第2章
午前6時38分。ホルガーは、重たい瞼をこじ開けるようにして目を覚ました。
「……んん……」
天井が見える。しみ一つない。
ここは……そう、ホテルだ。空港近くの安ホテル。窓の向こうでは、灰色の朝が始まりつつあった。
起き上がると、背中がバキバキ鳴った。
「……おいおい、昨日そんな激しく動いたか俺?」独り言。声は意外としっかりしていた。眠気の中に、奇妙な爽快感がある。
いや、それよりも——「……変な夢、見たような……?」
何かに追われて、空港で、階段で……誰かが銃を——
反射的に、ホルガーは額をさすった。穴、弾痕はない。やはり夢か……
「……まあ、寝汗すげえし。ゲームのやり過ぎだな。エナドリの飲み過ぎかも」そう言いつつ、ベッド脇のエフェクトの缶をつかみ喉へ運ぶ。
プハーッ
丸テーブルには昨夜のままのピザの箱。半分食べて、残りを放置したままだ。チーズがうっすらと膜を張っている。
「食べ物に悪夢の責任を押しつけるのも違うか……いや、チーズの呪いってのもあるか?」冗談をひとつ挟んで、椅子に腰を下ろした。
何となくテレビをつけると、有名な映画女優が新作映画の意気込みを語っていた。ホルガーは無表情でテレビの電源を切った。
もう一口エフェクトを飲んで、ふと思った。あれ?今の女優、自殺したんじゃなかったっけ?
スマホを確認する。ロック画面に通知なし。バッテリーは87%。
「よし、逃亡生活も順調……なのか? 俺、何から逃げてたんだっけ……」
ふと、その「何から」の部分が、自分でも曖昧なことに気づく。
命の危険があるのは確か。でも、それが誰からで、なぜなのか……記憶がどこか曇っている。
「……ま、今はとりあえず空港へ向かうかな。夢にも出て来てたしな」
冗談で誤魔化したつもりだったが、自分の口から出た言葉に背筋がぞわりとした。
——空港。
その単語に、妙に冷たい感触がある。国境を越えるのは飛行機じゃなくてもいいか……
あまりに夢が生々しかったせいか、彼は逃走経路を考え直した。
スマホで付近のレンタカーを検索。空港の近くだけにすぐ見つかった。
ふと、スマホに表示されている日付を見て違和感を感じる。
6月17日——ん?18日じゃなかったっけか?
次々浮かぶ違和感をエフェクトで流し込む。
額に汗が滲む。胸のあたりが妙にざわついていた。理由はわからない。ただ、すぐにここを出た方がいい気がした。ホルガーはジャンパーのファスナーを閉めて、深呼吸をひとつ。
「さあ、脱出だ。安全安心の生活が待ってる……!」
軽口とは裏腹に、心臓の音だけが大きく響いていた。
* * *
安ホテルをチェックアウトしたホルガーは、空港の脇道にあるレンタカー営業所に到着した。朝焼けが曇天に溶け込み、辺りはぼんやりとした光に包まれていた。
「よーし、逃亡生活もいよいよクライマックス!普通なら飛行機で国外逃亡となるところを、あえてクルマにするあたり、さすがですね俺!」独り言は止まらない。止めると不安になるのだ。
借りたのは、グレーのフォルクスワーゲン・ゴルフ。AT車。地味で目立たない。まさに「逃亡中です」と言わんばかりのチョイスである。
「まあ、カーチェイスになるなら、この子に頑張ってもらうしかないな……頼むぞ、ゴルフちゃん」
エンジンをかけると、心地よい震動が掌に伝わってきた。カーナビに国境沿いの村の名前を打ち込む。A9号線を南下し、高速を外れて小道に逸れれば、隣国へ抜けられるはずだ。
* * *
しばらくは順調だった。
スナック菓子をポリポリつまみながら、エフェクトの缶を手に持ち、ラジオではドイツの朝のニュースが流れている。再び例の映画女優が新作の宣伝をしている。
「……やっぱ、生きてるよなぁ……」
そう呟いた瞬間、バックミラーに白い影が映った。
——白のワゴン車。
「ちょ、マジかよ。あれ、昨日……いや、夢で見たやつじゃ?」
ホルガーは反射的に速度を落とし、ウィンカーも出さずに脇道へハンドルを切った。白ワゴンも、そのままついてくる。
「ちょいちょいちょい、なんで来る!? え、ナビ? ナビがバレてんの? それとも俺の顔をナビゲーション!?」
緊張が走る。手汗でハンドルが滑る。
バックミラー越し、白ワゴンの運転席には人影が見えない。いや、見えても見たくない。
「落ち着け、落ち着け俺。いいか、こーゆー時こそ冷静にだな、冷静にテンパるんだ」
言うが早いか、ホルガーはハンドルを切り、近くのガソリンスタンドに飛び込んだ。
わざとらしく給油機のそばに停車し、車を降りると、さも「ただの客です」という顔でエフェクトをすすった。
白ワゴンは通り過ぎた。
——ように見えた。
が、十秒後、ゆっくりとUターンして戻ってきた。
「ですよねー。バレバレっすよねー」
