霊能バイリンガールきみえ

第１話🇩🇪発音に厳しいドイツ人🇩🇪

転職してから、時間だけは増えた。

朝はちゃんと起きて、定時で仕事を終えて、夜にはまっすぐ家に帰る。

晩メシはコンビニ、風呂入って、ビール飲んで、寝る。

…それだけ。

誰とも話さず、一言も発さずに一日が終わることも増えた。

「なんか、生きてるだけの人間になってないか？」

スマホを見てたとき、ふとそんな言葉が脳裏によぎった。

そのタイミングで出てきたのが、駅前の語学スクールの広告だった。

“ゆるく学べる社会人クラス”──って書いてある。

たぶん運命、とまでは思わなかったけど、何か始めるにはちょうどいいくらいの気分だった。

スクールは雑居ビルの3階。

1階は鍵屋、2階は税理士事務所。

ちょっと裏感が強いというか、言っちゃ悪いが場末っぽい。

でも内装は綺麗だったし、事務的な雰囲気もなくて、まあ悪くなかった。

ただ、ドアを開けた瞬間──

「はーい！ ウェルカム鈴木さーん！」

想像の十倍明るい声で迎えられた。

「えっ？」

「わたし、きみえっていいまーす！ 今日から鈴木さんのティーチャーね！よろしくぅ〜！」

出てきたのは、白のタートルネックにジーンズ姿の若い女性。 服装は地味なのに、テンションは派手。

くるんと巻いた栗色の髪と、なんとも言えない“陽”のオーラがすごい。

明らかにこっちの気合いを上回ってる。

「あ、はい。鈴木です、今日からよろしくお願いします……」

「うんうん、えらいえらい、ちゃんと声出てるね～！ 　英語ってね、発音より自信と口角だから！」

そう言って、バチンと指を鳴らした。

「……」

「ところでさ、今日ひとり多いわ。うしろに」

「え？」

「いや、だから〜、今そこにひとり立ってるの。 　でもね、英語圏じゃないっぽい。

発音がこう……ギリシャ？ いや、イタリア寄り？」

何を言ってんのこの人。

目線が、さっきから俺のちょい後ろあたりをうろうろしてるのが地味に怖い。

「……そういう冗談って、毎回言う感じなんですか？」

「冗談って思う？　あ～、鈴木さんって感性クローズ型だ～、おしいなぁ！」

そう言って、目の前でまた指をパチンと鳴らされた。なんなんだこの人。

初回のレッスンは、簡単な自己紹介とアルファベットの発音チェック。

彼女──きみえ先生は、発音も流暢で教え方もスムーズだった。

アメリカ生まれのアメリカ育ちらしく、例文に出てくる名前が「ケイシー」だの「ブレイディ」だの、いちいち海外ドラマっぽい。

雑談中に、ふと話題が変わった。

「てかさ〜、あたし日本に帰ってきた瞬間から霊感ついたんだよね〜」

「……はい？」

「アメリカにいる間はまったくなかったのに、日本の地を踏んだ瞬間──バチッて」

「バチッて……？」

「たぶんさ、あたしの中に眠ってた日本人の血が、“この土に合図された”って感じ。 　それで目が覚めちゃったの。“聞こえる耳”が」

まるでアニメの覚醒イベントみたいに言ってるが、本人はめっちゃ真顔だった。

「湿気も関係あると思うけどね〜。アメリカ、基本カラッとしてるし。 日本って霊、めっちゃ溜まってんのよ。あたし、そういうのに好かれやすい体質だから」

「そ、そうですか……」

「でも、英語で話しかけてくる幽霊はまだマシよ？ 　こないだなんてフランス語だったから、めんどくてスルーしちゃった。ボンジュールで済む問題じゃなかったし」

「……」

なに言ってんだこの人。しかもそれ、“幽霊対応めんどい”みたいなテンションで話すことか？

「じゃ、また来週ねー！ 気をつけて帰ってねー！ 　鈴木さん、なんか吸われてる感じしたら早めに来てね！」

「……はあ」

ドアを閉めるとき、なんとなく気になってもう一度教室を振り返った。

きみえはまだ手を振っていた。

その後ろに、ふと人影のようなものが揺れた気がしたけど──見間違いだと思うことにした。

二回目のレッスン。

今日は俺と、もう一人新しい男性生徒がいた。 営業職っぽい若い男で、ノリも軽くて話しやすそうな感じだった。

「よろしくお願いしまーす！」と、彼はきみえに向かって爽やかに頭を下げた。

「はーい、元気でよろし！ 今日も賑やかだね〜」

教室は、なぜかじんわり湿っている感じがした。エアコンはついてるのに。

