第五章 デオラⅨ宙域【4】

 足が重い。

 一歩踏み出すごとに、ますます重くなる。

 ヒルベルトのプライベートステーションのホールからメモリア号の中にまで戻ってくるだけで、数時間を要したように感じられた。

 一刻も早くデオラⅨ宙域から離脱しなくてはならない。デオラストームが到達すれば、航行用の計器にも障害が発生する可能性がある。事故のもとだ。それに、グレゴリーがスパイダーを攻撃したら、あたり一帯に破片が飛び散る。メモリア号も無事では済まないだろう。

 しかし、鉛のような足は、ブリッジには向かわなかった。

 真っ先に向かったのはアリスが使っていた船室だった。

 自動扉は前に立ってもスムーズには開かなかった。センサーの調子がおかしいらしい。船室に拒まれているようにも思えた。

 通路を何度か行き来すると、ようやく感知してくれた。

 無人の部屋には、確かにここで数日を過ごしたはずのアリスの痕跡は何もなかった。化粧もろくにしていなかった十四歳の少女には、残り香などという気の利いたものを置いてゆくことはできなかったのだろう。

 ただ、貸してやった船員服がきちんとたたんでベッドの上に置かれているのが、痕跡と言えば言えた。

 それからもう一つ、ライティングデスクの上に、メタルコーティングされたカードが一枚。プリマヴェーラで発行してもらった一時滞在査証カードだ。

 本来はプリマヴェーラを離れる時に返却しなければならないのだが、出発を急いでいたのでその時間がなかったのだ。ただ、滞在許可は出発と同時に自動的に切れるから、カードを持ち出したからといって悪用や再利用ができるわけではないので、返却しなくてもとやかく言われることはない。

 デスクの上からカードを拾い上げた。プリマヴェーラの交換所で移植してやったクレジットが、まだ少し余っているはずだ。アリスは、使い残した分を返すつもりで置いて行ったのだろう。

 ブリッジの通信士席の端末なら、カードに書き込まれたデータが確認できる。残高を調べておこう。どこかの星の交換所で、また自分のカードに移し換えればいい。

 ジャンパーの胸ポケットにカードを入れた。

 我ながらあさましい男だ、とつくづく思った。

 船体が軽く揺れた。

 円形シールドに目をやった。ステーションの、メモリア号が停泊しているのとは反対側のピアユニットから、巨大な新鋭戦艦が飛び立ってゆくのが見えた。

 確かグレゴリーは〈ジョシュア〉と言っていた。

 アリスはあの艦で連れ去られたのだろう。モード変換の瞬間を探知するために、スパイダーのすぐそばへ行くのにちがいない。

 ジョシュアの進行方向とは反対側の空間にオーロラが浮かんでいた。だが、デオラⅨへ向かう途中で見かけたものとは様子が違う。まるで暴風のように荒れ狂っていた。デオラストームがすぐそこまで迫っているのだ。今度のオーロラは、美しくも優雅でもなく、ただ不気味なだけだった。

 シールドを正面から見据えた。冴えない男の顔がぼんやりと映った。髪はぼさぼさで、眼光に力はなく、頬には脂が浮き、顎には無精髭が目立つ。

 笑ってみた。シールドに映った顔も笑う。

 歪んだ笑いだ。

 とんだ道化だな、と思った。

 保護者気取りで必死になってプリマヴェーラから急行してきたのに、何の意味もなかった。両手を広げて待ち構えるグレゴリーの胸へ、いそいそと飛び込んでいっただけのことだ。

 さぞかし滑稽だったろう。

 ――バカ。おじさんの、バカ……。

 最後の言葉が耳にこびりついて離れない。

 船室を出た。

 ブリッジへの通路を歩きはじめた。相変わらず、足は重い。

 これ以上、考えるのはよそう。

 他に、どうしようもなかった。いかにも自分らしい結末だ。から回りばかりで、最後の最後は負け犬だ。

 モニクの時もそうだった。自分がいくら熱意を込めても、運命がそれを見透かしていたかのように、最後は台無しになる。

 しょせん無力でちっぽけな男だ。

 だから、自分にできる範囲のことだけをやればいい。それ以上のことを望むのはお門違いだ。

 ヒルベルトのもとへ送り届けてやる。アリスにはそう約束した。軍の手から守り抜いてやると約束したわけではない。

 約束は果たした。ヒルベルトがグレゴリーとともに罠を張っていたからといって、それは想定していた条件外のことだ。

 そもそも、本来は金をもらって物を運ぶのが仕事の運送業者が、無料で船を動かしたのだ。それ以上の注文など聞き入れてやる義理はないだろう。

 ヒルベルトとて、自分の養女は可愛いにちがいない。無理やり計画に協力させたとしても、それほど酷い扱いをするとは考えにくい。グレゴリーの計画は確かに非道だが、スパイダーを倒すというのはアリスにとっても宿願だったはずだ。

