第三章 デオラⅣ軌道【1】

 真っ暗な宇宙空間の中では時間の感覚があやふやになってしまうが、メモリア号にもぐり込んでからすでに三十時間以上は経つ。

 ロンが煙たそうにするものだから、アリスは遠慮して、なるべく船室にいるようにしていた。

 デオラⅢの宇宙港から出港ときも、アリスは無理やり操縦に参加した。ロンは半分以上本気で怒っていたようだ。

 けれど、アリスは不思議に感じていた。

 ぞんざいな物言いをされればされるほど、安堵を深めてゆく自分がいる。

 それはきっと、ロンが自分を特別扱いしないからだろうと思う。

 ロンとアリスとは、お互いのことをぜんぜん知らない。貨物船の船長と、密航者でしかない。それ以前のつながりは、何もない。ロンがアリスを迷惑がるのは、ただ単に、迷惑であるからに過ぎない。

 アリスの生い立ちや今までの経緯をよく知っているがゆえに、気を遣って何でも思いどおりにさせてくれたヒルベルトの優しさや、似たもの同士であることを本能的に察知できるがゆえに、ささくれ立った感情ややり場のない衝動を隠そうともしなかったセンターのクラスメートたちの近親憎悪とは、違う。

 ロンにとってアリスは、ただの扱いにくい小娘でしかない。

 だから、できれば、そのままでいたかった。

 デオラⅢの修理工場で、「どうして故障箇所が分かったのか」とロンに聞かれたとき、アリスはごまかすのに必死だった。ほんとうのことが知られたら、もうただの小娘としては見てもらえないだろう。

 だったら、故障箇所を言い当てることなどしなければよかったのだが、もうひとつ別の心配がある。

 軍が追って来たら。

 古ぼけたこの船では、逃げ切れるかどうかあやしい。せめて、エンジンなどを万全の状態にしておかなければ。

 だから、三つの不快感の正体をなんとか探り当てて、修理工に伝えたのだった。

 今はスムーズに航行している……。

 アリスはペンダントのダイヤルを緩めた。

 もうほとんど十分おきぐらいに、こうやって確認している。今まで、何度確認しても同じだった。聞こえる範囲に、軍は来ていない。

 今度も――

 血の気が引いた。

 来ている。

 明らかに、こちらへ向かって近づいてきている。

 見つかった?

 ダイヤルを戻し、船室を出た。

 駆け足でブリッジへ向かう。

「おじさん!」

 飛び込みざま、アリスは叫んだ。

 ロンは主操縦席にふんぞり返って、携帯型のニュースビューアで雑誌を読んでいた。修理工場のゴミ箱からメモリカードを拾ってきたのだ。二十日も前に発行されたカードで、書き込まれているニュースはもう古いものなのに、ロンは別に気にならないらしい。

「うるさいな。騒がしいぞ。それから、何度も言わせるな。俺は」

「ちがうの! あの……」

 なんて言おう。「あたしを追って軍が迫ってきてるから全速で逃げて」とでも? 奇異の目で見られるだろう。説明を求められたらどうしよう? どうして追われているのか、自分でもわかっていないというのに? そもそも、いま近くまで来ているのが自分を追跡している連中だという保証もない。

