第1話 赤い蛇が咲くとき
数日前……
その日の空は、雲ひとつない青だった。
神が地上を祝福しているかのように、静かで、澄んでいた。
──けれど、その静けさは、どこか不自然でもあった。まるで、何かが息をひそめているような。
王国東部の辺境に位置する、地図にも載らないほどの静かな村。その外れ、小高い丘にぽつんと建つ石造りの建物がある。
『白花の家』。年季の入った石壁に、一輪の花の彫刻がある。風雨に晒されながらも、その輪郭だけは、奇跡のように残っていた。
その孤児院に暮らす少年——レイは、今日も朝から騒がしい声に囲まれていた。
「レイー! パン、また焦がしたでしょ!」
「“また”って言うなよ……たぶん、今回はギリギリ焦げてない」
「見てよこれ! 黒いし、煙くさいし、しかも……固っ!」
活発そうな年下の少女——ミナは拳でパンを叩きながら訴えている。その顔は本気で怒っているようで、でもどこか笑ってもいた。
レイは肩をすくめて小さく笑い、受け取ったパンを手の中で軽く押した。表面はパリッと割れ、黒く焦げた破片がこぼれ落ちた。
「……まぁ、食べられるだけマシだろ。中は、たぶん生きてる」
「それ、パンに言う台詞じゃないから!」
隣の少年が吹き出し、テーブルのあちこちから笑いが起こった。
パンとスープ。
それが今朝の全てだった。具はじゃがいもと小さな豆が少しだけ。それでも、鼻先に漂う湯気には不思議な優しさがあった。
木の長机を囲むのは、五人の子どもたち。年齢も性格もばらばらな彼らは、食事の時間になると、まるで本当の家族のようだった。
「俺のスープ、具がないー!」
「え? ミナのスープ、じゃがいも二個入ってたよ。一個あげたら?」
「やだよ! 私のだもん!」
「公平に分けろって言ったのに……っ!」
スプーンと笑い声が食卓に響く。寒さも、空腹も、焦げたパンすら、ここでは笑いの種になっていた。
「ほら、騒がないの。パンが焦げても、スープに野菜が浮いてなくても、生きてるだけで十分でしょう?」
静かにその場を制したのは、扉のそばに立つ院長——アリアだった。
栗色の髪を後ろでまとめ、清潔なエプロン姿のまま手を拭いている。落ち着いた物腰と、澄んだ声。
彼女が立つだけで、この小さな食堂に、ひとときの秩序が戻ってくる。
「レイ。あなた、焼きすぎないようにって言われてたわよね?」
「……はい。ごめんなさい」
レイは頭をかきながら、どこか照れたように笑った。
その姿を見て、アリアもふっと小さく笑い返す。
子どもたちは、しぶしぶ椅子に座り直しながらも、笑いを止める気配はなかった。
「まったく、朝からにぎやかね……でも、それくらい元気がある方がいいわ」
アリアはそう言ってテーブルに近づき、子どもたちの顔をひとりひとり見渡すように視線をめぐらせた。
「さて、みんな。どうしても怒りたくなったときは、どうするか、覚えてる?」
「……花に水をあげる、でしょ?」と、ミナが答えた。口を尖らせながらも、どこか得意そうだった。
「そう。殺したくなるほど怒ったら、花に水をあげるの」
アリアは微笑んだ。
「命は、命で鎮まるから……って、いつも言ってるでしょ?」
それはアリアの口癖だった。
喧嘩のあとにも、夜中に誰かが泣いたときにも。まるで呪文のように。
“命は、命で鎮まる”
レイは、その言葉を何度も聞いた。
でも——その意味を、本当には知らなかった。
彼女は、誰にとっても“母”のような存在だった。誰もそう口にはしないが、子どもたちの不安な夜も、熱にうなされた朝も、いつも彼女の手がそばにあった。
けれど、レイだけは知っていた。
夜更け、皆が眠ったあと。アリアはときどき一人で外に出る。
庭の花壇に座り、月を見上げたまま、動かずにいるのだ。
遠くから見ているだけでもわかった。肩がかすかに震えていた。
声は上げていなかったが、彼女は——泣いていた。
見てはいけない気がして声をかけられなかった。
その背中は、まるで湖の底。美しく、深く、触れたら沈んでしまいそうで——レイはただ、窓の隙間からその影を見ていた。
その翌朝も、何事もなかったように、アリアは食卓に立っていた。
その瞳は、春の湖のように澄んでいて、優しく子どもたちを見回し——最後に、レイと目が合ったとき、ほんの少しだけ、目尻を細めた。
それは、他の誰にも向けない眼差しだった。
***
森での採取を終え、レイが孤児院に戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
扉が開いていた。鍵のかけ忘れは珍しいことではない。
子どもたちの誰かが外に遊びに出たのだろう。そう思って、足を踏み入れかけたそのとき——レイの足が、不意に止まった。
