赤い蛇は命を咲かせる

スザキトウ

プロローグ

 彼が最初に人を殺したとき、口元がわずかに歪んだ。

 笑ったつもりはなかった。けれど、その顔を見た者は、皆、笑っていたと言うだろう。


 刃が喉を裂いた。骨が擦れる鈍い感触のあと、温かくて重い液体が少年の手の甲を濡らした。

 鉄の匂いが、喉奥に貼りついた。床を濡らす血の広がりが、まるで花びらのように滲んでいく。

 その光景に、なぜか懐かしさがこみ上げた。


 命が終わる音。静かで、決定的な断絶。

 その瞬間、あの夜の記憶がよみがえった。


 ──赤く染まった母の手。崩れた梁。焦げつく空気のなか、脳裏に焼きついた、あの蛇の印。


 火の匂い。煙の苦さ。母の声。なにもかもを呑み込んだあの夜から、少年の中では時間が止まっていた。


 焼け跡から拾い上げた、ただひとつの手がかり――蛇の形をした赤い印。それを追ってきた。

 どこまでも、いくつもの街を、そしていくつもの体を越えて。

 首筋、胸元、手首。血に濡れた肌に、彼はいつもそれを探した。


 そして今日、目の前の男が言ったのだ。


 「……見たことがある気がする。蛇みたいな、赤い……あれはどこだったか……」


 その言葉に、胸が跳ねた。

 息が詰まり、手が震える。

 少年――かつて母に“レイ”と呼ばれていたその影は、思わず身を乗り出した。


 「どこで、それを見たんですか?」


 声が震えていた。だが、それを抑える余裕はなかった。

 男は曖昧に笑った。酒がまわっているのかもしれない。目が泳ぎ、言葉が崩れていく。


 「さあな……夢だったかもな。酒に酔って……どこだったか……」


 レイの中で、何かが崩れた。

 ガラスがひとつ、音もなく割れるように。


 それは怒りでも、悲しみでもなかった。ただ、またひとつ、虚無が広がっただけだった。


 ――また、届かなかった。


 そして、刃を抜いた。

 まるで呼吸のように自然に。何のためらいもなかった。


 血が咲いた。深い赤が、肌の上に滲んだ。

 それは花のようでいて、悲しみと、執念と、諦めが入り混じった、ただの血の跡。


 「……ほら、咲いたよ。君のなかに。赤くて、綺麗な花が」


 男が動かなくなったあと、レイはその胸に蛇の形を描いた。

 それは、記憶のなかに刻まれたあの印――

 けれど、また違っていた。


 止まるわけにはいかなかった。

 息をひそめるように、夜が息づいていた。


 壁の漆喰はひび割れて剥がれ、夜風がすきまから入り込んでいた。

 石畳の裏通りにあるこの宿は、炭の匂いと獣の皮の臭いがしみついていた。

 男の机の上には、崩れかけた地図と、半ば空になった酒瓶。人の気配だけが、空気の隙間に残っていた。


 レイは、血に濡れた手を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。

 男の部屋の壁には、陽の当たらない窓がひとつ。冷たい風が、わずかに揺れていた。


 昨夜、酒場で耳にした噂がある。

 北の境にある町で、「焼印のような痣を持つ女」が捕まった、と。


 それが“赤い蛇”なのか、それともまた違うものなのか――まだわからない。

 だが、何かが動いている。


 この世界のどこかで、あの夜に引きずられたまま生きている者が、レイの他にもいるのかもしれない。


 風が、乾いた窓を鳴らした。

 レイは、足元の土を踏みしめ、静かに歩き出す。


 屋根の上に、一羽の黒い鳥がいた。

 動かず、鳴かず。

 その瞳は、夜の向こうを見ていた。

 まるで、何かを知っているように。

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