第2話 アルセリア侯爵夫人アントワーヌの回想

アルセリア侯爵夫人視点 ――「あの子が消えた日」


 あの日の王宮広間は、まるで冬の夜のように冷たかった。


 燭台しょくだいの光に照らされた白亜の壁、紅の絨毯じゅうたん、その中心に跪くひざまずく一人の少女──エリーゼ。その姿を見下ろすたび、胸の奥に沸き上がる感情は、憐れみなどではなかった。むしろ、あの子がとうとう"消える"日が来たことに、私は心の底でほっとしていたのだ。


 エリーゼ=アルセリア。あの子は、私の夫と隣国の王女との間に生まれた子だった。


 私は決して忘れない。夫が「政略の一環だ」と言って、わが国を訪問していた強大フリューゲル国の王女と夫が恋に落ちたのだ。

 それは国王からの命令であり、策略だったと説明された。隣国の姫を人質のように我が国に滞在させることができれば、あわよくば嫁がせれば、この国の防衛上、安全であると。

 そこから王女と私の人生は狂い始めたのだ。

 わたしは夫と王女が恋仲になると、邪魔者扱いされた。

 一時的な策略だ。もしこれが上手くいったら我が家は伯爵家から侯爵家へと、さらに、領地も増やしてくれると国王と約束を取り付けた。

 一時的に、領地に戻っていてくれ。必ず迎えをよこす。しばらくの間、我慢してくれ。君を愛しているよ。そう言われ、わたしは赤子だった娘と一緒にしぶしぶ領地への引きこもった。


 悔しかった。王女も夫も許せなかった。その後は、私は暗躍した。エリーゼの母は、病死などではなかった。──私が、手を回したのだ。


 あの女が王女というだけで、私の夫に特別な感情を持たれていたことが耐えられなかった。産後の弱った身体に、十分な休息も医術も与えられないよう取り計らった。直接手を下したわけではない。だが、あの女が長く生きられないように仕向けたのは確かだ。


 それでも、あの子は残った。エリーゼという名で、堂々とアルセリア侯爵家の娘として育てられた。侯爵は彼女に深い愛情を注いだ。まるで罪滅ぼしのように。私はそれを、耐え難い屈辱と感じた。


 けれど、私は貴族の女。表向きには慈母を演じ、彼女に上等な教育と衣服を与えた。娘として恥じぬように育てた。だがその瞳を見るたび、胸の奥に渦巻く黒い感情は募っていった。


 ──なぜ、あの子ばかりが愛されるのか。


 カリーナは、私の娘。正当な、誰から見ても非の打ちどころのない令嬢として育ててきた。なのに侯爵は、エリーゼにだけ優しかった。あの子の髪がふわりと揺れるたび、あの女の姿がちらついた。あの微笑み。あの声。──あの忌々しい記憶。


 だから私は、機を待った。エリーゼがその立場を失う日を。


 シャルル王子が、カリーナに目を向けたとき、私は確信した。これは運命なのだと。あの子が消えるべき日が、ついに来たのだと。


 カリーナは幼いころから私に似て、策略に長けていた。何を言えば人の心を動かせるか、どんな涙を流せば男が従うか──すべて教え込んだ。シャルルのような単純な男なら、操るのは造作もなかった。


「王子、姉が私にひどいことを……」


 そう耳打ちしただけで、彼は即座に信じた。何の証拠もなく、それでも王子は、カリーナの涙を真実だと受け止めた。そして、王子の子を身籠った。計画は完璧だった。


 婚約破棄と国外追放。


 誰もエリーゼをかばわなかった。侯爵ですら──いいえ、あの人はただ黙っていた。もはや彼女を守る術がないことを悟っていたのだろう。あるいは、私がその耳元で囁いた言葉を信じたのかもしれない。


