第3章

「——うおおおおおおおおおぉぉ!!」


ホルガーは絶叫とともに飛び起きた。

天井に頭をぶつけ手をぶつけ、自分が座席に座っていることに気づくのに三秒かかった。


「おおおお……ま、まただ、また……」


「びっくりしたぁ、どうしたアンタ!? 大丈夫かい!?」

驚いた声が横から飛んできた。

ハンドルを握る中年男がこちらを見ていた。ブロンドの口ひげ、チェック柄のシャツ。トラックのような太い声と、恐ろしく動揺した顔。


「アンタ、1時間くらいずっと寝てたけど、いきなり叫び出すって……事故るかと思ったよ!」

「す、すみません…夢を見てたんだ。爆発と、トレーラーと……飛んでくる缶の夢……」

中年男は思わず呆れ笑い。「そりゃ飛び起きそうな夢だな……」


ホルガーはシートベルトを締め直しながら、窓の外に目をやった。車高が高い。トラックのようだ。田舎道。見覚えのある景色ではない。けれどなぜだか分からないが、既視感がある。

「いま……今日は何日?」

「ん? ああ、16日だよ。木曜日」

「……じゅう、ろく……?」

心臓がまた跳ねた。さっきまでの出来事――林道、銃声、トレーラーとの衝突、それがすべて『夢だった』というには、生々しすぎる記憶と感覚が残っている。


「……マジかよ。たしかさっきホテルで、起きたときは17日……また……」

「え? なんて?」

「いや、なんでもない! ちょっ寝ぼけただけ。明日爆死する夢のせい」

中年男はわけのわからない返答に眉をひそめたが、あまり深入りしないことにしたらしい。

ラジオから流れるのは朝のニュース。どこかで聞いたような女優の新作映画のインタビューがまた流れている。


ホルガーは黙って外を見ながら、考えていた。

……さっきのは夢じゃあない。現実味が痛いほどあったし、まだ死んだ余韻がある。


死ぬたびに、時間が戻っている?いや、映画とかによくある“その場で繰り返す”ループとは違う……毎回、戻るがずれてる。法則があるとしたら……?


自分の置かれている状況を整理するホルガー。研究員だっただけあって、突飛な仮説を理論立てて考えるのは得意だった.


「……待てよ?研究員?」

今まで霧の中で泳いでいた視線が、急に定まった。ホルガーの脳裏に、ある“場所”が浮かぶ。


「ところで、俺、ちょっと寄りたいところがあるんだけど……」

「はあ?」

「フェルステル研究所(Ferster Institute)って言う、この先の郊外にある施設なんだ。もう閉鎖されてるかもだけど…」

「まあ、道中ならいいけどさ。変なことするなよ?」

「そう願いたいけどね……」


ホルガーは頭を抱えた。ここへ来て何か記憶がハッキリしてきた気がする。

あの研究施設のあたりに、まだ何か残っているかもしれない。いや、自分が何をしていたのかを、そろそろ思い出す必要がある。何で追われていたのかも。

そもそも、なんでこの車をヒッチハイクしたんだろ?

外の風景は、少しずつ見慣れたものになっていく。遠くに、あのフェンスの影が見えてきた──


   *   *   *


トラックはガタつく砂利道をゆっくり進んでいた。ホルガーは助手席から身を乗り出し、目を凝らした。

そして、森の切れ目にそれは姿を現した。


フェルステル研究所。思っていたよりも、ずっといるように見えた。

壁は崩れておらず、建物の形も近代的なままだ。ただ、駐車場は空っぽで、金属製の正門には簡素なバリケードと「一時閉鎖」の貼り紙がひらひらと風に揺れていた。


「……こんなとこに、ほんとに何かあるのか?」中年男が首を傾げながらも、車を止めた。

「わかんない。でも、来なきゃならない気がしてさ。ありがとう、ここでいいよ」

ホルガーはドアを開け、地面に足をつけた。土の感触。そこに流れている空気は、どこか懐かしいものだった。皮膚がざわついた。


「そんじゃあな。ま、アンタも変わった奴だけど。気をつけろよな、こんなとこで死ぬなよ」

「どうも。せいぜい気をつけるよー」

小さく笑って、ホルガーは門へと向かった。


   *   *   *


看板には《Ferster Institute – Applied Neurology Division》の文字。ロゴはまだ新しい。まるで昨日まで誰かがそこに通っていたかのようだった。