……静かすぎる。
耳に触れるはずの音が、何もなかった。
小鳥のさえずりも、木々のざわめきも、風が草を揺らす音すらない。
まるで、世界が一度死んで、まだ動き出していないかのような。
無音の淵に、レイの全身がすっぽりと沈んでいく。
「……ただいま」
呼びかける声は、場違いなほど小さかった。
返事は、なかった。
廊下へ一歩足を踏み入れた瞬間、空気の匂いが変わった。
鼻の奥を刺す、焦げた肉のような臭気。
鉄。血。焼けた脂と、何かが溶けたような——嗅ぎ慣れぬ、けれど本能が拒絶する匂いだった。
胸の奥で、なにかがゆっくりと硬くなる。
靴の音が、やけに大きく響いた。
リビングの扉を開けた。
次の瞬間、視界が、世界が、変わった。
そこには、“死”があった。
まず目に入ったのは、床に倒れたミナだった。
焦げたパンをふりかざして笑っていたその手が、今は腹部を押さえるように凍りついていた。
こぼれた内臓の上に、腹を裂かれたまま崩れ落ちていた。
小さな唇が、何かを言おうとしたまま動きを止めている。
そしてその向こうには、他の子どもたちの身体が、まるでばらばらの人形のように散らばっていた。
壁一面には、手足を失った断片が、釘で打ちつけられていた。
誰のものか、もう判別できない。
乾いた血が赤黒くひび割れ、まるで筆で塗りこめられたように、残酷な模様を描いている。
芸術だった。
少なくとも——それを施した者にとっては。
テーブルの上には、焼け焦げた人形と、何かの頭部。
髪の色も、皮膚の色も、焦げと血でわからない。名前の判別もできなかった。
足が震える。喉がきしむ。目が、明後日のものを見ようとした。
だが、レイは進んだ。這うように、引き寄せられるように。
最も奥の部屋——そこに、“母”がいた。
ベッドの上に横たわったアリアは、もはや“人”ではなかった。
胸元から下腹部まで、果実のように割かれ、肋骨が左右に押し開かれていた。
その内側は空洞で、沈黙だけが満ちていた。
服は赤黒く染まり、床にまで流れていた血と混ざり合って、布なのか肉なのか判別もつかない。
髪は湿った糸のように広がり、瞳のあったはずの場所は、黒く、ぽっかりと空いていた。
——ただ、一つだけ。
その手のひらに、何かが握られていた。
血に濡れたその掌を、レイがそっと広げたとき、そこにあったのはひときわ赤い“印”だった。
焼け焦げたような質感。赤い蛇のかたちを模した紋様が、赤黒く染み込んだ布片に描かれている。
それは、尾が喉元を喰らい、自らの頭を砕こうとしていた。
まるで、自分の命を自分で閉じようとするような、歪な構図だった。
そして、その図は“花”にも似ていた。
熱と肉と命の境目で、何かが咲こうとしていたようにも——散ろうとしていたようにも見えた。
けれど、それは自然に咲いたのではない。
誰かの手によって、“咲かされた”ものだった。
あまりにも異様で、あまりにも丁寧で——まるで、芸術のつもりで刻まれたかのように。
「命は、命で鎮まる」
アリアの言葉が、冷たい熱のように脳裏を這った。
あれは、ただの慰めだったのか。
それとも……この世界の、何か根本的な真実だったのか。
レイの脚が、その場で崩れ落ちる。
膝が床を叩き、濡れた血溜まりの中に沈んだ。
頭の中が、きゅうきゅうと軋んだ。音がない。
耳鳴りすらなかった。ただ、世界の端が、ひび割れていく感覚だけがあった。
レイは震える手で、アリアの残された上半身を抱きしめた。
骨が当たる音がした。
血に濡れた布と、皮膚と、裂けた肉の感触が、腕にぴたりとまとわりつく。
冷たい。
固い。
そして、軽すぎた。
それでも、レイは返事を待ってしまった。
母さん。
ねえ、母さん。
返事がないのはわかっているのに。
もう声も、瞳も、微笑みも、どこにもないと知っているのに。
涙が落ちた。
嗚咽が、喉の奥から漏れた。
けれど、その顔は、どこかおかしかった。
——笑っていた。
頬が引きつり、喉の奥から、違う音が漏れていた。
自分では止めようと思ったのに、声が出た。
「……母さん。咲いてないよ、花……どこにも、咲いてない」
その言葉は誰に向けられたのか。何に応えようとしていたのか。
レイ自身にも、もう分からなかった。
壊れたのだ。
この世界が。
いや、レイの中の“何か”が。
レイは、立ち上がった。
笑いながら。
命は命で鎮まる。ならば、この命で“赤い蛇”を終わらせる。
この“赤い蛇”がどこから来て、なぜ咲かされたのか——
それを知るまでは、もう、止まれない。
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