ホルガーはエフェクトの空缶を投げ捨てると、演技過剰なほど慌てたジェスチャーで車に戻った。そして全力で発進。
スピードメーターが跳ね上がる。タイヤが砂利を弾き、景色が後ろへと飛んでいく。
「待て待て待て、こっちは逃げてるだけなんですってば! 撃つな!いや、まだ撃ってないけど、たぶん撃つ気でしょ、知ってるんだからな俺!」
道路標識が高速道路を外れることを告げた。国境の小道は近い。
そのときだった。バックミラーの中、ワゴン車の窓がスッと開いた。何かが突き出される。
銃だ。小さいが確かにそれは銃だった。
「ほらねーーーッ!」
ホルガーはステアリングを大きく切り、横道へと滑り込んだ。
砂煙が巻き上がる。細い林道。舗装の剥がれたグラベル。車体がギシギシと音を立てて跳ねる。
「あんなボロワゴンに追いつかれるかよ!こっちは名車フォルクスさんちのゴルフだぜ!」
そのまま林道を駆け抜け、運が味方したのか、ようやく白ワゴンの姿がミラーから消える。
ホルガーは荒い息をつきながら、アクセルを踏み続けた。
額には汗。手にはエフェクトの缶。脳内では警告音が鳴りっぱなしだった。
白ワゴンが見えなくなって逆に、ゾッとしてきた。エフェクトの缶を手汗で滑らしそうになる。
「……なあ。これ、ほんとに現実か?」
誰にも聞こえない問いに、車のエンジン音だけが答えた。
* * *
林道はしばらく続いていた。
舗装が剥げかけた細道を、ホルガーのフォルクスワーゲン・ゴルフは軽快に走っていく。樹木が左右から覆いかぶさるようにして道を囲み、日光を散らしていた。
追手の白ワゴンは見えない。
「そろそろ、勝利BGMでも流していいんじゃないの?」
ラジオのボリュームを上げる。古いポップスのイントロが流れてきた。
『99 Luftballons』――戦争を呼ぶ赤い風船の歌。子どものころ、ゲームをしながらよく聴いた。メロディに合わせてホルガーは鼻歌を歌いはじめ、すぐにフルボーカルでノってくる。
「Neunundneunzig Luftballons~♪ Auf ihrem Weg zum Horizont~♪」
片手はステアリング、片手にはエフェクトの缶。もう安全だと思っていた。
が、バックミラーに巨大な影が現れた。
エフェクトを吹き出し心臓が止まりそうになる。だが、それは大型のトラックだった。濃いグレーの車体。荷台にはロゴもなく、どこか不気味な無名性があった。
「うわ……びっくりしたー。脅かすなよ。エフェクトでビシャビシャになっちったじゃーねぇか」ホルガーは軽く減速し、様子をうかがう。トラックは無言でピタリとついてくる。
だが次の十字路で、それは左に折れて消えていった。
「……なんだよ。ビビらせやがってよ〜」安堵の息。ミラー越しの景色は再び静けさを取り戻す。が、その安堵は三秒しかもたなかった。
バックミラーに、まるで切り替わる場面のように、あの白いワゴン車がヌッと現れた。
「シャイセ!(クソッ)」
距離が縮まる。ミラーに映ったフロントガラスの向こう、二人の人影が見えた。ひとりは表情のない小太りの男。顔に皺はないのに、年齢不詳の無機質さ。もうひとりはガリガリの長身男。歯を見せて笑っている。いや、口元がずっと動いている。しゃべっている。何を? どうでもいい。聞きたくない。
空港で見た奴らに間違いない。夢で?やっぱ夢じゃない?
「ここはアウトバーンじゃねーんだぞチクショウ!」
ホルガーはアクセルを踏み込む。エンジンがうなりを上げ、ゴルフは林道を滑るように走った。
しかし前方、道路をふさぐようにしてバスが一台、のんびりと走っていた。
「だーーマズい、これはマズい!ひどいよあんまりだぁ!」
観光バスだろうか?年寄りを大勢乗せて制限速度で走っている。反対車線の対向車は――見えない。
行くか、止まるか。どうする?どうすんだオイ!ホルガーの脳内で冷静な判断とパニックが綱引きしている。
——パンッ!
乾いた音が響く。ミラーが吹き飛び、助手席のガラスに小さな穴が開いた。
「撃った!マジで撃った!ほらねって言ったのに撃ったーーッ!」
恐怖がブレーキを破壊した。ホルガーはハンドルを切り、強引に反対車線へと車を滑り込ませた。
バスを追い越す。ギリギリの距離。対向車は——
「ト、トラ、トレー……らー……」
目の前。巨大な車体が迫ってくる。白と赤のフロント。逃げ場はない。
ドガァァァァァァン!
視界が白に染まり、鼓膜が破れ、エフェクトの缶が空中で回転した。
フォルクスワーゲン・ゴルフは一瞬でスクラップになり、ホルガー・シュプルーデルの意識は爆発の閃光とともに、ふっと途切れた。
「第ニ章 1日前 完」
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