昔からチャレンジ精神旺盛なんだ


「これどうしたらいいの?」


 幼い頃の記憶。


「仁志の思うようにやってみな」


 俺の親父は簡単なことを子供の俺に詳しく説明しないことが多かった。


 当時は説明するのが面倒なんだろうなと思っていたが、この歳になって振り返ると、自分で見て、触って、考えることを大切にしていたのだと思う。


 悪くない教育方針ではある。完全に放任主義だったというわけではなく、危険を伴うようなことは俺一人でさせなかった。


 お陰で良くも悪くも俺はチャレンジ精神旺盛に育った。


 さて、死後の世界は存在するのか。人類普遍の疑問である。地球上の誰にも分からない。なんせ死んだことがないから。


 中学の頃にしつこく死後の世界はあると思うか意見を聞いてくるやつがいた。あまりにしつこかったので俺は


「そんなに気になるなら死んでみろよ」


 と言い返した。素直な本心だった。

 俺としては、


「あの山の向こう側には何があるんだろう?」


 なんて言ってる奴に


「行ってみりゃわかるさ」


 と返したつもりだった。


 しかしその日のうちに俺は生徒指導室に呼び出されることになった。人に「死ね」なんて言っちゃいけないと指導された。そんなこと言ったつもりはなかったのに。


 どうして今俺はこんなことを思い出しているんだろう。その理由は単純明快、俺が死後の世界に来たもとい死んだ可能性があるからだ。


 俺は放課後の学校の廊下に立っている。どこかから吹奏楽部の練習が聞こえる。用事があるのかまだ下校していない男子生徒がこちらに向かって歩いてくる。


 俺はその男子生徒の目の前に急に立ちはだかり道を塞いだ。しかし彼は俺とぶつかりそうなことに気づかず歩いてくる。



 そして、彼は俺の体を——すり抜けた。



 どうやら俺の姿は誰にも見えていないらしい。


 どうやら俺の体は誰にも触れられないらしい。



 ひょっとすると夢を見ているのかもしれないとも思ったが俺は夢の中で夢だと気づくと百発百中で起きられるのでどうやら夢でもない。意識も夢を見ている時ほどぼんやりしておらず、むしろはっきりしている。


 ならやはり、死んだか。


 一週間前に事故で頭を打ち、そして今日また頭を打って死んだのか俺は。


 自縛霊的存在になったのだろうか。


 死んで帰ってきた人間がいないから証明しようがない。


 天国なんて存在しなくて、死後待っているのはこういう永遠の孤独なのか。


 だとしたら、さすがに人類に救いがなさすぎるだろう。それか俺は天国ではなく地獄行きになったのかもしれない。


 …………とりあえず女子更衣室でも覗きに行ってみるか?





 廊下を彷徨っていて気づいたが俺はどうやら人だけでなく物にも触れられないらしい。すり抜けてしまう。


 幽霊疑惑が加速した。壁もすり抜けられる。しかしなぜ床はすり抜けないんだろう。今二階にいるのに。


 なんて考えて地面にダイブしてみるとすり抜けた。あまりにも非現実的すぎて頭が痛くなってくる。



 そして俺は美術室に落っこちた。


 

 そのまま地面もすり抜けて地球の中に落ちなくてよかった。我ながらチャレンジ精神旺盛すぎて、後から困ることが多い。


 美術室の後ろの方で女子生徒がスケッチブックに鉛筆を走らせていた。見たことある顔……昨日の放課後に教室で話した山なんとかさんだった。美術部らしい。



「なぁ聞いてくれ。俺死んじまったかもしれねーんだよ」


 山なんとかさんに話しかける。が、無視される。見えてないから当然。スカート覗いてみようかなとも思ったがそういう趣味は持ち合わせていないのでやめた。


 山なんとかさんは真剣な眼差しでスケッチブックに机の上の木彫りの熊をデッサンしている。俺の姿が見えていたとしても無視しそうなくらい集中していた。


 ふと美術室の後ろの壁に貼られた大きな絵に気づいた。異様な存在感を放つ絵。水彩画、だと思う。絵に関する知識がないからわからない。……どこかで見たことある気がする絵だ。


 おそらくこの絵のモデルはウユニ塩湖だろう。何も知らない俺が見てそう分かるくらいイメージのはっきりした絵。相当上手い。


 ウユニ塩湖……南米ボリビアに存在する広大な塩の大地。そこには、いくつかの気象条件が揃った時のみ出現する天空の鏡と呼ばれるものがあるらしい。塩湖と呼ばれる平らな塩の大地は、水が薄く張るとまるで一枚の巨大な鏡のように姿を変えるという。


 絵には薄青の空と対流圏界面に達しそうなほど巨大な積乱雲、そしてそれらがぼやけて映った鏡の大地、その中央に机が描かれていた。そう机。日本の学校の一般的な学習机。……一体なぜ?


