第六話 契約結婚、そして

 ここに残って考えたい。

 ここに残ってほしい。

 そんな両者の想いを鑑みて、私たちは契約結婚という形を取ることになった。

「本当にいいのか」

 問いかけに応えるように、判を捺す。

 まだ、言葉で返事をすることは出来なかった。

 婚姻届には、夫になる人の欄に「峰雪絢斗」と書いてある。偽名で書類を出していいのかと問い詰めたが、戦前から使っている名前だから問題無い、と言われてしまった。問題無いのか? それは。

「あんたこそ、それでいいの?」

「お前がここから離れない理由になるなら、それがいい」

 雪はコンとひとつ鳴いて、満足そうに婚姻届を手に取った。

「……そう」

 調子が狂う。

 本当に、このひとが何を考えているのか分からない。額面通りに受け取れば、大切にされているように見えるかもしれない。

 しかし、それは言葉だけの話である。そもそも、甘い言葉で口説かれた試しなど無い。加えて、粗雑な態度。人の話を聞かない――これは話を聞いていないとかではなくて、聞いた上で、言うことを聞かないのだ――場合も多いし。大事に愛されているようには、とても感じられなかった。

 でも、乙女だもの、人間だもの。そんなに一途な言い方をされたら、そわそわしてしまう。

 私の心拍数が徐々に上がっていく。そんなことは露知らず、雪は桐の箱を取り出した。

 何だその、みるからに高そうな代物は。

 中に何が入っているか考える暇も与えず、雪は箱を開けた。

「婚姻の印に、これをやる」

 これって……。

「パワーストーン?」

 目の前の箱に納まっているのは、薄桃色をした石が連なったブレスレットだ。どこからどう見ても、胡散臭い類のやつにしか見えない。

 え、マルチ商法? でも山から下ろす気は無いって言ってたしな。

 もしかして呪いとか、妖の力でとか、そっち方面?

 駄目だ。もしそうだったらお手上げだ。マルチ商法なら断れば済む話だが、妖怪云々の話には詳しくない。

 ――――逃げよう。

「おい、契約を結んだばかりだぞ」

「えっ? 何の話?」

「恍けるな。今、逃げようとしていただろう」

 何で分かったの!?

「読もうと思えば、人の子の心など手に取るように解る」

「こっ、心が読めるってこと!?」

「そう云った」

「うそ……」

 それじゃあ、全部バレてしまうじゃないか。逃げる時のルート取りをこっそり屋敷と相談しようとしていたこととか、契約結婚なんて顔で丸め込まれただけで、全然納得していないこととか。

「お前…………」

「待って、待って! 今読んだ!?」

「読んだ」

「怒らないで」

 決死の思いで、瞳を潤ませて雪を見上げる。

 雪はぐっと言葉を呑み込んだ。

短く、沈黙が降りる。

 私は、小学生の頃を思い出していた。へまをして、親に叱られるとき。その直前の静けさは、当時何よりも恐ろしかった。

 やっと、雪が口を開いた。

「お前に、部屋をやる。まだ契約結婚に納得していないようだな。ここに居続けるかどうかも、迷っているのだろう。そこでじっくり考えるといい」

「あ、ありが」

「三百年はそこに居てもらうからな」

なんだそれ。無期懲役か。

「うそ……」

 呟くと、もうそこは知らない部屋の中だった。

 大きな円窓がある、綺麗で広い部屋だった。

 窓に付いた洒落た木の格子が、もう私の目には、鉄格子にしか見えない。

 呆然としていると、見慣れた二人が襖を開けた。

「やませ様〜! 大変でしたねぇ」

「どうかお気になさらず。あの御方は、本当に口が下手で」

「いや、えっと……」

 私は、躊躇いながら、か細い声を出した。

「ひとついい?」

「何でしょう」

「外に出られないかな、少しだけ」

 それを聞くと、びわは笑い、江津子さんは眉を下げた。

「ご冗談を〜」

「それが、難しいんです」

「何か、ワケがおありで?」

 小声で話していると、自然と三人でぎゅっと固まっていた。その輪の中心に、桐の箱を差し出す。

「これをなんとかしたくて」

「これは!」

 びわは箱が開くのが待ち遠しいといった様子で、身体を揺らした。江津子さんは、真剣な目でこちらを見つめている。

「なんとか、というと?」

「捨てたいの」

「すっ、捨て!! 滅相も無い!!」

「どうして?」

 純粋な疑問を持ってびわと向かい合う。妖怪たちには、この胡散臭いパワーストーンが、とても価値のあるものに見えているのだろうか。

「お言葉ですが、やませ様」

 江津子さんまでもが、私のことを窘めた。

「こちらは、とても価値あるものです」

「妖怪にはってこと? 何か呪いとか、そういうのが怖くて捨てたかったの。やっぱりそうなんだ」

「気を急きすぎです、やませ様ぁ!」

「だって」

 不安に声を揺らすと、びわは悲しい顔をした。そんな表情をされたら、こっちが悪者なんじゃないかと思ってしまう。

 そりゃそうか、婚姻の記念品を捨てようだなんて、どこからどう見ても悪者だ。でもこちらの気持ちも分かってほしい。

 怖いものは、怖いのだ。

 私の背にひんやりとした掌を当て、江津子さんは優しく言った。

「怖がる必要はございませんよ。やませ様。箱を開けてくださいませ」

 私は躊躇いなく箱を開けた。隣でびわが「うわぁ〜」と大袈裟なリアクションを取っている。

 江津子さんは、静かにブレスレットに手を当てた。

「この品には呪いや妖力、その類の力は一切感じません」

「むしろ純度百パーセントの、愛情と幸福が込められてますよ! や〜旦那様、本当に惚れ込んでいらっしゃる」

 二人の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。と同時に、あるワードに引っかかってしまった。

「愛情と幸福……?」

「はい〜」

「そうですね」と江津子さんは微笑んで、ブレスレットの石を撫でた。

「これらはピーチムーンストーンという天然石です。愛情と幸福を高める、お守りの石なんですよ」

「そんな……そんなの、知らなかった」

 私は途端に申し訳なくなった。

 確かによく見るパワーストーン擬きに似てはいたが、それだけで怪しいと決めつけてしまった。

 どうやら、これは本物らしい。審美眼の無さをここまで恥じたのは、人生で初めてだ。

「あいつ、どんな気持ちで、これを私にくれたんだろう」

 ぽつりと呟く。珍しく、びわは茶々を入れなかった。

 横柄に「これをやる」と言ってきた雪のことを思い出した。口調こそ乱暴だったが、私はちゃんと彼の目を見ていただろうか。

 その淡い瞳は、私をどう映していたんだろう。

 あの日、初めて本当の姿を見せてくれた日。あの日の晩のように、慈しむような瞳をしていたかもしれない。

 もしそうなら、私はこれほど自分の行いを悔いたことは無い。

「着ける」

 私の言葉に、二人はぱっと顔を上げた。

「大事にする。何を言おうが言われようが、ここに込められた気持ちは信じたいから」

 二人は嬉しそうに頷いた。

 私は左手にブレスレットを嵌めた。

 光をきらきらと弾いて、淡い桃色が輝いた。

 なんだか無性に、彼の淡い色の瞳が見たくなるような気がした。

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