「怖い夢でも見たか?」

 ロンはからかい気味に言い、ビューアに注意を戻した。

 努めて平静を装い、アリスはロンに近寄った。

「いま、どのあたり?」

 ごく自然に質問する。ロンは航宙図に目をやって答える。

「デオラⅣの公転軌道の手前だな」

「ふうん」

 アリスが頷くと、会話は終わってしまった。

 ちがう。こんなことをしている場合じゃない。

「まだ、何か用か?」

 ロンが訝しげに問う。

 アリスは観念した。

「おじさん、軍に追われたこと、ある?」

「はあ?」

 ロンが素っ頓狂な声を上げた。

 アリスはダイヤルを緩めた。

 間違いない。近づいてくる。

「なんでそんなことを聞く?」

「レーダーに、何か映ってない?」

「何かって、何がだ」

「いいから見て!」

 ほとんど泣きそうになりながらアリスが言うと、ロンは「調子悪いんだよな」とぶつぶつ呟きながらコンソールに向き直り、レーダーの精度を調節した。

 そして、声を荒らげた。

「後ろから何か来てるぞ」

 やおらアリスを睨みつける。

「どうしてわかった?」

「どうして、って……なんとなく」

「軍か?」

「うん。たぶん」

 次にロンが言うことは予測がついた。軍に追われるなんて、おまえいったい何をしたんだ? そう聞かれるだろう。

 右手でペンダントをぎゅっと握り締めた。じとっ、と汗がぬめった。

 しかし、予測は外れた。

「くそっ。やっぱりか」

 ロンはいまいましげに吐き捨てると。ビューアをコンソールに叩きつけた。

「飛ばすぞ。つかまってろ」

「え?」

「振り切る。ぼさっと突っ立ってるんじゃない。ここにいるんなら席に着いてハーネスをつけろ。でなきゃ、部屋へ戻ってエアタイトしておけ」

「ここにいる」

 副操縦席に飛びついて、言われたとおりハーネスをロックした。

 ロックしながら、素早く考えをめぐらせた。

 ロンには、何か後ろ暗いところがあるのではないか。今のはまるで、軍が追ってくるのを前もって予想していたような言い草だった。

 そういえば、デオラⅢの宇宙港でも、軍のことを気にかけていたような記憶がある。

 もしかしたら、コンスエロを出発するときに、ロン自身が軍との間に何かトラブルを起こしたのかもしれない。後部船倉にいたとき耳にした大きな衝撃音も、トラブルに関係しているのではないだろうか。

 あるいは、事態はもっと単純で、ロンは真っ当な運送業者ではなく、非合法な荷物だとか、密輸品だとか、そんなものに手を染めているということだって考えられる。

 見よう見真似で、アリスは副操縦席のモニターにレーダーのデータを呼び出した。

 光点がものすごい勢いで近づいてくる。

 それを見ながら、アリスはペンダントを緩め、耳を澄ませた。

 相手は、一隻だ。

 メモリア号とおなじ動力を使っているが、電子加速サーキットの回転数は向こうのほうが圧倒的に多い。それだけスピードが出るということだ。磁力発生コイルの出力も大きい。最新型の艦なのだろう。

「あ」

 さらに深く聞き取ろうとしたアリスは、まだ真新しい記憶の中にある〈音〉を耳にした。この小さな小さな感触は、コンスエロシティ貨物港の収集ボックスで聞いた、パルスガンのジェネレーターの振動だ。わずかな出力ムラがある。同じ銃に間違いない。