 重ねて言うが相当上手い絵だと思う。白色が主要な色として大部分を占めているのにも関わらずすっと景色が入ってくる。


 一瞬天と地の境がなくなってしまったように見えるが、空の雲と地面に映った雲と塩の白がしっかりと描き分けられていて、地平線の存在が伝わってくる。天と地が決して交わることのない存在であることを表現してるみたいだ。相当うまい。


 積乱雲は上部ほど太陽光をはね返し白く輝きながら影は青く、暗い雲底はこれから訪れる嵐を予感させる色をしている。幻想的ですらある。


 だが、その感動を打ち消すほど場違いものが一つしっかりと大きく描かれている。机だ。


 理解ができない。鏡の大地だけで十分誰からも評価されそうな絵なのに。何を伝えたいのだろう。物語はこの絵を見た人に委ねる、といったところだろうか。


 この机は誰が持ってきたんだろう、とか。


 この机は椅子が来るのを待ってるんだ、とか。


 この机が水面に波紋を作り出すことで空と大地の境目を保っているんだ、とか。


 色々議論できそうだ。なかなか面白い。誰が書いたんだろう。


 しばらくその絵を鑑賞して、山なんとかさんに一方的に会釈してから美術室を出た。





 一度屋上に戻ってみることにした。


 俺があの時屋上で頭を打って死んで、魂が学校を彷徨っているのだとすれば俺の死体が屋上にあるはずだ。


 さっきは気が動転して気づかなかっただけかもしれない。あるいはあの女子生徒が隠したのかもしれないが、華奢な彼女が俺を背負い階段を降りれるとは思えない。


 ……死体がなければ、希望が持てる。俺が死んだのではなくもっと別のなにかが起きているという仮説に信憑性が生まれる。



 屋上へと続く階段を登っていく。


 そうだ、第一死んで魂だけになったとして服を着ているのはおかしいんじゃないか。


 そもそも魂ってなんなんだ。俺たちの意識は脳内にあるんじゃないのか。あるいは心に。



 屋上の鉄扉の前にたどり着いた。


 ドアノブを握ろうとするとやはりすり抜けたので鉄扉に頭をぶつけるように俺は一歩踏み出した。


 屋上にはあの机が静かに佇んでいる。


 周りを見渡しても俺の死体はない。


 もう一度机を覗いてみるとまたしても中に空が満たされていた。訳がわからない。あり得ない光景に脳が拒否反応を起こしそうになる。


 あの時は、女子生徒に後ろから押されてこの空に触れたんだ。


——そしてこの状況に至った。


 逆順を試す、なんて程のことですらない。ネジを外してから部品をバラしたなら部品を組み合わせてネジをつければ元通りになる、みたいな単純な話だ。


 俺は迷わずに机の中に腕を突っ込んだ。


 昔からチャレンジ精神旺盛なんだ。





「あっよかった、帰ってきた」


 あの女子生徒の声が聞こえて我に返った。


 なんだか、ずっと前からここでぼーっと突っ立っていた気がするのにさっき来たばかりだという感覚もする。俺は屋上でぼんやりと立ち尽くしていた。


「見えるのか、俺のこと」


「安心してください、ちゃんと見えてますよ」


「生きてる?死んでない?俺」


「ええ、大丈夫ですよ」


「〜〜〜〜うおおおおっ!!!!」


 大丈夫、という彼女の言葉に俺は柄にもなく大声を上げた。


 心の底から出た叫びだった。


 俺は死んでなどいなかった。


 俺は生きている。



 心臓が強く早く胸を叩いているのを感じてなおさら生きている実感が湧いた。


 事故に遭ったあと病院のベッドで目覚めた時ですらこんな感情は抱かなかった。


「うわーよかったぁ!!!」


「他人から自分を認識されなくなって死んだと思ったんですか」


 空を仰いでガッツポーズを取る俺に女子生徒が言った。


「えっ、うん」


「おもしろい人ですね」


 おもしろい人ですね?


