第五章 デオラⅨ宙域【3】

〈ジョシュア〉艦長室の重厚な執務卓の前で、グレゴリーは瞑想に耽っていた。

 長い十五年間だった。

 さまざまに紆余曲折を経て、今日を迎えた。今日、すべてが報われる。スパイダーを撃滅し、後顧の憂いを絶って蜂起し、コンスエロへ進攻し、トライアングルを打倒する。その記念すべき第一日だ。

 しかしグレゴリーは疲れを覚えていた。今までの十五年よりも、さっきまでのわずか数十分のほうが、よほど疲れた。だから、ヒルベルトのプライベートステーションからジョシュアに戻った後すぐ、一人になりたくて艦長室へ引き取った。

 がくん、と艦体が揺れた。ジョシュアがステーションのピアユニットから離れたのだ。出港はジェス少佐に任せておいた。計画どおりスパイダーへ接近するよう指示してある。

 いま少し休息がほしかった。

 クローレ大尉からの報告を聞いたときは、思わず呪いの言葉を吐きそうになった。貨物船たった一隻、星系外へ逃げられてしまえば、計画発動までのわずかな時間で探索することなど、事実上不可能だった。

 しかし、船名と船長名を聞かされて、グレゴリーは運命のいたずらに深く感謝した。

 ロナルドの動向なら、容易に追跡できる。

 士官学校中退後のロナルドがどこで何をしているか、グレゴリーはおおよそ把握していた。〈思い出メモリア号〉などという女々しい名前の船で細々と運送業を営んでいることも、ヘレネという会社と契約していることも、グレゴリーは知っていた。だからヘレネのエージェントに金をつかませて、時おりロナルドのことを報告させていたのだ。

 クローレ大尉がロナルドを取り逃がした時、グレゴリーはヘレネのエージェントたちにも手を回した。ほどなく、プリマヴェーラのソクラテスという男から、ロナルドが寄港しているという情報がもたらされた。あとは手のひらを返すよりも簡単だった。

 しかし――

 自分はなぜ、ロナルドごときの動静を気にして、わざわざ調べさせていたのだろう。

 また、つい先ほども――

 自分はなぜ、わざわざロナルドの前に姿を現わし、『愚昧の国のアリス』計画について語って聞かせたのだろう。

 ロナルドは、ヒルベルトをすっかり信じ込んでいた。あのままヒルベルトがアリシアをステーションに連れ帰れば、ロナルドは満足して旅立っていったはずだ。何も知らないままに。

 よそう。今は考えごとにうつつをぬかしている時ではない。

 艦内通信でヒルベルトを呼び出した。

「準備はどうだ、博士」

『怠りなく取りかかっております。おいでになりますか?』

「行こう」

 腰を上げ、艦長室を出た。

 艦橋最上部の観測ドームへ向かった。肉眼で周囲の空間を展望するための、視界の広いドームだ。今は計画遂行のために少し改造を施してある。

 球形の観測シールドの外には、まがまがしいスパイダーの姿があった。シールドの前の粗末な椅子にはアリシアが座っている。すぐそばにヒルベルトが立っていて、何かしきりに話しかけていた。

