を持たない現場社員十名に、個別のヒアリングが行われた。その全員が、同じ証言をしていたという。


その数日後からだった。社内で、人が人を、面前で叱る声が消えたのは。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る