「カリーナのお腹には王子の子がいます。だから、いずれあなたの孫が国王ですよ」


 広間の片隅から、その場面を眺めながら、私は心の中でささやいた。


 ──さようなら、エリーゼ。


 お前は、この家に生まれるべき存在ではなかった。お前の母もまた、手に入れるべき幸福ではなかった。私はそれを正しただけ。何が悪いのかなどと、今さら問う気もない。


 ただ一つ、言えることがある。


 私がこの手で守ったのは、私の地位であり、私の娘であり──私の誇りなのだ。


 あの子が消えたあの日、私はようやく息ができるような気がした。


 けれど。


 ──それでも、エリーゼは振り返らなかった。


 拘束されながらも、あの子は泣き叫ばず、罵らずののしらず、ただ黙って、毅然と王宮を去っていった。


 まるで、誰よりも誇り高い王女のように。


 ……それが、少しだけ、癪に障ったしゃくにさわった



◆アルセリア侯爵から見た追放劇◆


 アルセリア侯爵視点 ――「父が選んだ沈黙」


 あの日、王宮の広間は、やけに静かだった。


 赤絨毯に覆われた白亜の大理石の床。燭台しょくだいの灯りが壁を照らし、まるで舞台装置のように整えられた玉座の間。私は、その空間の中で、ひとり沈黙を守っていた。


 玉座の前にひざまずく少女──エリーゼ。私の娘だ。……いや、違う。私にとって、何より大切な、罪滅ぼしの証そのものだった。


 あの子は、私が犯した罪の結晶だ。


 隣国・フリューゲルの王女との政略の果てに生まれた命。あれは王命だった。王女を我が国に繋ぎ止めるため、形だけでも「愛」を演じねばならなかった。そう言い聞かせていた。だが、気づけば私は、本当に王女を愛していた。


 そしてエリーゼが生まれた。私の過ちであり、贖罪しょくざいであり、誇りでもあった。──だが、その代償に、私は王女を失った。


 正式な婚姻関係を結ばぬまま亡くなった王女。その死に不審を抱いたことはある。医師は「産後の体調悪化」と診断したが、あれほど元気だった王女が、わずか数週間で命を落とすなど、今にして思えば不自然だった。


 けれど、真実を暴こうとは思わなかった。いや、思えなかった。既に私は侯爵位を授かり、王からも爵位と領地の恩賞を与えられていた。全てを壊すには、あまりに多くを背負いすぎていたのだ。


 その代わり、私はエリーゼにすべてを注いだ。


 カリーナにも、もちろん愛情は注いだ。だが、エリーゼに向ける感情は、父としてのそれだけではなかった。罪悪感と、後悔と、王女への誓い。そのすべてを背負わせてしまった。


 妻は黙って受け入れた。表面上は。だが彼女の視線は冷たく、娘に向けられる微笑みは、作り物のように歪んでいた。


 ──それでも、私は見て見ぬふりをした。


 エリーゼは、よく笑う子だった。気丈で、努力家で、誰よりも優しく。母から冷遇されても、姉から疎まれても、決して恨むことなく、まっすぐに成長してくれた。


 だからこそ、この日が来たとき──私は、何も言えなかった。


「エリーゼ=アルセリア。貴様との婚約は、ここに破棄する」


 王子の言葉が広間に響いた瞬間、エリーゼの肩が震えたのを見た。だが、私は立ち上がらなかった。目を逸らした。妻が、カリーナが、王子が、私に向ける無言の圧力の中で、私は立ち上がることができなかった。


「貴様が、カリーナ嬢をいじめたからだ」


 くだらぬ理由だった。事実無根であることはわかっていた。エリーゼがそんなことをするはずがない。だが、すでに状況は動いていた。王子はカリーナを選び、腹には王子の子が宿っているという。ここで異を唱えれば、私の地位も、家も、娘もすべてが終わる。


 いや、それは言い訳だ。ただ、私は──怖かったのだ。


 かつて、王の命に逆らえなかった自分と同じように、今度は王子に逆らうことができなかった。


 私は父親である前に、侯爵だった。家の長として、家名と領地を守る責務を選んだ。


「私は、姉様にも王家にも……そんなこと……していません……!」


 涙ながらに訴える声が、胸を刺した。立ち上がりたかった。否定したかった。だが──できなかった。


「国外追放を命じる」


 その言葉とともに、私の娘は「罪人」として縛られ、連れて行かれた。泣き叫ぶでもなく、罵るののしでもなく、ただ静かに、誇り高く。

 

──まるで、本当の王女のように。


 扉が閉じる。その音が、やけに遠くに響いた。


 静まり返った広間。誰も何も言わなかった。カリーナは勝ち誇ったように王子に寄り添い、妻は満足げな表情を浮かべていた。


 そして私は、ただそこに座っていた。


 あの日、私はエリーゼの父であることをやめたのだ。


 夜。屋敷に戻った私は、ひとり書斎にこもった。


 エリーゼの幼い頃の絵が机の隅に置かれていた。私に向かって笑う、小さな少女。今でも覚えている。初めて「父上」と呼ばれた日のことを。


 その声が、もう聞けない。


 私は、父として、最も大切なものを守れなかった。


 侯爵家は守った。地位も、名誉も、跡継ぎも。


 ──だが、魂はとうに失っていたのだ。


 あれから何度も夢を見る。


 誇り高く王宮を去っていくエリーゼの背中。誰よりも美しく、誰よりも遠い。


 私は一生、あの子に顔向けできぬまま、墓に入るのだろう。


 けれど──願わくば。


 いつか、あの子がもう一度、笑える日が来ることを。


 そしてそのとき、どうか私のことなど、完全に忘れていてくれ。


 ……それが、私にできる唯一の「償いつぐない」なのだから。



◆ある王宮兵士の話◆


 ──それは、あまりに唐突で、あまりに不自然な光景だった。


 俺は王宮に仕える兵士のひとりだ。名などない。玉座の間の警護、それがこの日割り当てられた任務だった。だが、その日、俺は人生で二度と忘れられないものを見た。


 玉座の間に響いた第一王子の声──「婚約破棄」そして「国外追放」。それを受けた少女、エリーゼ=アルセリアの震える声と、絶望に崩れ落ちる姿。俺は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