 エレベーターを降り、ブリッジへ入る。

 機関停止中のブリッジは静かで、暗くて、空気もひんやりしている。扉が閉じる音がやけに大きく響いて、余韻も長くたなびく。

 出発だ。

 宇宙ステーションと宇宙船の接合は、双方がドッキングユニットに解除信号を送れば外れる。ヒルベルトは、ジョシュアに乗り込む前にステーション側のユニットへの解除信号を送っておいたことだろう。あとは、こちらが同じことをすればいい。

 主操縦席に座り、解除信号を送った。小さな振動に続いて、がくんと大きな揺れが襲った。接合の解除を察知して、ガントリーアームが船体を解放したしるしだ。

 メモリア号は今、ステーションの傍らでふわふわと頼りなく浮遊している。アームから解放された時に加えられたわずかな外力が、慣性となってゆっくりと、本当にゆっくりと、メモリア号を押し出しているのだ。

 主機関の起動レバーを引く。

 エンジンに予備動力が注ぎ込まれるのを待って、起動レバーを下へ押し込む。核融合エンジンの反応炉が胎動をはじめる。

 いつもどおりの手順だ。

 操舵桿を握り、推力回路を開いたが、ふと思い出して手を止めた。

 左横を向いた。

 すまん、ジャイロを――と言いかけて、思いとどまった。

 副操縦席は無人だ。

 ――あたし、やる!

 アリスが嬉しそうに返事をする声が、聞こえるような気がした。顔を輝かせて位置制御ジャイロに飛びつく姿が、見えるような気がした。

 ため息とともに席を立った。

 今日から、また一人だ。

 いや、これで元どおりになったのだ。ほんの数日、ちょっと楽をさせてもらっただけのことだ。

 副操縦席に腰を降ろした。

 途端に、ジャイロの球形モニターが色鮮やかな緑の光を放った。

『自動操縦システム、初回起動です。チェック完了、オールグリーンです。自動操縦システム、初回起動です。チェック完了、オールグリーンです』

 航法コンピュータのアナウンスと同時に、核融合エンジンの駆動音とノズル噴射の感触が、船底から沸き上がってきた。

 動く。

 自動操縦システムが修理されている。

 デオラⅢの修理工の言葉が脳裏に閃いた。

 ――故障箇所が特定できれば、あとは簡単なんですがね。その部分のパーツを交換するだけですから、子どもでもできますよ。

 猛獣の襲撃から逃れでもするように、通信士席に踊り込んだ。

 胸ポケットに入れていた査証カードを端末のスロットに差し込む。

 ディスプレイに表示が出た。購買記録だ。

 プリマヴェーラ第二シティ、メカニカルパーツショップ〈リオ〉、航法コンピュータ用システムリレー二個、AIチップ一個、支払額九六〇〇クレジット――

 ブリッジ内のすべての計器やモニターが祝福を浴びせるように次々と灯り、作動音のコーラスを軽やかに奏で始めた。

 はっきりと思い出せる。

 別に面白くはないと言って、それでもメモリア号の修理を食い入るように見つめていたアリス。

 寄り道して買いたい物があるからと言って、小遣いをせがんだアリス。

 リサイクラーの調子がおかしいと言って、まるで見当外れな場所であるブリッジをうろうろしていたアリス。

 早く下船したくて気が急いているはずなのに、部屋の片づけをしたいと言って、ほんの短い時間だが一人でメモリア号に居残ったアリス。

 頭の中で血液が逆流した。どくんどくんと荒々しい音まで聞こえた。

 爪が食い込むほど固く両の拳を握り、目の前の端末を力任せに殴った。二度、三度。埃が舞い上がる。四度、五度。

 さらに一度。ぶち壊すぐらいに拳を叩きつけた。

 叩きつけたままの拳を睨んだ。震えている。腕が、肩が、背中が、全身が震えている。

「くそったれ!」

 思いきり怒鳴った。誰も聞く者はない。誰かに聞かせるつもりでもない。

 自分自身だけだ。

 主操縦席へ飛び移る。推力を上げてステーションから離れると同時に、艦内モニターを調べる。

 メモリア号には、衛星軌道と地上との往還用に造られた小型シャトルが格納されている。めったに使うこともない機体だが、整備状態は万全だとモニターが教えてくれた。

 レーダーを見る。ジョシュアはスパイダーからやや距離を置いて停止している。

 必要なデータをシャトルに転送した。

 よれよれのジャンパーの襟を直し、鳩尾までしか上げていなかったファスナーを首まで引き上げた。

 コンソールボックスからウエストバッグを取り出し、腰に巻きつけた。

 そして、立った。

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2025年12月13日 21:00
2025年12月20日 21:00

愚昧の国のアリス 飛鳥井駿 @shun_asukai

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