しばらくすると、新しい生徒が首を傾げ始めた。

「なんかこの部屋……空気、重いっすね。エアコン、調子悪いんですか？」

「うん、それ空気じゃないかもね〜」

「……え？」

「気圧とかじゃなくて、存在感？ っていうの？ 気の流れ？」

その生徒は、その日限りで来なくなった。

「そりゃ、敏感な人は察するよね〜」

言いながらハーブティー飲んでるきみえ、何者なんだよ。

俺はというと、まだ“霊がどうこう”っていう実感はなかった。ただ──音だけは変だった。

教材を読んでいたとき、唐突に耳の奥で何かが囁いた。

「……¿Dónde está tu alma?」

スペイン語。ゆっくり、胸に響くような低音。しかも、翻訳アプリが読み上げたみたいな抑揚で。

周りを見る。

誰も口を動かしてない。

俺の空耳か？

「聞こえた？」

「え？」

「いま“魂どこ？”って言われたっしょ？ スペイン語」

「……なんでわかったんですか」

「ほら〜！ 鈴木さん、通じてんじゃん！ やったね！」

いや、やったねじゃない。

「……本気で言ってるんですか？」

「言ってるよぉ？ あたしこう見えて、“聞こえる系”バイリンガルだから〜」

「“聞こえる系”……」

「てかね、言葉って“音の文化圏”なのよ」

「は？」

「ラテン語って教会専用のセレブ語だったじゃん？ だからラテン語の霊は、わりとプライド高めの厳格系。 英語の霊は陽キャ。ノリで来る。ノリで憑く」

「怖……」

「ドイツ語は超真面目。発音ミスると注意してくるタイプ」

「クレーマーじゃん」

「でもさ、問題は日本！ 日本ってさ、神も仏も狐もマリア様も、全部並列で拝む文化じゃん？」

「あるな、地蔵の横にマリア像とか」

「もうそれ、霊的Wi-Fiフリースポットなのよ。誰でも繋がるの。どの文化圏の幽霊も“入ってこれちゃう”」

「Wi-Fi……」

「で、感性オープンな人が来ると“繋がった！”ってなる。だから、あんた今狙われてる」

「軽いノリでホラー言わないでください……」

「まあ安心して！ あたしは通じちゃってるから、向こうから来ないし♪」

その夜、駅のホームで耳の奥がキーンと鳴った。

雑踏の中に、誰かの声が混ざる。

「……Turn around.」

振り返りかけて、やめた。

吹き替え映画みたいな妙なイントネーション。 けど、言ってる内容は、たぶん英語じゃなかった。

本屋で見つけた「ドイツ語会話入門」のCD付きテキストは、完全にノリだった。

「グーテンタークって言ってみたいだけ」

理由はそれだけだし、あのときはまだ、まさかCDから霊が出るとは思ってなかった。

──が、出た。

最初の再生は普通だった。「Guten Tag」「Wie geht’s?」みたいな基本の挨拶が流れ、 ナレーションのおじさんが「Repeat after me」なんて言ってくる、ごく平凡な語学教材。

異変が起きたのは、二回目の再生だった。

CDの再生中、突然ノイズが走って、 妙に怒った声でドイツ語が挿入された。

「──Nein!! Das ist kein 'V'!!（違う！それはVの発音じゃない!!）」

唐突すぎて心臓止まるかと思った。

最初、CDの収録ミスかと思ったけど、違った。

そこだけ音質が妙に生々しい。

誰かが“今ここで”怒鳴った感じ。

翌朝、プレイヤーの電源が勝手に入っていた。 しかも、巻き戻されて“V”の単語だけリピート再生。

俺は急いでプレイヤーの電源を引っこ抜いた。マジでやばいやつだこれ。

その日の語学教室で、きみえに話した。

「先生……ちょっとドイツ語CDで変なことがあって」

「え、まさか……また怒鳴られた？」

「……“Vじゃない”って言われました」

「出たー！ドイツ霊！！マジで発音警察なんだよ、あいつら～！」

ノリ軽すぎて泣きそうになった。

「しかも、ちゃんと覚えさせようとしてくるの。正しく発音できるようになるまで、ずーっと言ってくるから」

「いやいやいや……霊が教育熱心ってなに」

「ってか、それもう通じちゃったってことだよ？」

「……え？」

「最初の一言が通じるとね、霊も“あ、こいつ習得中か。教えよ！”ってテンションになるの。 で、向こうが“意思疎通モード”に入るわけ。おめでとう、ドイツ語コース開講です♪」

