後悔のない人生なんてつまらない

 一時間後、私は疲れ果てて広間の片隅に立っていた。もちろん疲れを悟らせるようなことはしない。背筋は伸ばし、顔には微笑を張り付けている。ようやく挨拶に来る人が途切れたところだった。

 幸福感に満たされて逝きたい、先程考えていたそれが頭の片隅に引っかかっていた。私はずっと耐えてきた。社交界が嫌でも、窮屈なドレスが嫌でも。それはその日に安眠するためで、明日の朝世界を憎まないためで、自身の幸福と安寧のためであった。今を耐えるという選択がこの場の最適解であると幾度となく判断してきた。それが間違っていると思ったことはない。事実、自他共に認める幸福な人生を生きたのだから。

 しかし、その終わりがあの虚しさだったのなら、私は何のために頑張ったのだろうか。

 何一つ間違えていないのに、その結果が不満であるのなら、『何一つ間違えていないこと』こそが間違いだったのではないか。

 不意にそんな考えが頭をもたげた。どうして時が戻ったのかはわからない。わからないが、今なら、やり直せる。

 視線を、外との出入り口に向けた。その向こうには、先の見通せない暗い闇がある。知らず動悸がした。

 何を馬鹿なことを考えている。今は誕生日パーティ。私はここの主役。抜け出せば面倒なことになる。この場の最適解はこの場に留まること。余計なことをしないこと。ただ笑って立っていること。そう叫ぶ理性に背を向けて、私はくだらない一歩を踏み出した。

 一歩が出てしまえば、後は簡単だった。両親が見ていない隙に、さりげなく、最寄りの出口に足を向ける。果てしなく遠く思えた、ほんの数メートルの距離。広間から抜け出せば、そこは中庭に繋がっている。

 外に出ると夜風がビュウと吹きつけた。視界が一気に暗くなる。月明かりだけの世界がそこにある。

 私は足を止めることなく、何かに突き動かされるように歩き続けた。迷路のように連なる生垣の間を縫って、どこを目指すともなく進む。

 まだ間に合う。

 すぐに戻れば。

 きっと後悔する。

 そんな言葉が絶え間なく頭に閃いたが、それを振り解くように私は声に出して呟いた。


「後悔のない人生なんてつまらないわ」


 そうして足早に生垣を曲がった瞬間。目の前に壁……否、人がいた。


「……っうわ」

「きゃっ」


 気がついた時にはもう足は踏み出してしまっていて、どんと胸板にぶつかる。慌てて数歩後退ると、ドレスの裾をつまんで頭を下げた。


「申し訳ございません。お怪我はございませんでしたか?」


 相手は男性のようだった。どうせ誰もいないと思い、音量を抑えずに独り言を呟いたことに思い至って内心ヒヤリとする。だが、男はただ挨拶を返すのみだった。


「いえ、こちらこそすみません。貴女こそ大丈夫でしたか?」

「はい。大変失礼致しました」


 謝罪をしつつ顔を上げると、目の前に美しい顔があった。覗き込むように腰を屈めていたのか、思いがけず近くにあった顔にドキリと鼓動が跳ねる。


「いえいえ、私も前を見ていませんでしたから……。貴女もあの場から逃げてきたんですか?」

「え、ええ。まあ」


 一応は今日の主役である自分を知らないのかと訝しく思ったが、ここはその方が好都合だ。私が苦笑を返すと男はにこりと笑った。人懐っこそうな表情にまたもや鼓動が跳ねる。綺麗な顔といい、この笑顔に絆される人は多いのではないだろうか。


「よければ、共に月見でもいかがでしょう。向こうにちょうど良いベンチがあったのです」


 その言葉にやはりこの男は私を知らないのだと確信した。家主に家を紹介する客はいない。


「私でよろしければ、喜んで」


 最善の行動は、断って広間に戻ることだっただろう。しかし私は後悔しそうな道を、間違いを選ぶと決めたから、ここまで来たのだ。

 生垣の間を抜けていくと、少し開けた場所に出る。さながら迷路の中の小部屋といった風情のその場所には一脚のベンチと小さな噴水があった。


「どうぞ、お手を」


 差し出された男の手を取ってベンチに腰を下ろすと、男も隣に座る。改めて見てもやはり綺麗な顔立ちをした男だった。歳の頃は私より少し上か同じくらいだろうか。くっきりとした眉、大きな瞳にスッと通った鼻筋、花弁のような唇。月明かりに照らされた髪は明るい栗色をしていた。肩を過ぎるほどまで伸びた髪は、男性にしては少し長い。

 あまりに整ったその顔はいっそ女性にすら……と、そこまで考えてふと自分も相手の顔に覚えがないことに思い至った。時を遡ったとはいえ、ここまで美しい顔を忘れるとは考えにくい。招待客ならば見たことくらいはあってもいいはずなのに。


「そう見つめられると照れてしまいます」


 男に言われてハッとして目を逸らした。


「い、いえ。その、あの、申し訳ありません」


 見惚れていた。その事実が信じられなかった。私は八十九歳の老婆だというのに。体が若返ったからか、はたまた時間遡行によるものなのか、まるで十七歳の自分が八十九歳の時を思い出しているかのような違和感。

 動揺が隠せていない自分を自覚して更に動揺していると、男がふっと空を見上げて呟いた。


「月が綺麗ですよ。私の顔より空を見てみてください」


 言われて見上げれば、なるほど今日は満月だった。噴水が月明かりを反射してキラリと輝く。パーティの喧騒もここまでは届かない。そうして静寂の中で月を見上げていると、動揺も落ち着いてきた。


「……本当。とても綺麗だわ」

「……はい。不思議ですね、景色を見て美しいと感じるのが酷く久しぶりな気がします」

「ああ、そういえば私もです。空なんて、長らく見上げていなかった気がしますわ……」


 そのまま静かな時が流れた。人といるのに話さなくて良いというのはとても楽だったが、何故だか一抹の寂しさも感じる。心地良いこの時間が永遠に続けば良いのにとさえ思ったが、それは叶わない。今頃は私がいないことにも気がつかれているだろう。月を見ていた瞳はいつしか噴水に移り、男の横顔に移っていた。


「……お名前を、伺ってもよろしいでしょうか?」


 不意に思い出して尋ねると男は少し残念そうに笑った。


「月が隠れてしまいましたね」

「……え?」


 見上げれば、確かに月は雲で覆われたのか、見えなくなっている。


「もう少し共に居たかったのですが、言い訳がなくなってしまった。私はお先に失礼いたします」


 咄嗟に呼び止めようとしたが、言葉が出てこなかった。呼び止めてどうするつもりなのだと思ったからだ。私がそうして何も言えずにいるうちに、彼の姿は夜闇の中に消えていた。


「彼は、誰だったのかしら……」


 私が名前を聞いてしまったから消えたのだとしたら、やはり彼は招待客ではなかったのだろう。もちろん招待状の確認はしているが、こっそり忍び込むこともできなくはない。規模が大きくなればそれだけ部外者も紛れ込む。そう珍しいことではない。


「ティナーレイン!」


 突然名前を呼ばれて、びくりとした。振り返れば噴水の向こうに両親がいる。近くにはエリネも控えていた。


「……見つかっちゃったか」


 自分を呼んだ声色からして明らかに怒っている父親と、今にも泣きそうな顔でこちらを見る母親。それに困惑した顔で立っているエリネと向き合った私は、早くもパーティを抜け出したことを後悔したのだった。




「後悔……か」

 青年は、口の中で転がすように呟いた。

──後悔のない人生なんてつまらない

 何気ないそのひと言が、脳裏にこびりついて離れなかった。

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