回帰点.
豊臣 富人
第1章
午前5時32分。ベルリンの夜はまだ完全には終わっていなかった。
ホルガー・シュプルーデルは、シェーネフェルト空港が見える安ホテルのベッドの上で目を覚ました。いや、目が勝手に覚めたという方が正しい。どこかで鐘が鳴った気がする。もしくは、夢の中でゾンビに食われる直前だった。
「……コンティニューは、どこで……?」
寝言のように呟いたあと、咳き込みながら上体を起こす。昨日遅くまで……いや、さっきまでプレイしていた、日本製のゾンビ脱出ゲームの影響で、夢と現実があやふやになっていた。
喉がからからだ。肺の奥がチリチリする。全身が鉛のように重い。ペットボトルに手を伸ばすが、空だった。そもそも中身が何だったかも思い出せない。
「目が覚めたってことは、毒じゃないんだろうね」
そして何より、空腹。最悪の朝だ。
スマートフォンの日付は6月18日。
何となくテレビをつけると、有名な映画女優が自殺したニュースをやっていた。
「美人なのにもったいない。セレブなりの悩みってやつかねえ」
ホルガーはテレビを消して、部屋を見回した。
灰色のスーツ、脱ぎ捨てられた靴、空のペットボトル。
サイドテーブルには飛行機のチケットとパスポート。はて?どこへ行こうとしてたんだっけ?
考えようとするたびに、頭の中の配線がショートする。
まるでセーブデータが破損しているように、記憶の大部分が読み込めない。
だが、「これはヤバいやつだ」という感覚だけは、やたら鮮明だ。内蔵警報が全身で鳴っている。
洗面台に向かう。鏡に映ったのは、小太りの中年男。
汗で髪がぺったりと額に貼り付き、目の下にくっきりとクマが浮かんでいる。
「……もうちょっとゾンビ寄りかと思ったが、意外と人間だな」ぼそりと呟いて、口元に苦笑を浮かべた。顔は思い出せないが、声には聞き覚えがあった。たぶん、これが「自分」だ。
机の上のレシートを見ると、「Schönefeld Flughafen(シェーネフェルト空港)」の文字。空港近くのコンビニで買い物をしたらしい。パンと、Effect(ドイツ製のエナジードリンク)を四本。偏食気味な自分の傾向にも、どこか納得がいった。
彼は自嘲気味に笑った。
「まぁいいさ。ローグライクってのは、死んで覚えるゲームなんだから」言ってから、自分の言葉がやけに重く響いたことに気づく。
* * *
午前6時13分。ベルリン郊外、シェーネフェルト空港へ向かうタクシー車内。
ホルガーは、後部座席でしきりに太ももを揺らしながら、スマートフォンを握りしめていた。だが画面はつかない。電源は切れていた。というか、そもそもこの機種、自分のものだったか?
「電池切れか……スマホゲーのやり過ぎだな」
フロントガラスの向こう、ベルリンの朝が白々と広がっていた。霧のように湿った光が、街並みに影を落としている。タクシーは広い幹線道路を滑るように進み、周囲には建設途中のビルと、廃墟のような倉庫が交互に並んでいた。
運転手は無言で、やや脂ぎったハンドルを握っている。バックミラー越しに彼の目が時おりホルガーを盗み見ていた。会話は一言もない。GPSの電子音だけが時折、静寂を破る。
「ねえ、空港って、混んでる?」
気まずさに負けて、ホルガーがつい口を開いた。だが運転手は答えない。代わりに、ルームミラーでひと睨みしてから、窓を少しだけ開けた。冷たい朝の空気が、ぬるい車内に流れ込んできた。
「……ま、いいか。ノンプレイヤーキャラなんだろ」独り言のように呟く。自分の声が、自分のものとは思えなかった。なんというか、吹き替え音声みたいだ。
——見られている
記憶は曖昧でもこの感覚はハッキリしている。むしろ、それだけが彼を動かしていた。
視線を車外に向けると、白いワゴン車が一台、タクシーと並走していた。窓は黒く塗られていて、中は見えない。だが、直感が告げていた。
……まさか、あれか?