 ドームの奥には気密式のブースがあって、グレゴリーの部下の兵士が三名、防備を固めている。

「相変わらず、か?」

 グレゴリーはヒルベルトに尋ねた。

「はい。態度を硬化させたままです」

「そうか」

 グレゴリーが立ったまま見下ろすと、アリシアは炎がほとばしりそうな目で睨み上げた。

「協力なんて、しない」

「おまえの生い立ちは聞いた。スパイダーが憎くはないのか。自分の意志を実現できる力がありながらそれを使用しないというのは、人間の可能性に対する冒涜だぞ」

「偉そうに言って、結局、戦争するのが目的なんでしょ!」

「聖戦と呼んでくれ。それに、戦争は、人間に許されたひとつの手段だよ。私は、戦争それ自体を目的としているわけではない」

 言いながらグレゴリーは、どこかで聞いた言い草だなと思った。

「でも、そんな手段、使わないで済むんなら、そのほうがいいに決まってるもん。あたしは、そんなこと、絶対にやらない」

 アリシアは瞬きひとつせずに睨み続ける。

「懐柔は不可能のようです」

 ヒルベルトが投げやりに言った。

「先生、どうしちゃったの。なんで、こんな人の仲間になったの? あたしに、そんなことさせないで。お願いだから、先生!」

 アリシアが懇願した。

 ヒルベルトは、慈愛に満ちた面持ちをして、この上なく優しい声で答えた。

「アリス。君は、大切な娘です。でも、この世には、もっと大切なことがあるのですよ」

「なんなの? 戦争すること?」

「人類の、真の未来を見ることです。それに比べれば、トライアングルの打倒などは瑣末なことです」

「真の未来って……?」

「人類史をやり直すのです。宇宙開拓時代に突入する前の段階から、ですね」

 ヒルベルトは実に楽しそうに話す。

「まだ人類は外宇宙に出るべきではなかった、というのが、博士の持論なのだ」

 グレゴリーは話に割って入った。ヒルベルトは、話を弄びすぎて長くなる傾向がある。

「スパイダーをコアバスターで破壊すれば、デオラⅨ宙域の重力バランスが崩れる。博士の計算では、それによってLOPが消失するそうだ。同時に、デオラⅨ軌道の対蹠点上にあるLIPも消失する。デオラ近辺には、他にLPは一対もない。つまりデオラは、外宇宙から閉ざされるわけだ」

 再び、ヒルベルトが割り込んだ。

「その時、何が起きるか。それが知りたいのですよ。すべてと引き換えにしても」

 どうしても、自分で話したいらしい。グレゴリーは、好きにさせることにした。学者という種族は、誰しもこういうものなのだろうか。

 ヒルベルトが『愚昧の国のアリス』計画に関与したことには、彼なりの意図があった。グレゴリーが計画への協力を要請した時、

 ――あなたの復讐や理想など無関係なのですよ。トライアングルの腐敗などには関心ありませんのでね。

 ヒルベルトは口を極めてそう説明してくれた。グレゴリーは無論、それを承知で手を結んだのだが、ヒルベルトの執着ぶりにはいささか辟易させられていた。

 マクロ人類史の研究において、ヒルベルトは昔から一つの仮説を抱いていた。それは、いったん外宇宙時代を経験した人類が、外宇宙との連絡を断たれてしまったらどうなるか、という命題だった。

 何百年かの昔、人類は、起源である地球における人口飽和問題を解決するために、やむなく国家間紛争を終息させ、一体となって宇宙進出を果たした。従って、人類にとってどのような社会形態が最も理想であるかという課題はいまだ解決されていない、というのがヒルベルトの持論なのだ。

 彼によれば、今まで可能であった外宇宙への進出を断たれた人類社会は、その膨張本能の持って行き場を失い、直ちに国家間紛争の時代に逆戻りするはずだという。その紛争の先に成立する社会形態こそが、真に人類が採るべき道だというのだ。

『愚昧の国のアリス』計画は、この状態を擬似的に作り出す。デオラ星系唯一のLPが消滅するからである。

「その先にあるものを、知りたいのですよ。人類がいかなる結論を導き出すのかを。それが、自分の仮説と合致するのかどうかを」

 話し終えて、ヒルベルトは得意げに口もとをほころばせた。話の内容をアリシアが理解できているかどうかは、さして気にならないらしい。

「先生……」

 アリシアが、信じられないといった表情でヒルベルトを見た。

「ほんとに、それだけ? そんなことのために、たくさんの人が死んでもいいの?」

「そんなこと、とは心外です。どうしてもそれを知りたい。これは、好奇心です。人類が人類として知的な発展を遂げてきた原動力、それはまさに好奇心だとは思いませんか?」

「でも、でも」

 アリシアが取りすがる。

「『その先にあるもの』なんて、先生、見られないじゃない。先生だけじゃない、あたしにも、いま生きてる他の誰にも、見られないじゃない。何百年も何千年も先のことなんて」

「ふむ。君には、いろいろなことを教えてきましたが、科学を探求する心については、やや教育不足だったようですね」

 ヒルベルトは人差し指を立てた。教壇で生徒を相手に授業をしているかのようだった。

「もちろん、結論が出るのは遥か未来のことでしょう。この目で見届けることはできません。しかし、そんなことは問題ではないのです。後世の人々は、こう言うでしょう。ヒルベルト・ローゼンバーグは正しかったと。彼が想定していた社会形態は正しかったと。それは疑いありません。正しいものは、いずれ必ず正しいことが証明される。それが科学です。ほんの数十年の人生の中ですべてを解決しようという考えは、間違っています」

