第2話 蒼井悠真という男

 授業の終わりを告げるチャイムが、教室中に鳴り響いた。

 一瞬の静寂のあと、生徒たちは一斉に席を立ち、喋り出し、笑い始める。

 椅子の擦れる音、机を叩く音、雑音混じりの放課後。

 俺もノートと筆箱を鞄に放り込んで、ゆっくりと立ち上がる。


「じゃあな」


 声を掛けると、月夜は椅子にぐでぇと凭れかかったまま、顔だけこちらに向けた。


「おー、頑張って来いよ~」


 気の抜けた、でもどこか優しい声でそう返してきた。

 俺は軽く手を振って、教室の扉を開けて出る。

 その直後、後ろから別の声が飛び込んできた。


「ねーねー月夜~。今日カラオケ行かね?」

「おー! 良いね~! 行く行く~!」


 そんな明るい声が背後に聞こえてきて、俺は振り返らず、そのまま廊下を歩き出した。

 月夜の笑い声が、扉の向こうでにぎやかに弾けていた。


「他、誰行く~?」


 月夜が椅子に腰かけたまま声を上げると、すぐに反応が返ってきた。


「あー、あたし行くー!」

「私も私も! カラオケとか超久しぶり~!」

「おっけ~、サキとみこちーね。あ、ユリも行こうよ~!」

「え~! いいの~? 行く行く~!」


 教室の一角が一気ににぎやかになる。

 誰が声をかけたって、月夜が返せばそれだけで会話が回る。

 一見ゆるく見えて、こういう時の月夜は妙にまとめ役っぽかった。


「え~? 女子らカラオケ行くん? 俺らも混ぜてよ~」


 クラスの陽キャグループが、教室で盛り上がってる月夜たちに声をかけてきた。

 いつも通りの軽さで、でも目はちょっとマジっぽい。

 すると、月夜がふんぞり返るように椅子に凭れながら、


「おっ? 聞いたか女子ども~、カラオケ奢りだって~!」


 と、満面の笑みで言い放った。


「えっ、マジで?」

「やった~、ごちになりまーす!」

「あざーす♡」


 女子たちは涼しい顔で、当然のように受け入れて、カバンを持ってさくさく教室から出ていく。

 月夜はニコニコしながら最後尾を歩きながら「じゃ、いつものカラオケ集合で~」とだけ残して去っていった。

 ポカンと見送っていた陽キャ男子の一人が、肘で友達の腹を小突く。


「おいおい……お前、顔青いぞ?」

「だ、大丈夫だっつーの……! カラオケ代くらい安いもんだって……! うちのクラスの女子たち、レベルたけーんだから!!」

「自分に言い聞かせるなよ」

「いやマジで言い聞かせなきゃ無理なんだって……ッ」


 夕方の光が教室の床を照らす中、男子たちの空元気な声が、いつまでも尾を引いていた。


「いらっしゃいませ~! 席にご案内しますね。ご注文が決まりましたら、こちらのボタンを押してお呼びください」


 俺はドリンクトレイを片手に、にこやかに声をかけながら、お客様を窓際の席へと案内した。

 笑顔は大げさすぎず、声量も抑えめに。

 けれど相手にはきちんと届くように。

 夕方のピークを過ぎて、店内は一段落していた。

 コーヒーの香りがゆるく漂う空間には、穏やかなBGMと、カップを置く音が静かに響く。


「蒼井くん、相変わらず良い動きしてるね~! ふつーに店長よりスムーズなんだけど!」


 カフェバイト仲間の女子、藤森さんがにこにこしながら声をかけてきた。

 年上の大学生で、気さくでサバサバした人。


「ははは、先輩のご指導の賜物ですよ~」

「あはは、嬉しいこと言ってくれるね~!」


 にこっと笑って、肘で俺の腕を軽く小突く。


「じゃあさ、今度ご飯いこっか? ご馳走してあげるっ。バイト終わりとか、空いてる日でいいし」

「も~、からかうのやめてくださいよ~。先輩、彼氏いるじゃないですか~」

「え~、良いじゃん~。将来有望そうな子は唾つけとかないとね~」

「こらこら、藤森君、相手は高校生だよ高校生」


 カウンターの奥から、店長が笑いながらツッコミを入れてきた。

 三十代半ば、メガネで物腰は柔らかいが、接客指導は意外と厳しい人。

 でも、こういう時のユーモアは忘れない。


「大丈夫ですって~。まだ誘ってるだけですから~」


 藤森さんがふわっと笑いながら、洗い終わった食器を片付けていく。


「ま、でも蒼井くんにはほんと助かってるよ。覚えるの早くて、仕事も丁寧だし。シフトも融通利いてくれるしね」

「そろそろ試験も近いでしょ? 学校の方も大事にしなさいね。シフトの調整はするから、無理しないように」


 そう言って、店長は俺の肩にぽんと軽く手を置いた。


「ありがとうございます」


 自然と頭が下がる。


「まぁ、でも、僕は貰う物は貰ってますからね。昔は学生の時給が800円とかって聞きましたよ。1300円も貰ってるんだから、その分働かないと申し訳ないですよ」


 そう言うと、店長は苦笑しながらクロスで手を拭いた。


「そうなんだよ~。時給上げないと人来てくれないし、かといって売上がそこまで良い訳でも無いしで……」


 冗談交じりのやりとりに、穏やかな時間が流れて行く。


 学校では――というよりも、月夜がいる前では、俺は極力“生真面目キャラ”で通している。

 黙っていても誠実そうに見られるし、目立たず波風を立てない態度は、あいつの隣にいるにはちょうどいい。

 けれど実のところ、こうしたバイト先での交友や、年上との軽いやりとりは、別に苦じゃないし、むしろ得意な方だったりする。

 ……なぜ、そういうふうに振る舞うようになったのか。

 その理由は、まぁ……簡単に言えば、月夜が昔めんどくさかったからだ。

 今では緩い感じに振る舞う様になった月夜も、反抗期真っ盛りの時はまぁめんどくさかった。

 常にクラスの中心にいて、何かと注目を浴びていた月夜に、俺はそれなりの存在であり続けようとした。

 だからこそ、俺も広く、良好な交友関係を築いて、月夜の立場に釣り合う幼馴染でいようと考えていた。

 でも、ある日の放課後。

 ふたりきりの帰り道で、あいつは唐突に言ったのだ。


『悠真さ、なんで他の子に気使ってんの?』

『あんた、あたしの幼馴染でしょ? 他の子なんか、どうでもいいじゃん』


 わがままというより、独占欲の塊みたいな目だった。

 恵まれた容姿じゃ無ければ許されない程に、我が儘放題と当時は随分と振り回されたものだ。

 あの頃に比べたら、今のあいつはずいぶん丸くなった。

 あの頃の俺は“月夜にどう見られるか”より“誰にどう見られるか”だけを気にしていた。

 自分なりに釣り合おうと必死で、月夜のご機嫌をそこそこに保ちつつ、周囲にもそれなりに溶け込んでいたかった。

 今の生真面目キャラも。

 社交的すぎない距離感も。

 人前での言葉選びの癖も。

 ────多分、全部。

 自身の人格形成にまで、大いに影響を受けていると思う。

 ……ったく、どんだけ月夜の事好きなんだよって、自分で思って、自分で笑う。

 ただ、たまにふと、あの頃の月夜を思い出すとき。

 今、あいつの隣で取ってる立ち振る舞いの正体が、どれだけあいつ由来なのかを自覚して、ひとりで、心の中でだけ、苦笑いしてる。

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