いや、めでたくない。

夜、再びCDを再生してみた。 リスニングしてたはずなのに、いつの間にか俺の口が勝手に動いていた。

「Fisch……Vogel……Vater……」

覚えた覚えのない単語。まるで口が勝手に練習してるような感覚。

背筋が凍った。

そのとき、耳元でまた声がした。

「Sehr gut.（よくできました）」

吹き替えみたいな抑揚で、静かに。

翌日、教室での授業中──きみえがピタッとしゃべるのをやめた。

「……いま、何か喋った？」

「いや、俺じゃ……」

「うしろのほうで“Gut gemacht（よくやった）”って聞こえたけど、違う？」

俺はぞっとしてうなずいた。

「……発音、直ったから褒めてきたのかもね〜」

「怖い褒め方すな！！」

きみえが言った。

「でもね、それはつまり──意思疎通が始まったってこと。 教える段階が終わると、次は“話し出す”。本題が始まるよ」

その晩、また声がした。

いや、正確には「音が、脳の内側で立ち上がった」ような感覚だった。

「……聞こえるか。やっと、発音が合った。やっと通じる」

まるで長年待ってたみたいな口ぶりだった。

「わたしは殺された。国は、日本。名前が、ない。墓が、ない。 この土の中に、ずっと、埋められたまま──」

返事をする気なんてなかったのに、口が勝手に動いた。

「……聞こえてます」

「探して。場所を。わたしを。見つけて。お願いだ……」

──そのあと、意識が落ちた。

夢を見たような気もするが、何を見たかはまるで覚えていない。

……なのに、頭の奥に、景色だけが残っていた。

雑木林みたいな場所。足元は斜めに傾いた土の斜面。 右手に、半分埋まった青いスニーカー。 誰かの掘ったような穴の跡。

起きたあとも、その映像は妙に鮮明で、まぶたの裏に張りついていた。

それは、ふとした瞬間だった。

会社帰り、近場でちょい飲み出来る居酒屋を探していた。

スマホで地図アプリをいじってたら、 突然「そこだ」と脳が言った。

小さな市外の斜面。

ちょうど街と林の境目みたいなところで、 空から撮った航空写真の中に、 あの傾斜と、木の並びと、細い道が、あった。

「ここ、かも」

画面をスクショして、きみえに送った。 即レスが来た。

「行こう。明日。線香持ってく」

さすがというか、すでに準備できてたらしい。

翌日、土曜日。

俺ときみえは、郊外の住宅地を越えて、 その場所に向かった。

現地は、予想以上に寂れてた。

街の裏手にある、ほとんど使われてない遊歩道。

そのわきに、あの傾斜があった。

「……ここだ」

思わず口をついて出た。

景色が、ぴったり一致していた。

斜めの土。

雑木林の葉の影。

右側に、小さな木の根。

夢で見たまんまだった。

「なんか、空気が重いね」

きみえが、鞄から線香を取り出した。

火をつけ、土の上にそっと立てる。

俺たちは黙って、その場に立ち尽くしていた。

そのときだった。

頭の奥で、誰かが話しかけてきた。

「……Danke. Ich bin frei.（ありがとう。自由になった）」

もう驚きもしなかった。

言葉は、やっぱり吹き替え調だった。

「Ich heiße Heinrich. Ich war allein. Jetzt nicht mehr.（私の名はハインリヒ。ひとりだった。もう、ちがう）」

静かな声だった。

ーおおお怒りも、悲しみも、もうそこにはなかった。

「お名前……わかったんだね」

きみえが、小さくつぶやいた。

「……うん」

俺たちは並んで、合掌した。

風が吹いて、線香の煙が斜めに流れた。

目を閉じると、あの霊の姿がぼんやり浮かんだ。

口を開きかけたまま、何か言い残したそうな顔だった。

帰り道、きみえが言った。

「でもさ。なんか、まだ全部は言えてなかった気がするんだよね」

「……そう？」

「ドイツ語で“Vergessen”って聞こえた」

「忘れる……？」