 追ってきたのは、あの――と言っても姿は見ていないが――クローレとかいう名前の女大尉らしい。

「揺れるぞ!」

 ロンの怒鳴り声。

「なにするの?」

「核融合エンジンも一緒に使う。アフターバーナー代わりにはなるだろ。長時間は持たないが」

 惑星の重力圏内用のエンジンを、無限加速電子エンジンと同時に動かすという。

 ロンは起動レバーを操作した。

 途端に、アリスの頭に激痛が走った。

「おじさん、ダメ! ふたついっぺんに動かしたら、壊れちゃう!」

「どうしてわかる!」

「わかるから、わかるの!」

「だから、どうしてだ」

 そこへ、二人の押し問答に通信機のブザーが割り込んできた。

『メモリア号、応答せよ』

 よく響くアルトの声。クローレ大尉だ。

「しつこい女だ。根に持ってやがるな」

 ロンが情けない声で言いながら、フロントシールドを操作した。偏光スクリーンが不透明になり、シールドは光学センサーのモニター画面に早がわりする。

 小ぶりだが足が速そうな軍用艦の姿が浮かび上がった。同時に、クローレ大尉が言葉を続ける。

『本艦はデオラ宇宙軍コンスエロ直轄師団の巡視艦〈レビ〉、自分は警務隊第一小隊長、シンディ・クローレ大尉だ。ただちに停船せよ。さもなくば砲撃する』

 ロン自身が軍と問題を起こしたという想像は、ほぼ間違いないらしい。

「おじさん、いったい何したの?」

「スピード違反だ」

 むくれた顔で吐き捨てる。

「まさか。この船で?」

「勘違いするな。遅すぎたんだ」

 ロンは通信機のスイッチを入れた。

「クローレ大尉、停船命令の根拠は何か。デオラ航宙法第二十八条に基づいて説明を要求する」

『ロナルド・シーカー船長、冷静に答えろ。きさまがわれわれの探し物を素直に供出しさえすれば、きさま本人には何も含むところはない』

「本船の積載物は、〈トロメア・ファルマ〉社の新薬サンプルだけだ。乗員は俺ひとり。航行計画も当局への申請どおりだ」

『これ以上、虚偽の言辞を弄するなら、やむを得ない』

 スクリーンを見ると、巡視艦レビの甲板に二連装の砲塔が現れた。

「いかん、本気だ」

 ロンがうめいた。

 直後、スクリーン全体がオレンジ色に染まった。砲撃だ。

 ほとんど同時に、左のサイドシールドの向こうで、黒い空間を真っ二つに切り裂くようにエネルギーブレットの光跡が走り抜けた。

『繰り返す。停船せよ。無駄な抵抗はするな。きさまが隠匿しているのは分かっている』

 クローレ大尉の口ぶりが、妙に優しいものに変わった。

「最後通牒ってわけか」

 ロンは言い、操舵桿から手を放して、両方の手のひらを自分に向けて見つめた。

 寂しげな表情だった。

 まるで、指のすき間から思い出がこぼれ落ちてゆくのを止められなくて、涙を必死にこらえているように見えた。

 自分とこんなに年の離れた男が、こんなに寂しそうな顔をすることがあるのを、アリスは初めて知った。

 しかし、それも長くは続かなかった。クローレ大尉が、決定的な言葉を吐いたからだ。

『即刻、アリシア・ローゼンバーグをわれわれに引き渡せ。そうすれば、危害は加えないと約束する』

 小刻みに震えていたロンの手が、その瞬間、凍りついたように静止した。

「あ……」

 アリスは、およそ場にそぐわない間抜けな声を出した。

 とぅーん……とぅーん……

 レーダーの作動音だけが、気まずそうにブリッジの中を漂った。

 その音をかきわけるように、ゆっくりとロンがアリスのほうを向いた。

「おい」

「え」

「自分の名前を言ってみろ」

「アリス」

「全部だ!」

 稲妻みたいな怒鳴り声に、アリスは肩をすくめ、目をつぶって、小さく答えた。

「アリシア・ローゼンバーグ」

「なんてこった……奴らの探し物ってのは、やっぱりおまえだったのか」

 ロンは両手で顔を覆い、指の間から目を覗かせてアリスを見た。

「疫病神め」

 冷たい目だ。

 引き渡される?

「でも、でも」

 アリスは必死に訴えた。

「どうしてだかわかんない。なんにもしてないのに、追っかけられてるんだもん」

「俺の知ったことか」

「おじさん! じゃない、船長さん! 助けて、お願い! お願いお願いお願い」

「ムチャ言うな。厄介ごとはゴメンだ」

『シーカー船長』

 クローレ大尉が呼びかける。

『今から、本艦の主砲塔をメモリア号にロックする。一分だけ待とう。明確な意思表示をしてほしい』

 アリスもロンも、反射的にスクリーンを見た。クローレ大尉の艦の砲塔が回転し、真正面にメモリア号を見据えた。砲身の奥の尾栓まで見通せそうなほど、真っ直ぐに。

 あと一分。

 アリスは、あることに気づいた。

 ロンはじっと睨みつづけている。

 二人は同時に口を開いた。

「待って!」

「待てよ」

 そして同時に口を閉ざした。

 判断が早かったのはロンだった。

「時間がない。先に言え」

 アリスは頷き、舌を噛みそうになりながら、必死で訴えた。

「あの船、ぜったい、撃たない。撃つつもりないもん」

「なんでわかる?」

「だから、わかるから、わかるの!」

 両目に力をいっぱい込めて、ロンを見た。

 理由は言えないけれど、信じてほしい。

 どうか、伝わって!

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