スキャナーは電源が落ちており、門の錠も簡易なチェーンで施錠されているだけだった。ホルガーはそれを乗り越えず、回り道を選んだ。研究所の裏手には小さな搬入口があり、その扉が半ば開いていたのだ。


「……誰かが出ていったまま、閉めなかったのか……?」

重く軋む扉を押して中へ入ると、冷え切った静寂がホルガーを包んだ。建物の内部は、まるで時間が止まったようだった。


無人。だが、廃墟ではない。空調は止まっているが、機器類はそのまま、ホワイトボードには半分消しかけの図と文字。かつては数式や構造図でびっしりだったそれも、いまや大半が色褪せ、消えかけていた。

だが、右端に残ったひとつの書き込みが、ホルガーの目を引いた。


「E.Sch. → θΔ = 不安定域」


誰の書いたものか。あるいは、何を意味していたのか。

「E.Sch.…誰だっけな…」ホルガーはしばらくそれを眺めていたが、頭のどこかが拒否するように、思考を弾いた。彼はその名前を机の上にあったノートに殴り書きして破り、ポケットに入れた。


ある実験室の机には、ファイルが広げられたままになっていた。紙に記された走り書きが、かすれたインクで彼を迎える。


《T.R.L.U.試行ログ No.27b》

《再同期エラー / Reboot pending》

《記憶改変因子:有効? 無効?》


「……T.R.L.U. これだ……前にも……見た……?」

ホルガーの胸がざわついた。視界の隅に何かが閃く。


ロッカーの脇に落ちていたのは、薄いプラスチックのIDカード。手に取ると、そこには自分の顔写真と名前が印字されていた。


Holger Sprudel

Ferster Institute – Temporal Lab Technician


「……やっぱり、俺ここで……」

何かが、脳の奥から浮かび上がってくる感覚があった。

熱。音。コード。仮説。そして、実験体。


背後で、床が軋む音がした。

「……誰かいた?」ホルガーは一瞬で緊張した。

扉は閉まっていたはずだ。が、いま、かすかに誰かの足音が廊下の奥で響いた気がした。

息をひそめて耳を澄ませる。


──静寂。


気のせいか? だが、この研究所に本当に誰もいないのか?

彼は、封鎖された通路の先をじっと見つめた。その奥に、黒く沈むようなサーバールームがある。厚いガラス扉の向こう、コードが天井から垂れ下がり、青いランプがわずかに明滅していた。それは、かすかに明滅する心電図のようだった。

止まったはずの場所に、まだ微かな脈が残っているかのように──


   *   *   *


ホルガーはIDカードを胸ポケットにしまい、サーバールームの前に立った。厚い防音ガラス越しに、中のコンソールがちらつくように光っている。まるで眠っている脳が、まだどこかで夢を見ているような光だ。


ガラス戸は開かない。キーパッドにIDカードをかざしてみたが、電子ロックは無反応だった。電力は最低限しか生きていないらしい。

「バックアップ電源だけ残ってるのか? なら、手動で通電できる場所があるはずだ……」

ホルガーはフロアマップの記憶を頼りに、別室へと足を向けた。制御室──電源管理や、実験制御の補助操作を行っていた区画。記憶は断片的だが、脚が自然とそちらへ向かっている。無意識が覚えている道筋。


制御室の扉は開いていた。ホルガーはそっと中に入り、壁際の配電盤に目を留めた。かつて同僚がジョークで「こいつが心臓だ」と呼んでいたパネル。カバーを外すと、簡素なスイッチ群が現れる。