 恍惚とした表情で喋りつづけるヒルベルトを、グレゴリーは醒めた目で眺めていた。

 ヒルベルトの主張は、頭では理解できるが、およそ常軌を逸していると思う。自分の死後、遥かな未来に結論が出る命題など、何の意味があるというのだろう。

 観念的な社会哲学などに興味はない。大切なのは、生身の人間だ。彼らが未来へ向かって適切に歩いてゆけるように導いてやることだ。他に大切なものなど、何もない。

 ヒルベルトとは同床異夢だ。グレゴリーはそう割り切っている。ヒルベルト同様、自分も彼の好奇心などに関心はない。互いの意志を実現するために、手を結んだだけだ。そして、それで充分だ。

 LPの消失によってデオラが宇宙の孤児となってしまっても、ヒルベルトの仮説どおりの歴史が実現するとは思わない。トライアングルの支配を打破したグレゴリーの指導のもと、適切な政治と経済規模を保った賢明な国家として存在しつづけるだろう。そしていつかは、新たなLPの発見や新たな宇宙航法の発明によって、他の星系の人類との再会を果たすことだろう。

 それは、次の世代の人間の仕事だ。

 生まれ、出会い、愛し合い、子を産み、育て、死んでゆく。その繰り返しの中で、正しい道を選択していけばいい。

 グレゴリー自身は、その道から外れたまま世を去るつもりだ。家庭も持たない。自分の血を後世に遺す意志もない。

 軍に任官後、人に勧められて一度は結婚したが、長くは続かなかった。トライアングル打倒の策を練ることに血道を上げるグレゴリーに愛想を尽かし、妻は去っていった。いや、グレゴリーが意図的にそう仕向けた。

 妻はよくできた女だった。

 ――あなたにはついて行けないけれど、信念を持ってやり抜こうとしていることを止めることはできない。だから、あなたの野望は決して口外しない。

 そう言ってグレゴリーのもとを去った。その後ほどなく、病を得て亡くなったと聞いた。

 ずいぶん多くのものを失ってきた。もはや、怖れるものは何もない。自らの信念に殉じるのみだ。

 ふと我に返ると、ヒルベルトはまだ喋りつづけていた。

「……大佐と出会って、夢にまで見た外宇宙との隔絶が実現できることを知り、君をコンスエロの特殊教育センターへ送り込んだのです。超覚をさらに強化するためにです」

「はじめから、そのつもりだったの……?」

「はい。君は大切な娘です。ただ、さらに大切なものがあったということなのです。わかってくれますね、アリス」

「わかんない! そんなの、わかんない!」

 アリシアは激昂して椅子から立ち上がった。

「どうかしてる。先生も、この人も、どうかしてる。あたし、スパイダーの〈音〉なんて聞かない! 聞こえても教えないから!」

 胸のペンダントをひねる。インタラプターの出力を上げたらしい。彼女なりの意思表示なのだろう。

「しかたがないですね」

 ヒルベルトはグレゴリーを見た。許可を求めている目つきだ。

「間もなくストームの通過が始まります。よろしいですね?」

「やむを得ない。当初の計画に従え」

 グレゴリーは重々しく告げた。

「はい。それでは、〈ニューロデバイス〉を使用します」

「手伝ってやれ」

 グレゴリーの指示に応じて、気密式ブースの周囲にいた兵士が動いた。一人はブースのドアを開け、残り二人はこちらに歩み寄ってくる。

「なに……何するの?」

 おびえた声でアリシアが問う。

「君を、ニューロデバイスに接続します。知っていますか? 君の意思に関係なく、外部の刺激を君の感覚神経に流入し、君が感じ取ったことを、今度は外部の出力装置から取り出すことができるという、たいへん便利な装置です。しかも、入力も出力もエンハンサーで強化しますから、どんな微かな電磁波でも、細大漏らさず捕捉することができるのです」

 ヒルベルトは歌うように言った。楽しんでいるな、とグレゴリーは思った。

「これは、もう必要ありませんね」

 ヒルベルトがアリシアの頭からインタラプターを取り上げた。

「絶対に、聞かない! 要らない〈音〉は聞かないように、ずっと練習してきたもん!」

「ところが、君には聞こえてしまうのですよ。スパイダーの音が」

 インタラプターをいとおしげに撫でまわす。

「言いつけどおり、常にこれを装着していましたか?」

「え?」アリシアは目を丸くした。「うん……」

「それは何よりです。君には黙っていましたが、この新型インタラプターにはちょっとした仕掛けがありましてね。意識に上らない程度の微弱な電磁波を、ずっと君に与えつづけていたのですよ。スパイダーが発する波長をすべて網羅して、ね。君の脳には、スパイダーの波長が刻み込まれているのです。どれほど君が聞くまいとして頑張っても、君の注意はスパイダーに向いてしまう。そして、刻み込まれた波長を聞き分けてしまうのです。いわば、超覚のカクテルパーティー効果ですね。つないで下さい」

