第25話 大切な人
祭りの余韻が、部屋の中にまだ残っている。
エアコンの緩やかな風と、屋台で買ったわたあめの甘い匂い。
そして、隣にいる浴衣姿の奈央。
「……着替えないのか?」
俺は、ふと問いかけた。
「まだ終わってないから」
奈央はそう答えて、窓の方を見つめる。
その瞬間、遠くから花火の音が聞こえた。
「もしかして……」
「見えるかも」
二人でベランダへ出る。
夜の空はすでに深く、夏の夜の空気は少し冷め始めている。
狭いベランダで寄り添うように立つと、奈央の腕がそっと触れてほんのりと体温が伝わってくる。
花火の音がまた鳴る。
けれど、見えるのは高層ビルの隙間からの、ほんの小さな閃光だけ。
「……見えないな」
「うん。でも、音だけでも夏っぽい」
二人並んで音を聞くだけの、静かな時間。
そのとき――目に入った。
ベランダの端に飾られた、七夕の笹。
風に揺れる短冊が、カサリと音を立てる。
「あー……そういえば、お前の願い事ってなんだったんだ?」
俺が問うと、奈央は黙ったまま、視線を外す。
「奈央?」
「どうしようかな」
「……なにが?」
「言おうかな? やめよかな?」
「は? なんだよ、それ」
くすっと、奈央が小さく笑う。
「気になる?」
その言い方が、妙にずるい。
俺は思わず、少しだけ息を呑む。そして言う。
「……気になる」
奈央は、ゆっくりと口を開いた。
「そっか。でも、私の願いが叶うと、結斗の願いが叶わなくなる」
一瞬、心臓が跳ねた。
俺の願い事は、【今みたいな日々が、できればもう少し続きますように】だった。
それが叶わなくなるってことは、この日々が終わるってことなのか。
そんなのは……嫌だ。だけど……
「……どういうこと?」
覚悟を決めて、俺は聞いた。
奈央はゆっくりとこちらを見つめた。
「私の願い事、叶えてくれる?」
そう言いながら、七瀬は隠して付けていた短冊を笹から外して胸に抱いた。
ずっと、隠していたもの。見ないでと言われたから見ていないもの。
俺は少しだけ躊躇して、けれど目をそらさずに答えた。
「……俺にできることなら」
「ん……」
奈央は、そっとその短冊を俺に差し出した。
手に取る。
そこには、丸い文字で、こう書かれていた。
【結斗が私の大切な人になってくれますように】
言葉が、出なかった。
息すら、うまく吸えなかった。
心臓が、うるさいほどに鳴っていた。
「……え、これ……」
やっとのことで絞り出した声が、情けないほど震えていた。
「あーあ、見ちゃった」
七瀬は、小さく目を伏せて、言葉を紡ぐ。
「好きすぎて、神頼みしちゃった」
言葉が胸に響いて、痛くて、温かくて――
「七夕の夜にリア充の真似事をするなんて……。んー、私らしくない。ちょっと恥ずかしい」
溢れた。
「俺の願い事はこれでもう叶わないな。今まで以上の日々になっちまう」
気付けば、俺は奈央の手を取っていた。
「え?」
奈央は一瞬、きょとんとした顔をして、それから目を潤ませて、ほんの少し、唇を震わせて――
「……バカ。言うの遅い」
そう言って、俺の胸に顔を押し付けてきた。
浴衣の香りが、鼻をくすぐる。
俺はその小さな背を、そっと抱きしめた。
「暑いよ」
「我慢しろ」
「後でアイスね」
「もうある。奈央が好きなやつ」
「ん、さすが」
「大切な人のためだからな」
「…………もっと暑くなった。バカ」
外では、遠くでまた花火の音が鳴っていた。
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