第40話 陽だまり亭”の屋上にてエリーゼとダリル

夜の風が頬を撫でていく。

 “陽だまり亭”の屋上。静まり返った街の上に、雲ひとつない夜空が広がっていた。星々の光はどこまでも澄んでいて、まるでこの世界の真実を見通すかのようだった。


 エリーゼは、柵にもたれて空を見上げていた。右腕の金龍の力が淡く輝き、左足の銀もまた、月光を反射していた。


 (……本当に、この世界は滅びかけているのかな)

 あの帽子の男――ガーランが語った言葉が、今も胸の奥で燻っている。


 そのとき、背後でそっと扉が開く音がした。


 「エリーゼ殿、こんなところに……」


 振り返ると、銀縁の眼鏡をかけた神官、ダリル=ベルトレインが立っていた。青い髪が夜風に揺れている。


 「どうしたの、ダリル。眠れなかった?」


 「はい……胸がざわついて、どうにも寝つけなくて。ここに来れば、少しは落ち着くかと思ったのでござる」


 エリーゼは小さく笑って、隣を指さした。ダリルは遠慮がちにエリーゼの横に立ち、同じように夜空を仰ぐ。


 しばらくの沈黙のあと、エリーゼがそっと問いかけた。


 「ねえ、ダリル。マケドニア聖教国には……やっぱり思い入れ、あるんだよね?」


 ダリルはその言葉にわずかに肩を揺らした。眼鏡の奥で、瞳が夜空を映していた。


 「……はい。拙者にとって、あの国は……かつてすべてだったでござる」


 「聖女クラリス様、のこと?」


 「ええ。拙者は、聖女様の付き人をしておりました。表向きは神官見習いでしたが、実際には身の回りの世話から、神託の記録、信徒との連絡まで――あの方の傍に、ずっといたのです」


 エリーゼは少し驚いたように目を見開いた。ダリルがそこまで深く関わっていたとは、知らなかった。


 「……恋してたの?」


 静かに問うと、ダリルはわずかに俯き、眼鏡を押し上げた。


 「……そうかもしれません。いえ、今にして思えば、間違いなく……あの人は、拙者のすべてでした」


 夜風が一瞬止まったように感じた。


 「聖女様は、慈愛に満ちた方でした。ただ優しいだけではなく、誰よりも真剣に、人の未来を思っておられた。“神を疑うことは罪ではない”と、正面から語った。拙者には、到底真似できぬ強さでござる」


 「神を……疑った?」


 「はい。マケドニアの教義では、神は絶対です。ですが聖女様は“奇跡の名のもとに人を裁く体制は、神の望む世界ではない”と……腐敗した司祭たちに警鐘を鳴らしました。その言葉が、かえって火を招いてしまった」


 その声は、震えていた。


 「拙者は……守れませんでした。彼女が火刑に処されると知った時、何もできなかった。いや、動けなかった。自分が何者なのかさえ……」


 拳をぎゅっと握る音がした。


 「今でも夢に見るのです。あの方が炎の中で、静かに微笑んでいた光景を。……拙者は、臆病者でござる。あの人のために何一つできず、こうして逃げ出すように追放された」


 エリーゼはそっと、ダリルの肩に手を置いた。その手は温かく、確かだった。


 「ダリル……あなたは逃げたんじゃない。生き延びたんだよ。きっと、その想いを抱えて、ここにいるために」


 ダリルは何も言わなかった。だが、その眼にはうっすらと光るものが浮かんでいた。


 「……ありがとう、エリーゼ殿。こうして話せただけでも、少し……救われた気がします」


 「ううん。話してくれて、ありがとう」


 しばしの静寂が流れた。


 「でも……またあの国に行くのって、怖くない?」


 問いかけに、ダリルはゆっくりと頷いた。


 「はい。怖いです。けれど、だからこそ――行かねばならぬと思っています。あの国が“奇跡”という名のもとに、どれだけの罪を覆い隠してきたか。それを暴かなければ、聖女様の魂は浮かばれぬでござる」


 エリーゼは、彼の覚悟をしっかりと見つめた。


 「……じゃあ、一緒に行こう。今度こそ、あの国に“本当の正義”を届けるために」


 ダリルは目を伏せ、静かに一礼した。


 「はい。拙者は、あなた方と共に進みます。今度こそ――悔いなきように」


 夜風が再び吹いた。星々の光は、二人の姿を静かに照らしていた。

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