 最後の言葉だけは、アリシアではなく兵士に向かって告げられた。二人の兵士はアリシアを両側から抱きかかえ、ニューロデバイスのブースへと引きずって行った。

「やめて! 先生お願い! やめて!」

 アリシアは絶望的な声で叫びながら、ブースの中へ連れ込まれた。

「お手間をかけました」

 ヒルベルトが頭を下げた。ブースの中では、アリシアが泣きわめきながら暴れている。

「あの状態で大丈夫か? 薬でも使って、意識レベルを落としたほうがよくはないか」

 グレゴリーは心配になって尋ねた。

「とんでもない。意識レベルを落とせば、超覚も働かなくなります。ごくわずかな電磁波を着実に捕捉するには、ちゃんと覚醒した状態で、脳と感覚神経の機能を、百パーセント、使ってもらわなくてはなりません」

 百パーセントという単語に、ヒルベルトは妙に力を込めた。グレゴリーはちょっと引っ掛かったが、ヒルベルトもそれを察したらしく、すぐに言い足した。

「人間の脳は、ざっと三十パーセントしか使われていない、というのはご存知でしょう」

「聞いたことはある」

「ニューロデバイスの特長は、脳や神経の潜在力をすべて使用できる点にあります」

「本当に大丈夫か? 脳が破壊されるのではないか」

「ご心配なく。バイオノードのように物理的な力が流れるわけではありません。ただ、デオラストームの全電磁波という膨大な刺激が、データとして脳を通過するだけのことです」

 ヒルベルトは涼しい顔で言う。

「もっとも、計画終了まで正気を保っていられるかどうかは未知数ですけれどね。何しろ、苦痛といわず快感といわず、ありとあらゆる感覚が、同時かつ大量に襲いかかり、それが数時間に渡って継続するわけですから」

「死ぬぞ」

 さすがにグレゴリーも顔をしかめた。

「死なせません。しかし、死んだほうが楽だと彼女は思うかもしれませんね。思うだけの余裕があれば、ですが」

 この男は狂っている。グレゴリーはそう思った。

 しかし、すぐに否定した。自分だって狂っていることには変わりはない。

 ブースの中では、アリシアがニューロデバイスのシートに座らされていた。両手首と両足首が金属の拘束具によってシートに固定され、頭部にはヘルメットを被せられている。ヘルメットからは無数のプラグコードが伸び、ブースの内壁のあちこちに接続されていた。

 ブースのドアには一本のレバーが取り付けられている。レバーを下げれば、ニューロデバイス回路が接続され、この宙域に飛び交うすべての電磁波が、ジョシュアの艦橋に設置された巨大アンテナを介して、アリシアの超覚へと雪崩れ込んでくるのだ。

「ああ、いけない。忘れていました」

 ヒルベルトは上着のポケットから黒い布を取り出し、それを携えてブースに入っていった。

「先生、助けて……お願い……」

 もはや逆らう気力もないのか、病人のように弱々しくアリシアが懇願する。ヒルベルトは構わずに、ヘルメットをいったん脱がせ、黒い布をアリシアの顔に巻きつけた。アイマスクだった。

 ヒルベルトはブースから出て、ドアを閉じた。アリシアの声は、届かなくなった。

「なぜ、あんなものをつけた?」

 グレゴリーは聞いた。

「ええ。ニューロデバイスには副作用がありましてね。どうやら、余分な刺激が視神経に逆流するらしいのですよ。そこにだけは、ものすごい圧力がかかるらしくて。動物実験では、眼球が破裂しましたのでね。それをご覧になりたければ、外して参りますが」

 こともなげに答える。

「ひとつだけ確認したい。あの子は、博士の養女のはずだ。構わないのか」

「これは今さらなおっしゃりようですね。ええ、アリスは大切な娘です。しかしそれ以上に、大切なサンプルだということです。サンプルを間違いなく確保しておくために、必要な手段を前もって講じておく。これが科学を志す者に必要な態度だと思いますね」

 兵士の一人が駆け寄ってきた。

「デオラストームの本体が、デオラⅨ宙域に到達。通過開始です」

「はじめましょう。空白の五分間は、すぐにでも訪れるかもしれませんよ」

 ヒルベルトの声は浮き立っている。

 もはや、後戻りはできない。

「始めよ」

 グレゴリーは断じた。

 ヒルベルトはいそいそとブースに近づき、レバーに手をかけた。

「接続します」

 レバーを下げた。

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