第7話 妖狐 嵐

次の日、私は気分を変えようと境内の掃除をしていた。

柔らかな陽の光が降り注ぎ、心地よい風が頬をなでていく。

自然の中に身を置いていると、昨夜の悪夢で沈んだ心が、少しだけ軽くなる気がした。

石畳や鳥居の汚れをひとつずつ丁寧に拭いていく。

あの家で無理やりやらされていた掃除とは、まるで違う。

今は、自分の意思で、ここをきれいにしたいと思えている。それだけで、体が自然と動き、心まで

も軽くなるようだった。

ふと目をやると、境内の奥――大きな御神木の根元に、何かが横たわっているのが見えた。

ふわりと揺れる、茶色い毛。風にそよぐたびに、やわらかそうな毛並みが波打つ。

(動物……?)

恐る恐る近づくと、そこには小さく丸まって眠る狐がいた。


(わぁ、狐だ、、)


すやすやと眠るその姿は愛らしく、ふわふわとした尻尾が小さく動いているのが見える。

思わず、手を伸ばして撫でてみたくなった。

(かわいい……)

その瞬間、ぱちっと狐の目が開いた。


「あっ……起こしちゃった?」


小声でつぶやいた私に、狐はゆっくりと視線を向け、大きなあくびをした。

そして、眠たげな声で言った。


「なんだ、これが蒼の嫁か」


「うわっ!?」


言葉を発したその狐に、思わず尻もちをついてしまう。

狐は呆れたようにため息をついた。


「神と暮らしておいて、狐が喋る程度で驚くとはな。まあ、この姿じゃ話しにくい」


そう言うと、狐の体がふわっと白煙に包まれる。

目を見開いた私の前で、狐は人の姿へと変わった。


煙が晴れると、そこに立っていたのは、私より少し背の高い茶髪の少年――

しなやかな体つきに、鋭くもどこか気怠げな目をした、不思議な雰囲気の青年だった。

「やっぱり人の姿のほうが楽だな〜」


肩を軽くすくめて笑う彼に、私は声も出せず口をぱくぱくさせるだけだった。

そんな私に、彼は飄々と続ける。


「気になるよね、俺のこと。……うん、教えてあげるよ」

彼はにっと笑って言った。


「俺の名前は嵐(あらし)。この山に住んでる妖狐さ。蒼とは昔からの腐れ縁ってやつ」


「蒼様のことを……ご存知なんですか?」


「もちろん。あいつはこの山で一番偉い神様だからな。……まあ、昔はもうちょっと穏やかだった

けどね」


そんなふうに喋っていると、ふいに空気がぴんと張り詰めた。


境内の向こうから、蒼様の気配が近づいてきたのだ。


「あら、タイミング良くご主人登場。ちょっと奥さん借りてたよ〜」


そう言って嵐は私の方へ手をひらひらと振った。

その様子を、蒼様は険しい表情で見つめていた。

「嵐、何の用だ。それと加奈に近づくな」


蒼様の声音は静かだったが、確かな怒気が含まれていた。

その気配に私は思わず背筋を伸ばす。


「何って、蒼が選んだ人間がどんな子か興味あっただけさ〜。からかったわけじゃないよ」


「黙れ。お前には関係ない」


その一言に、嵐は肩をすくめた。


「昔はもっと懐が深かったのになぁ。……それとも、嫉妬か?」


その言葉に蒼様の眉がぴくりと動いた。

「加奈は俺の妻だ。それを忘れるな」 


その言葉に私は思わずはっと息を呑んだ。

“俺の妻”はっきりとそう言われたのは初めてだった。

嵐は楽しげに口の端を上げる。 


「おお、これはまたお熱いことで。蒼も随分、人間らしくなったじゃないか」


「、、黙れ、嵐」 


「はいはい、邪魔者は退散しますよ。じゃあね、加奈ちゃん。またそのうち」


そう言って嵐はふわっと姿を消した。

「あ……行ってしまいましたね」


私がそう言うと、蒼様は静かに答える。 


「あいつは気分屋だ。……お前も、あまり関わるなよ」


「……はい、蒼様が言うなら」


「……それならいい」


私は、ふと蒼様の顔を見上げた。

少しだけ顔を逸らしているその姿が、なんだか可愛らしく見えて、思わず笑みがこぼれる。

(蒼様が、私のことを想ってくれてる――それだけで、うれしい)

だけど、嵐さんともう少し、話してみたいと思ってしまった。

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