汗が噴き出す。自分でも呆れるほど、手のひらがぐっしょり濡れている。まるで、ゾンビに追われるステージに突入したみたいだ。
タクシーが空港近くの交差点で停車した。信号が赤になったのだ。ふと見ると、さっきのワゴンも横に止まっていた。隣の車線、運転席の窓が、ほんの少しだけ下がる。
ホルガーは、咄嗟にうつむいた。自分の顔を見られてはいけない——何となく、そう思った。
——そうだ。俺は追われてる。何でかは忘れたけど、捕まったら終わりだってことは何となく覚えている。
信号が青に変わる。タクシーは静かに再発進した。白いワゴンはそのまま、裏道へと消えていった。
ホルガーはそっと、息を吐いた。
* * *
午前6時38分。シェーネフェルト空港、到着ロビー。
ホルガーは、自動ドアをくぐった瞬間に「しくじった」と思った。
あまりに人が少ないのだ。
早朝の空港ロビーはガランとしていて、スーツケースのキャスター音がやけに反響していた。屋内なのに風の音すら聞こえる気がする。人工的な静けさの中に、ピリピリした何かが漂っていた。
「こんな時間に小太りオジサンが一人でいたら目立っちまうかな〜」
緊張をごまかすように呟いてみたが、声は虚しく空気に吸われていった。
案内掲示板を見る。目的地も、便名も、もちろんわからない。自分は何から逃げているんだ? 何をしたんだ? そうかチケットを見れば……どうやら目的地は「プラハ」らしい。こりゃ本気で逃げてるやつだ。
脳内に走る静電気のような混乱を振り払い、ホルガーはとにかく前へ進んだ。
ベンチに座ると、頭を抱え込む。隣にはスーツ姿の男が眠っている。異様に静かな空港の中で、彼だけが完全に無防備だった。
「なあ、どの飛行機に乗ればいい?」と尋ねてみたが、男は反応しない。
「……はあ、ここら辺にはプレイアブルキャラはいないのか?」
そのとき、——金属音。
ホルガーの鼓膜が異様に敏感になったのか、床に何かが落ちる音が空気を裂いたように響いた。
顔を上げる。ロビーの入口近く。
——さっきのワゴン。
見間違えるはずがない。白くて窓が黒い、あの車が構内の外に停まっている。そこから、二人の人影が現れた。
一人は、ホルガーに似た体型の小太りの男。もう一人は、異様に背が高く、コートの裾が地面を引きずっていた。二人とも、笑っていなかった。目線だけが、獲物を追う鷹のように冷たかった。
「うわやっぱり……あのワゴン……俺に用があんのか?」
ホルガーは背中から冷や汗を噴き出しながら、ゆっくりと立ち上がった。スマホを取り出す。反応なし。ポケットには何もない。頼れるのは、自分だけ。
「よし、逃げる、逃げるぞ」
誰にともなくそう呟き、スーツケースを置いて足を引きずるようにして搭乗ゲートの方向へと歩き出した。
「……逃げる理由も、覚えてないのにな」
ぼそりと呟いたその瞬間、足音が一つ、増えた気がした。
その背後。
二人の彼らが、無言でゆっくりと追い始めた。
おい、慌てんな。これはゲームじゃない。そうそう殺されたりはしねーだろうが。
非常口の扉を抜けると、そこは無人の裏通路。誰の気配もなく、空気だけが湿っていた。
その先は業務用エリア。やはり誰もいない。照明は半分が落ちていて、廊下の奥は薄暗い。
「……ええと。こっちは、従業員用です。一般のお客様はご遠慮ください…と」誰にともなく呟いた言葉が、自分で空しくなる。不安は、口にすると倍になるタイプのようだ。「一般的な状況じゃないからOKでしょ」
階段があった。下りるしかない。逃げ道なんて、もとからなかったし。
ホルガーは手すりをつかんで駆け下りる。靴音がコンクリートに吸い込まれていく。水気を帯びた空気。消毒液とコーヒーの混じったような臭い。どこかがずっと唸っている。
背後の気配が、消えていない。
「……何で誰もいないんだよ……今日は臨時休業かよ……!」
何段下りただろう。身体が熱い。汗が耳の裏を伝って落ちる。ようやく踊り場にたどり着いたときだった。
——いた。
階段の曲がり角の先。そこに一人、立っていた。長身。痩せぎす。コートの裾が床を引きずっている。顔は照明の影に沈んで見えない。ただ、その目だけが、まるでスナップ写真のように静止して、こちらを見ていた。
「……あー……えーと……すみません、こっちは関係者以外立ち入り禁止っすよ?」
口が勝手にふざけはじめていた。ホルガーは緊張するとジョークを言う癖がある。その声が、自分のものとは思えないくらい乾いていた。
視線の気配が、もうひとつ。
振り向くと、背後の階段にも一人いた。自分と似た体型。黒いジャンパー。太った体に似合わないほど静かな足取り。
そして、銃を取り出した。
「……お、おいおい、マジかよ。しまいなさい!そんなもの、危ないから!」笑いにならない声が喉の奥で転がった。
脳が混乱している。脚が震えている。視界の端がぐにゃりと曲がった気がする。
それでも言葉は止まらない。
「待って待って、まだチュートリアルが……いや、なんでもない、撃つな、撃つ…」
何かが光った。銃口。
音はなかった。だが、世界のどこかで何かが壊れる音がした。
身体が急に軽くなり、同時に頭が遠くなった。
視界が反転する直前、ホルガーは思った。
「あ、俺、やられたな」それだけだった。
「第一章 初日 完」
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