「他人から認知されなくなって自分が死んだんじゃないかと思うことの何がおもしろいんだ?」


 ちょっとイラッときて語調が強くなった。そもそもこの女子生徒に押されたせいで俺はあの状況に至ったのだ。


「だって普通は自分が透明人間になったんじゃないかって思いますよ」


 ……確かにその通りかもしれない。俺には医者に言われた言葉があったから、その先入観で死んでしまったと思ったが、普通の人間なら自分が透明になったと思う……のか。


 というか透明人間になるってなんなんだ。そもそもそれもおかしいだろ。

 件の机の方を見るとやはり机の中に空がある。


「なんなんだこれ。さっき試してみます?って言ったよな」


「実はわたしにもよくわかりません」


「え、よくわからないものを人に試させたのか?」


「百聞は一見に如かずと言いますし、説明しても信じられない事象じゃないですか」


「一見の前に一聞くらいはあってもよかったんじゃないか?」


 だってあんな……誰からも認知されず体が壁や床をすり抜けるようになるなんて。せめて何か説明してくれれば死んだような思いしなくて済んだ。


「よくわからないといってもどんなことが起きるかは知ってたんだろ?」


「うぅ……それについてはすみませんでした」


「で、どうして俺にこいつを試させたんだ?」


「……初めて屋上で人と会ったからです。多分この机に気づいたの、この学校でわたしだけで、わたしも訳わかんなくて、頭おかしくなっちゃったのかなって思ってそれで誰か他の人にも試してもらおうと思ったけどこんなこと話せる友達いなくって……」


 彼女は俯きがちに言った。


 この机についてよくわからないということは彼女も被害者なのだ。彼女はたった一人でこの事象に遭遇した。それも一年生の五月に。その心細さは想像に難くない。俺は一時の憤りで説教するような言葉を投げかけてしまったことを後悔した。


「……まぁ事情はわかった。問い詰めるようなこと言って悪かった」


「いえ……わたしが説明不足だったのは事実ですから」


「……じゃあ俺は帰るから。机のことは教師にでも報告しなー」


 この机にはあまり関わらない方がいい気がした。


「待ってください!」


「な、なに」


「手伝って欲しいことがあるんです」


 どうして俺に?と聞き返そうと思ったが彼女が言った「こんなこと話せる友達いなくって」という言葉を思い出して聞き返さないことにした。その気持ちは俺にも分かる。そして初対面の俺を頼ろうとするくらいだ。事情も聞かずに帰るのはいくらなんでも冷たすぎる。


「何を手伝ってほしいんだ?」


 彼女は一息置いてから意を決したように言った。


「ある、事件についての調査を手伝って欲しいんです」





 てっきりこの机がなんなのか解き明かすのを手伝え的なことを言われるかと思った。


「ある事件?」


「はい、事件です」


 そう言って彼女は探偵に依頼するみたいに事件の概要を説明し始めた。


 昨日、その事件は起きました。この学校の焼却炉が無断使用されたんです。それはご存じですよね。その件についてです。何が燃やされたか教師は説明しなかったと思うんですが燃やされたのは新聞部が作った新聞だったんです。昨日から職員室の前の机に何枚も重ねて置かれていた新聞部の新聞が昨日のうちに全て持ち去られて校舎裏の焼却炉で燃やされた。それが事件の概要です。その事件について調査を手伝ってほしいんです。


「……どうして燃えたのが新聞だとわかったんだ?」


「おっと、いきなり『犯人は依頼主だったパターン』を攻めてきましたね」


 なんだそれ。普通に、そんな説明教師はしなかったから聞いたつもりだったのだが。


「たしかに新聞は燃えてしまうともう新聞だったかどうかもわからなくなってしまいます。燃やされたものを知っているのは犯人だけなのでは?と思うのも当然です。展開としてはおもしろそうです。ではなぜ、わたしは燃やされたのが新聞だと知っているのか」


 急に饒舌になった。推理小説とか好きなのかもしれない。他の生徒は知らない燃やされた物を知っているこの女子生徒は推理小説ならキーパーソンといったところか。


「それは職員室で先生たちが話してるのを聞いただけです」


「あ、そう」


 拍子抜け。偶然耳にしただけだった。


「教師たちはどうしてその情報を公開しなかったんだろうな」


「それはその行為に悪意があるからだと思います。そしてそれはわたしが調査をしようという考えに至った理由でもあります」


「悪意……」


 悪意と決めつけていいのかはわからないが新聞を燃やすという行為は少なくともなにかしら意思あっての行動だろう。


 新聞を焼却炉で燃やすためには計画的にわざわざ火をつける道具を用意する必要がある。犯人にとっては新聞を持ち去るだけではダメだったのだ。その場で破くとかでもダメだった。「新聞部の新聞」を「焼却炉で燃やす」のが犯人の目的だった。そう考えるとどうやら単なる愉快犯ではないようだ。


「じゃあ君はその悪意を暴きたいのか」


「その通りです」


 正義の味方ってわけだ。


「事情はわかった。が……」


 確かに気になる事件だ。校内にそんな奴がいるってのも少し気味が悪い。だが……それは一介の生徒が暴いていいものなのだろうか?


「一晩、考えさせてくれ」


「……わかりました」


「明日の放課後にここで、いいか?」


「はい」


「名前を聞いてなかったな」


「すみれ、と呼んでください」


「村瀬仁志だ」


 漫画みたいな会話だ、と思った。


 空はいつの間にかさっき西に見えた灰色がかった雲が半分以上を覆われていた。夕日は西の遠くに見える名も知らぬ山の向こうに沈もうとしていた。

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