この退屈な人生に、消えない傷を

 それから一ヶ月は何事もなく過ぎていった。もとより貴族のご令嬢にやるべきことなどそうないのだ。午前中は習い事、午後には本を読み、刺繍を嗜んで、人によっては茶会を開く。

 これではいけない。

 ちょうど読み終えた本をバタンと閉じた。部屋の隅に控えていたエリネが何事かと顔を上げる。


「エリネ」

「はい、お嬢様」

「出掛けるわ」

「……お出掛け、でございますか……?」

「街へ行くわ。支度してちょうだい」

「は、はい!」


 かくして、エリネを連れ立って街へ出た私は途方に暮れていた。驚くべきか呆れるべきか、私は九十年もこの国で暮らしていながらこうして街へ来たのは初めてだったのだ。もちろん仕事として来ることはあったが、大抵は馬車の中から見ていただけだし、いつだって大勢の護衛が付いていた。


「街って……広いのね」


 こうして自分の意思で街へ出たのは初めてかもしれなかった。お忍びと言うには、少しばかり派手なドレス姿。けれど、ここは貴族街も近いからか誰も気にしていない。

 目の前に伸びる長い道の先に、果たして何があるのだろうと思うと、少しの畏れといっぱいの興奮が胸を満たした。


「お嬢様、どちらへ参りますか?」


 そう尋ねるエリネの声は心なしか弾んでいる。彼女は私に付き合って常に屋敷で控えている立場だ。彼女は街へ出てみたかったのだな、と今更ながら思う。


「エリネはどこへ行きたい?」

「私、でございますか……?」


 キョトンと聞き返すエリネが可愛らしかった。ポカポカと暖かい陽気はお出掛け日和で、見慣れない街並みは心を浮き立たせる。


「ええ、いつものお礼に、好きなものを買ってあげるわ」


 しばらく呆けてから、エリネはパァっと顔を輝かせた。その年相応な顔に、ひ孫のことを思い出す。十七歳の自分がひ孫のことを懐かしく思っているというのも、おかしな話だ。


「あっ……えっと、その、私が欲しい…………ああ! ありがとうございますお嬢様!」

「慌てなくても大丈夫よ。今日中に決められなかったらまた明日も来ましょう」

「いえ、そんな。ああ、どうしましょう」

「ほら、あそこのお店とかどうかしら。見て来たらいかが?」


 たまたま通りかかった服飾店を示してそう言うと、エリネは頬を上気させながらショーウィンドウを見に行く。今だ。エリネが目を離している隙に、私は素早く踵を返すと近くにあった適当な路地に飛び込んだ。心の中でエリネに謝りながら、私は初めての裏路地へ足を進めていく。

 ドキドキと胸が高鳴る。引き返せと理性が叫ぶ。それに背を向けてぐんぐんと足を動かした。道に迷うことも、危険があることも、もしかすれば命さえ危ういことも理解していた。それでも、ここではないどこかへ行きたい。何でもいいから間違えたい。後悔を重ねたその先に虚しさ以外の何かがあるのなら、私はそれが欲しいのだ。この退屈な人生に、消えない傷を付けたいのだ。

 そのまま、どれだけ歩いただろうか。きっと、それほど歩いていないに違いない。それでも舗装の悪い細い道、歩き慣れない靴、動きにくい服に私は早くも息が上がっていた。エリネは追ってきてはいない。薄暗い通りに面している店は多くないがどれも怪しげで、胸中は不安でいっぱいだ。どこかで休みたかった。何度目かの角を曲がると、そこは店の裏手のようだった。空の酒瓶が入った箱が積み上げられており、その横には。


「ベンチ……」


 求め続けた座れる場所に腰を下ろす。ホッと息をつくと同時に冷静さも戻ってきた。

 逃げて来てしまった。じきに家から人が探しに来るだろう。すぐに見つかって、連れ戻されて、叱られるのだろう。なんて言い訳しようか、無意識のうちに考えている自分に気がついて、自嘲した。自分で『間違い』を選んでおきながら、まだ『正しさ』を失うのが怖いのだ。