 どうしてあんなことが許されたのか。なぜ誰も止めなかったのか。


 答えは簡単だった。……そこに、王も、宰相もいなかったからだ。


 第一王子シャルル殿下──人々は聡明な若者と称するが、我々下々の兵士にはその裏の顔も知られていた。野心家であり、威圧的であり、自分の権威に酔うあまり、人の命すら道具のように扱う男だ。


 そして彼の隣にいたのは、カリーナ=アルセリア嬢。かつては聡明で優しい令嬢と噂されたが……今やその面影はなく、王子の腕に絡みつきながら妹の破滅を笑う姿は、まさに妖魔のようだった。


 あの日、国王陛下と王妃は政務で外遊に、宰相殿は外地の調停に赴いていた。玉座は空席、宮廷を統べる者は誰もいない。


 ──その隙を突いた、追放劇だった。


 俺はエリーゼ嬢のことを、遠くから見知っていた。彼女は常に礼儀正しく、誰に対しても分け隔てなく接していた。兵士の我々にさえ、通りすがりに微笑みかけてくれるような方だった。


 その彼女が、王子に向かって「姉をいじめた」と非難され、涙を浮かべて否定する姿を見るのは、胸が張り裂けそうだった。


「私は……姉様に、そんなことしていません……!」


 どれほど真っ直ぐな声だったか。だが、王子の顔には冷笑しかなかった。カリーナ嬢の表情もまた、嘲るような勝ち誇りに満ちていた。


 そして、誰も彼女をかばわなかった。周囲の貴族たちは目を逸らし、家族であるアルセリア侯爵夫妻すら、沈黙を守った。否、彼らは沈黙という形でこの仕打ちを肯定したのだ。


 ……正気の沙汰ではなかった。


 だが、我々兵士には止めることなどできない。命令には逆らえぬ。命をかけて抗えば、次に縛られるのは自分なのだから。


「兵士、出よ」


 あの声に従い、俺は同僚とともに前に出た。形式とはいえ、王命だ。逆らうことはできない。


 だが──その手が震えていたことは、誰にも見られなかったはずだ。目の前にいるのは、泣き崩れる一人の少女。罪人の顔ではなかった。ただ、絶望と困惑に満ちた、優しき貴族令嬢の姿。


 俺は声を押し殺したまま、震える手で彼女の両手を後ろで縛った。鎖が鳴った音が、今でも耳から離れない。


「離して、ください……っ」


 その声は、俺の胸を貫いた。だが、俺には何もできなかった。ただ任務をこなすしか、方法がなかったのだ。


 王も、宰相もいない王宮は、まるで無法地帯だった。


 正義も、礼節も、貴族の矜持さえも、すべては力と立場で塗り潰される。あの日の広間は、まるで冷たい墓所のようだった。煌びやかな装飾も、赤絨毯も、燭台しょくだいの光も──少女の悲しみに光を与えることはなかった。


 思えば、あの場にいたすべての者が「沈黙」という名の罪を犯していたのだろう。我々兵士も例外ではない。


 いや、最も罪深いのは、シャルル王子その人だった。


 自らの権威の誇示のため、ひとりの少女を断罪し、婚約を破棄し、追放を命じる。王家の名のもとに、個人的な情念を押し通した。


 ……それが「王家の威信」だというのなら、俺はそんな威信など、信じたくはない。


 エリーゼ嬢が連れ去られた後、俺たち兵士の間には、言葉にできない沈黙が流れていた。誰も何も言わない。だが、全員が同じことを思っていた。


「……これは、間違っている」と。


 我々兵士は剣を持つが、口を持たない。語ることは許されず、思うことすら禁じられている。だが、それでも、人としての感情までは失っていない。


 あの広間で、少女が見せた絶望。


 それは、俺たちの中にも深く突き刺さっていたのだ。


 ──このまま、彼女が忘れ去られてしまうことだけは、あってはならない。


 いつか、王が戻り、宰相が真実を知り、全てが明るみに出る日が来ることを、俺は願わずにはいられない。


 そして、密かに心の中で誓った。


 この出来事を、決して忘れまいと。


 正義が眠っていた日を、誰かが語り継がねばならぬのだ。


 我々兵士は、黙して剣を握る者。だが、心までは売らぬ。あの日の光景は、王国の未来を揺るがす闇の種となるかもしれないのだから。


 ──これは、王なき王宮で起きた、ひとつの不正義の記録である。

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