「頼むぜ〜、点いてくれよ〜」祈るようにしてスイッチを入れると、低い唸りとともに、部屋の蛍光灯がパチパチと点いた。緑のインジケーターが点滅し、遠くのサーバールームからも、機械音のようなうなりが微かに聞こえ始める。


「Geschafft!(やったぜ)」

ホルガーは廊下を駆け戻った。今度はガラス扉が静かに開いた。青い光が、静寂の中で彼を迎え入れる。

中はひんやりとしていた。空調は止まっているはずだが、機械の発する冷気が漂っているのだろう。ラックの隙間を抜け、彼は中央のメインコンソールへ向かう。そこには1台の端末があり、画面には文字が待機状態で浮かび上がっていた。


<< T.R.L.U. System Standby >>

[Last Sync: May 18th, 20XX]

[Reboot Required]

→ Continue?


「T.R.L.U.……やっぱり、これだ。ここで何かを……やってた」

彼はゆっくりとキーボードに手を伸ばしたが、そのとき──


きぃ、と金属が軋む音が、静寂を裂いた。扉の軋むような、小さな、だが確かな音。

ホルガーは凍りついた。背筋を伝う、異質な寒気。


……誰か、いる。

機械の低い駆動音の向こう、ふたつの足音。バランスの悪い、微妙にズレたテンポ。重い靴音と、乾いた革靴の音。

ホルガーはコンソールの電源を切ることも忘れて、サーバーラックの影に身を隠した。ガラス扉の向こうを、ゆっくりと何かが横切る。


一歩、また一歩。

姿は見えない。だが、足音が確かにそこにある。ホルガーの脳裏に、黒い影が二つ、勝手に浮かび上がる。

小太りの男と、コートを引きずるように歩く長身の影──。


追いつかれた。なんで、ここを知ってる


彼は息をひそめたまま、出口とは逆の通路を目指して這うように移動する。通風ダクト。緊急用の抜け道。逃げるにはそこしかない。

視界の隅で、青い光がまた一度、チカッと明滅した。


   *   *   *


ホルガーは、サーバールームの通気ダクトを這い出た。

狭く錆びた通路を抜けると、そこは地下への階段へとつながっていた。殺し屋たちの足音はもう背後にない。だが、肺は焼けるように熱く、鼓動が耳の奥で雷のように鳴っている。


「見失ってくれりゃいいが……」

冷たい空気がコンクリートの壁を這い、肌を刺す。非常灯がところどころ明滅し、無人の施設にわずかな命を宿していた。


奥へ進むと、金属製の扉がひとつ。半開きで、すき間から古びたエレベーターのシャフトが覗いていた。

ホルガーは顔をしかめた。

「貨物用……? でも、上に行けるかも……!」彼は慎重に中へ足を踏み入れた。

カゴ状のエレベーターはその場に静止している。操作盤は沈黙しているが、シャフトの壁には非常用の昇降レバーがあった。旧式だが、使えるかもしれない。

ホルガーはレバーを引いた。


──カチッ。

小さな音のあと、エレベーターが、急に動き始めた。

「……え?」

上から、ゴウン……と重い何かが降りてくる音。その瞬間、ホルガーの顔が真っ青に変わった。


「違う、違う、上じゃない、上から来るのかよ……!」

反射的に逃げ出そうとした。が、足がもつれた。ドアは自動で閉じかけている。指を伸ばす。間に合わない。

彼はカゴの外へ飛び出そうと――


ズガン!!!!


鉄塊が、真上から降ってきた。

容赦なく、冷徹に、彼の全身を叩き潰した。肉と骨の砕ける音がシャフトに響く。赤いしぶきが壁に飛び、轟音とともに世界が凍った。


……数秒後、エレベーターは沈黙した。

残されたのは、変形した床と、血の痕跡だけだった。


「第三章 2日前 完」

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