第2話🇫🇷ボンジュールじゃ足りなくて🇫🇷

あれから、何週間かが過ぎた。

ハインリヒの一件が片付いてからというもの、変な霊に出くわすのが“週一ペース”で日常に食い込んできた。


最近はなんとなく、“予習”みたいな気分で他の言語にも触れている。

英語の次は何が来るかわからないし。

そんな中で、フランス語は……なんか単語の響きがきれいで、気になった。


妙なのに出くわす生活にも、なんとなく慣れてきた。


カフェの窓が曇っていた。まだ十月なのに、妙に湿気が重い。


「ボンジュール……」


小さく声に出してみた。

持っていたのは、語学会話のフランス語入門書。

まるでドラマのワンシーンみたいな、挨拶の定番。


──けど、その瞬間だった。


窓の曇りに、指でなぞったような文字が浮かんだ。


Je suis ici。 ──私はここにいる。


手は触れていない。

誰もいない。

俺の指はページに置かれたままだ。


……なんだこれ。まさか、また?


語学教室の先生、"霊能バイリンガールきみえ"に即メッセージを送ると、すぐに返事が来た。


「フランス語? あ〜……それ、めんどいやつかも」


「めんどいやつって……」


次のレッスンの日。

教室で会ったきみえは、顔をしかめながらハーブティーを啜っていた。


「いや、ほら、フランス語の霊って繊細なんだよね。通じないと、すぐ拗ねるし」


「拗ねる霊……」


「英語の霊みたいに“イエー!”ってノリじゃ来ないの。静かにじわ〜って来て、通じなかったら“ふん”って背けて、黙って消える」


めんどくせえ。


「けどね、ちゃんと通じたときは……すごいよ」

きみえが、カップを見つめながら言った。


「言葉の重さが、ぜんぶ残ってるから。ひとつひとつに、想いが沈んでる感じ」


「じゃあ……通じるようになるには?」


「んー……ちゃんと、心で開くこと。音だけじゃなくて、心ね」


その夜、もう一度カフェに寄った。

閉店間際、曇った窓の前に立つ。


「Je suis désolé……ごめんなさい」


俺は、震える声でつぶやいた。

返事は、なかった。


──でも、その夜、夢を見た。


古い教室。

薄暗い窓辺。

ひとりの女性が、フランス語で小さく何かを話していた。

誰にも届かないような、やさしく乾いた声。

黒板には「セリーヌ・ミズホ」という名前が書かれていた。


「見つけたよ」

翌朝、教室できみえに言った。


「昔ここにあった語学教室で、フランス語の先生が……亡くなってた。たぶん、ひとりで」


「……やっぱり」

きみえがそっと目を閉じた。


「今から、行こっか」


「え?今から?」


「その人の、声が残ってる場所。たぶん、まだ話したがってる」


現地は、今は誰も使っていないテナントビルの二階だった。

フロアの奥に、昔教室だったと思しき部屋が残っていた。

看板ももう外されている。


曇ったガラス。

静かな空気。

ほんのりと、ラベンダーの香りが残っていた。


線香を立てたあと、俺は小さく声を出す。


「Je vous entends……聞こえてます?」


すると──


ふわりと、空気が揺れた。


姿が現れたのは、若い女性。 淡いベージュのスカーフ、肩までの髪。

けれど顔は少しだけ曇っている。

口元が動いた。


「……Je voulais juste parler avec quelqu’un」 (誰かと、話したかっただけ)


俺の胸に、ひんやりしたものが落ちた。


「ありがとう、伝わったよ……」


その言葉に、彼女は微笑み、静かにその場を離れ── 朝の光に、ゆっくりと溶けていった。


きみえと俺は、しばらく無言で立ち尽くしていた。

香の煙が、まっすぐに立ち上る。


「言葉って、心に残るんだね」

俺がつぶやくと、きみえが、ぼそっと言った。


「うん……残るんだよ。ちゃんと、言えなかった時ほど、特にね」


「……きみえさんも?」


少しの間。きみえは静かに笑った。


「……わたしもさ、伝えたかったのに、間に合わなかったこと、あってね」


返す言葉が見つからなかった。


「んー……まあ、その話はまたいつか。いいワインとか開けたときにでも」


「その時は奢らせてもらいますよ」


その横顔は明るかったけど、ほんの一瞬だけ、光が揺れたように見えた。


帰り道、きみえが言った。

「フランス語の霊ってさ、“通じない”と泣くの。心で、ね。静かに」


「……聞こえてたのかな、最後」


「うん、聞こえてた。ちゃんと通じてた。だから、さよなら、できたんだよ」


耳の奥で、最後の声が響いた。


Merci…… pas pour le mot, mais pour le cœur。 (ありがとう……言葉じゃなく、気持ちに)


俺は、深く息を吐いた。

言葉ってのは、声だけじゃなくて、心に残るものだ。


……そして、心の中で、もうひとつだけ言葉を返した。


「Au revoir──またね」


先に歩くきみえの背中を追いかけた。

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