 けれど、今だけは。私の『間違い』を糾弾する者はいない。心中に渦巻く不安は相変わらずだけれど、一人の気楽さに私は思わず微笑んでいた。


「また会いましたね、月の君」

「え?」


 思いがけず至近距離で聞こえたからかうような声に顔を向けると、美しい顔があった。忘れもしない、ひと月前パーティを抜け出した日に会ったあの顔だ。

 確かに同じ顔。こんなに綺麗な顔をした人は二人といないだろう。なのに、信じ難いことにあの日の紳士的な青年の気配はどこにもなく、そこにいるのは庶民然とした青年だった。服装も質素なもので、とても貴族の屋敷に出入りする人種には見えない。


「おや、お忘れですか?」

「いえ、いえそうではなく! なぜ、このような場所に……」


 青年は呆れた顔をした。


「その言葉そっくりそのままお返ししますよ。ここは貴女のような方が来る場所じゃない。道にでも迷われましたか?」

「それは……」

「それは?」


 その通りです。送っていただけますか。と言おうかと思った。しかし、私はまだ何もしていない。これではただの、世間知らずの迷子。問いかけるような男の視線に私は思わず、笑っていた。虚しかった。くだらなかった。なんてささやかな反抗だろう。何も変わらない。これではまるで、徘徊癖のある老人だ。


「なんででしょうね。若返って舞い上がってしまっていたのかしら。何をしているのでしょうね、本当に……私は……」


 胸を締めているのはただただ果てしない後悔だった。くだらないことをした、くだらない自分。後悔の先にもやはり虚しさしかなかったのだろうか。


「また、逃げてきたんですか?」

「ええ。まあ、そんなところよ」

「なら、俺と逃げるか?」


 男の口調がガラリと変わった。驚いて顔を上げると鋭く強い光を湛えた瞳がこちらを見返している。雰囲気も、無害な庶民然としていたのが、今はまるで野生の獣のようだ。身の危険を感じるべきなのだろう、走って逃げるべきなのだろう。だが、今の私は半ば自棄になっていた。


「それが、本当のあなたなの?」


 その言葉が意外だったのだろう。男はクスリと笑った。


「どれがよろしいですか?」


 紳士風に。


「え?」

「どれが本当だと、貴女は嬉しいですか?」


 庶民風に。


「……嬉しい?」

「聞き方を変えようか。君はどの俺が好き?」


 強く気高い、獣のように。

 男はまるで、服を変えるような気軽さで雰囲気を自在に変えてみせた。


「私は……嬉しい、です。どの、あなたでも」


 口に出して、気がついた。そう、私は嬉しかったのだ。何もない、間違えている私に「逃げるか」と声をかけてくれたことが。あの日もそうだった。貴女も逃げてきたのか、と彼は言った。逃げるくらい何も特別なことじゃないんだと、そう肯定された気がしたのだ。


「……なら、俺が一番楽なやつで」


 そう言った彼の雰囲気は、決して無害な庶民ではなく、でも獣という程に他を寄せ付けないものでもない。男は自立した青年として相応しい雰囲気を纏っていた。


「さて、どうする? 表通りまで送ろうか? 家まで送ろうか? ……それとも、駆け落ちするか?」


 冗談めかして付け加える。


「そうですね。とりあえず、お名前が知りたいですわ」


 男は目を丸くして、吹き出した。


「ははは、名前か。何者かでもなく、帰りたいでもなく。そうか名前。名前にそれほどの意味があるとも思えないんだがな……じゃあ…………セレン、で」

「セレン様……申し遅れました。私はティナーレインと申します」

「知ってる。けど、覚えなくていいよ。もう会うこともないだろうからな。さて、表通りまで送ろう」


 そう言って先に立って歩き出した彼に、何か言いたいことがある気がして、でも結局何も口に出すことはできないまま、私も彼の背を追って立ち上がった。歩いたのは驚くほど短い時間だった。どうやら私はくねくねと角を曲がりながら、表通りの近くを彷徨っていたらしい。


「ほら、ここを真っ直ぐ出れば、表通りだ。そこまで行けば誰か君を探してる奴がいるだろ」


 貴人である自分に対して使われるざっくばらんな口調がなんだか新鮮だった。


「ありがとうございます」

「うん」


 彼に背を向け、表通りへ向かおうとした私はそこで足を止めて振り向いた。もう一つくらい後悔が増えたって構わないと思ったのだ。


「あの、私は……またお会いしたいと思います。ですから、覚えておきますね。セレン様」


 それだけ言うと今度こそ背を向けて歩き出す。私の舞い上がった後悔はもうしばらく続きそうだった。

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