「うん。でもあの人、“忘れてほしい”って顔じゃなかった。 どっちかって言うと、“忘れないで”って顔」

俺は、歩きながらうなずいた。

「言葉ってさ、まだ……残るんだね」

──帰り際、 俺の耳元でまたひとこと、吹き替えの声がした。

「Ein neues Wort...（新しい言葉を）」

「どうかしたか？」

「あ…いえ、なんにも、きみえさんってこんな事ばっかやってるんですか？」

「ん？まぁ出来る範囲だけねッ」

人差し指を立て嬉しそうに振り向いた。

「なんか良いですね、僕も出来る範囲でお手伝いしますよ」

何かが始まった、そんな確信と高揚感で充たされた帰り道だった。

あれから案の定、霊は──出まくるようになった。

毎晩というわけじゃないけど、週一くらいで妙なのに出くわす。

家の廊下、ビルのトイレ、駅のホームの柱の影。

呼びもしないのに、言葉を持った霊も、持たない霊も、とにかく出る。

通り雨より多い気がする。

俺ときみえは、今やちょっとしたチームだ。

金にはならないけど、たまに「これ誰にも言えなくて……」って相談を持ち込まれると、なんやかんや現地まで行って祈ったり訳したりしてる。 　

きみえ曰く、「わたしたち翻訳業じゃん」

俺は「探偵業でしょ」と返したけど「どっちにしろ無銭営業だね」ときみえが肩をすくめた。

最初の案件は、あのドイツ人だった。 　

発音にやたら厳しくて、翻訳にも寛容じゃないくせに、最終的には俺のこと、見張ってくれてるらしい。

──昨夜のことだ。

風呂に入ってると、湯気の奥に何か気配を感じた。 　

鏡が曇ってる。

けど、そこに何かが立ってるのは分かった。

人のかたち。

だけど皮膚じゃない。

全身、濡れた墨みたいな膜に覆われてる。 　

顔は、ほとんど分からない。

ただ、異様に大きな口だけが、ぱっくり開いて──

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ」

叫びが炸裂した。

言葉じゃない。

意味がない。

ただの喉の震え、音の衝突、怒りと混乱の残響。

そいつには、もう“言葉”がなかった。 　

伝えたい何かがあったはずなのに、それはとっくにこぼれて、残ってるのは叫びだけ。

俺は声も出せずに、湯船の中で固まっていた。

そのときだった。

鏡の曇りの奥、向こう側に──目が見えた。

青くて、鋭い、冷たいけど、ちゃんと意味を持ってる目。 　

ハインリヒだった。

その目と目が合った瞬間、悪霊の動きが止まった。 　

叫びが止まり、身をすくませ、沈黙の中でぶるぶる震えだす。

──そして、バンッ！

風呂場のドアが勢いよく開いた。

「はぁい、翻訳できないやつ、ここね〜〜♪」

湯気をかき分けて、サンダル履きのきみえが、まるで出前みたいなテンションで登場した。

「叫ぶしかできんとか、逆にかわいそうな奴だな」

きみえはポケットから護符を取り出した。 　

手のひらサイズの、真っ赤な紙。

「っじゃ、一回、黙らせるわ。口、開けてね〜☆」

ッッング…護符が悪霊の口に突っ込んだ。

霊は目を見開いて、バチバチと痙攣したかと思うと、音もなく、霧のようにほどけて消えた。

「ちょっと目ぇ離したら、すぐ悪霊に絡まれるやん。小学生か、おまえは」

きみえが湯船に肘ついて俺を見下ろす。

「しかもこんな時まで、発音警察が見張ってるし。おまえの人生、ほんと教材だな」

──俺はただ、笑うしかなかった。

言葉を持たない霊と、発音にうるさい守護霊と、ノリだけで全部なんとかする女。

そりゃまあ、俺の人生が静かになる暇なんて、あるわけがない。

でもまあ、悪くない。 金にはならんけど。

きみえと俺の通訳業（？）は、今日も開店中。

また新しい言葉が来たら、俺が伝えるよ。

発音は……まあ、ほどほどで。

何となくで生きてるだけの人間が、死んでるだけの人間の役に立てる。

なんて楽しい日々なんだろう。

また"新しい言葉"に触れる事があればここに書きに来るよ。